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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ジュラシック・ワールド 新たなる支配者」

2022-09-05 06:20:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JURASSIC WORLD: DOMINION)概ね納得できる内容だと思う。もちろん、突っ込みどころは多々あり、ウェルメイドな出来とは言えないだろう。しかし、長きに渡って続いたこのシリーズの完結編としては容認できる。今までの辻褄をすべて合わせようとすれば、一本の映画ではカバーできない。かといって、今さら別の方向にストーリーラインを変えて目新しさを狙うのもリスクが高い。だから、今回のようなレベルで丁度いいのだ。

 4年前、かつてジュラシック・ワールドがあったイスラ・ヌブラル島が噴火で壊滅し、救出された恐竜たちは逃げ出して世界各地で繁殖するようになってしまった。ジュラシック・ワールドの元恐竜監視員のオーウェン・グレイディと同ワールドの管理者であったクレア・ディアリングは、パークの創設者ロックウッドの孫娘(実はロックウッドの死亡した娘のクローン)メイジーを守りながら、シエラネバダ山脈の人里離れた山小屋で暮らしていた。



 ある日、オーウェンは子連れのヴェロキラプトルのブルーと再会。しかし、その子供とメイジーが何者かに誘拐され、オーウェンはクレアと共に救出に向かう。一方、恐竜の研究を総合的に引き受けている巨大バイオテクノロジー企業のバイオシンに関する醜聞を追うエリー・サトラー博士は、旧友のアラン・グラント博士の協力を得て、同社の研究所に乗り込む。そこにすでに勤務していたイアン・マルコム博士は2人に手を貸すが、バイオシン社のCEOであるルイス・ドジスンは、それを妨害する。

 オーウェンが設立を目指している恐竜保護区が、とても恐竜の生存に適しているとは言えないエリアだったり、彼が恐竜を捕獲するシーンも違和感満載だ。バイオシン社の目的(悪だくみ)は“誰でも考え付くようなレベル”でしかない。そもそも、途中で一時的にクリーチャーの“主役”が恐竜からバイオシン社謹製の巨大イナゴに置き換わるという筋書きも、完全に無理筋である。

 しかしながら、少なくない欠点があることを承知の上で本作を認めたい。それは、恐竜をあえて“脇役”に据え、生身の人間中心のアクション編に徹しているからだ。恐竜の造形などは前作までにアイデアが出尽くしていて、今さら重要視しても第一作(93年)のインパクトには及ばない。その意味で、この割り切り方は賢明だ。



 世界を股にかけて(?)飛び回るオーウェンとクレア、そして謎の研究所に潜入するエリーとアランの描き方は、まるでジェームズ・ボンド映画のノリだ。特にマルタ島でのチェイス・シーンはかなり盛り上がる。クライマックスの大炎上も、007シリーズでよく見かけるバターンだ。ラストはSDGsを意識したと思われる処置だが(笑)、これで良いと思う。

 コリン・トレボロウの演出は突出したものは感じられないが、147分という尺を退屈させずに乗り切っている。キャスト面で嬉しいのは、前回から引き続き登板のクリス・プラットとブライス・ダラス・ハワードをはじめ、ローラ・ダーン、ジェフ・ゴールドブラム、サム・ニール、B・D・ウォンと、今までのシリーズの出演陣がカーテンコールのように顔を揃えていること。最終作に相応しい扱いだ。ディワンダ・ワイズにマムドゥ・アチー、イザベラ・サーモン、キャンベル・スコット等の他の面子も悪くない。
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「スパイダーヘッド」

2022-08-28 06:20:28 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SPIDERHEAD)2022年6月よりNetflixにて配信されたSFスリラー。これは面白くない。アイデアは陳腐だし、展開は凡庸。大して予算も掛けられなかったようで、画面いっぱいにショボさが横溢している。またプロデューサーが(クレジットを見るだけで)8人も存在していることから、どうもコケた際の責任を希釈するような意図も感じられて、愉快になれない。

 とある孤島に建つ“スパイダーヘッド刑務所”では、天才的な科学者であり経営者でもあるスティーヴ・アブネスティの管理により、受刑者たちを対象にした人体実験がおこなわれていた。それは彼らに人格を変える各種ドラッグを無理矢理に注入し、その様子を観察するというものだ。そんな中、過去の行為に関する罪悪感に苛まれている受刑者のジェフは、一応模範囚としてスティーヴの実験を手伝ってはいるが、この刑務所の状態に疑問を抱いていた。ジョージ・ソーンダーズによる小説の映画化だ。

 マッドサイエンティストが囚人を相手に怪しげな人体実験をするという設定自体、過去に何度も目にしたようなネタで新味は無い。しかも、スティーヴがこの実験にのめり込む理由も示されていない。取り敢えずは“人間心理をコントロールすることによってトラブルの無い世界を作る”みたいなことが謳われるが、漠然とした御題目に過ぎず、説得力に欠ける。SFミステリーらしい思い切った筋書きや、観る者を驚かせるような映像処理も存在せず、平板なまま映画はエンドマークを迎える。

