元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

いじめは“あって当たり前”と認識せよ。

2006-10-18 06:45:54 | 時事ネタ
 福岡県筑前町でのいじめ自殺事件、常識外れの教師と事なかれ主義の権化みたいな学校当局の態度に対して非難が巻き起こっている。当然私も学校側を糾弾したい気持ちが強いが、正直言ってこの局面で今さら“学校は何やってんだー! 自己反省しろー!”などとシュプレヒコールをあげても、結局は“一時的なもの”に終わってしまう気がする。

 私の経験から言えば、学校の先生などという“人種”は、世間知らずのロクデナシだと思ってまず間違いない。もちろん中には立派な教師もいる。だが、ダメな教師はその何倍もいる。今回の事件で教師がいじめの片棒を担いでいることが話題になっているが、私の中高生時代にはそれ以上の奴がゴロゴロしていた(断っておくが、いわゆる“問題校”ではない。普通の公立学校だ)。ストレス解消のために生徒を意味もなく殴ったり、罵倒したり、果ては“オマエのとうちゃんは○○だから、オマエも勉強が出来ないのだろう!”と明言する奴もいた(○○の部分は放送禁止用語につき自主規制)。そうそう、聞いた話によると、いじめられて職員室に相談に行った生徒が“弱いからいじめられるんだ。オマエみたいな弱い奴は、いない方がスッキリする”と居合わせた教師全員から言われて、転校を余儀なくされたという。

 もちろんこれは昔の話だが、たぶん今も傾向としてそんなに変わっていないと思う(今回の事件がそれを証明している)。こういう状況の中で、やれ“いじめをなくそう!”と言ってみても、屁の突っ張りにしかならない。

 私は“いじめは絶対悪であり、あってはならない”という意見自体に賛同できない。いじめは“あってはならない”と存在自体を(善悪論がらみで)頭から否定するのではなく、最初から“あって当たり前のもの”と達観すべきではないのか? 本当はみんな薄々分かっているんだと思う。いじめは昔からあって、今後も絶対なくならないってことをね。

 “教師”という名の無能な輩が多数徘徊し、その中で閉鎖的な団体生活を送らなければならない環境においては、いじめはあって当然だ。よく“いじめられる方が悪い”などと利いた風な口を叩く者がいるが、それは全くの間違いではないものの、たぶん8割方は的はずれな意見だ。欠点のない人間が存在しないように、他者から突っ込まれるスキのない奴もいない。いじめの原因は何だっていい。たまたま運の悪い人間が標的になるのだ。

 彼の遺書に「おとうさん、おかあさん、ダメ息子でごめんね・・・・」という一節があるという。これは重要な問題を含んでいると思う。どうして彼は「ダメ息子でゴメン」などと卑屈になる必要があったのだろうか。そういう後ろ向きの負い目の感情---正しくは“後ろ向きにならざるを得ない状況”---が事態の顕在化を阻害し、悲劇に結びついたのではなかろうか。

 もちろん、いじめに遭った者は(多くの場合)本人に落ち度はない。いわば交通事故と同レベルの現象だ。“自分はいじめられている弱くてダメな人間だ”みたいに一人で自己批判する必要はない。堂々と親に相談できるような、そんな環境を作る方が先決ではないか。

 あと、彼の父親が“学校にあっては先生は親代わりみたいなもので・・・・”みたいなことを述べていたが、残念ながらそれは違う。本人の親は本当の両親・保護者以外には存在しない。教師に“親代わり”を期待してはいけない。教師は学校という“職場”の(出来の悪い)従業員に過ぎない。

 繰り返す。まず大事なのは“いじめは絶対悪である。いじめをなくそう!”というのは単なるスローガンでしかないことを親も生徒も認識すること。次に、いじめに遭うのは(たいていの場合)本人が弱いからでも落ち度があるからでもなく、本人にとってはアクシデントに過ぎないことを理解すること。つまりは、いじめられたことにより負い目を感じる必要は微塵もないってことだ。遠慮なく親に相談すべきだし(場合によっては弁護士にも)、親も普段からそういう雰囲気作りに配慮することだ。

 そして一番のポイントは、学校や教師を絶対信用してはならないこと。“学校側が何とかしてくれるだろう”と思ったら、もう終わりだ。

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