 監督のジョセフ・コジンスキーは「トップガン マーヴェリック」のヒットの余波で本作を手掛けたように思えるが(笑)、まるで精彩がない。演出テンポはかなり悪く、上映時間が107分なので大して長くはないのだが、時間が経つのが遅く感じられる。終盤の脱出劇も緊張感は無い。映画の舞台を離島にしたメリットは希薄で、閉塞感の欠片も無い。

 ならばキャストの仕事ぶりはどうかといえば、こちらも低調だ。スティーヴに扮するクリス・ヘムズワースはマーベル映画の印象が強い上、本作のように悪役に回ると大根に見えてしまう。ジェフ役のマイルズ・テラーは奮闘しているとは思うが、役柄が曖昧なので評価出来ず。ジャーニー・スモレット=ベルやテス・ハーブリック、マーク・パギオといった他の面子もパッとしない。
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「仁義なき戦い 代理戦争」

2022-08-19 05:13:50 | 映画の感想(さ行)
 73年東映作品。人気シリーズの第三作だが、実質的には同年初頭に公開された第一作の続編に当たる。正直言ってプロットはパート1よりも複雑で、分かりやすい映画とは言えない。だが、尋常ではない熱量の高さと濃すぎるキャスティングにより、見応えのあるシャシンに仕上がっている。この頃の邦画のプログラム・ピクチュアは、まだまだ勢いがあったと思わせる。

 昭和35年4月、広島市随一の規模を誇る暴力団である村岡組のナンバー1が、他の組とのトラブルで殺されてしまう。ところが村岡組傘下の有力者である打本昇は、この事態の収拾に及び腰だったため、たちまち村岡組の跡目争いが勃発する。一方、同系列の山守組を預かる山守義雄も村岡組の後継争いに参画。人望がある広能昌三を強引に山守組傘下に復縁させ、打本らを説き伏せて山守への権限委譲が成立したかに見えた。



 ところが打本が別件のいざこざにより神戸の広域暴力団である明石組に助けを求めたことから、状況は一変する。山守は明石組に対処するため、同じ神戸の神和会との縁組みを企む。かくして、関西の大手組織同士の代理戦争が広島で大々的に展開することになる。

 概要だけ見れば広島を舞台にした関西の二大暴力団の覇権争いなのだが、広島の地元勢力も明確に2つに分かれてはおらず、それぞれの事情によって場当たり的に所属派閥を変える。それこそ“仁義なき戦い”なのだが、すべてが欲得ずくで動いているわけではなく、昔ながらの義理と人情も完全には廃れていない。それが本作においてストーリーを追うことを難しくしている証左でもあるのだが、言い換えれば実際は部外者が思うほど事は単純ではなく、複雑な離合集散が延々と描かれているのは現実に近いのかもしれない。

 監督はお馴染みの深作欣二で、熱量の大きいヤクザ群像を骨太のタッチで描ききっている。しかも、この密度の高さを実現していながら1時間40分ほどの尺に収めているのは、まさに職人芸だ。

 そして何よりキャスティングの充実ぶりは圧倒的。狂言回しの広能に扮した菅原文太をはじめ、川谷拓三に渡瀬恒彦、金子信雄、田中邦衛、成田三樹夫、山城新伍、加藤武、室田日出男、丹波哲郎、梅宮辰夫と、それぞれが出てくるだけでスクリーンを独占してしまうような存在感の持ち主で、また彼らがもういないことを考え合わせると、切ない気持ちでいっぱいになる。残念ながら、今の邦画界には本作の出演陣のようなスター性とアクの強さを兼ね備えた濃い面子はほとんど存在しない。そういった観点からも、日本映画の将来は明るいものではないことを、改めて思う。
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「その場所に女ありて」

2022-07-15 06:25:56 | 映画の感想(さ行)
 鈴木英夫監督による昭和37年東宝作品。働く女たちの哀歓を描いた、いわゆる“女性映画”だが、これは観ている間に何度も“ほーっ”と感嘆の溜め息が出るようなウェルメイドな仕上がりだ。何より素材を扱う際にフェミニズムだのマッチョイズムだのといった余計なイデオロギーの視点が入っていないのが良い。作者のスタンスはあくまでナチュラルだ。

 主人公の矢田律子は西銀広告の社員。仕事は出来るが、周りの女性スタッフにはあまり恵まれていない。それでも懸命に頑張っている。彼女たちの次の営業ターゲットは、難波製薬が発売する新薬の広告だ。ライバル会社の大通広告も必死で食い込もうとする。そんな中、難波の宣伝課長である坂井が律子に接触する。大通広告も難波のスタッフを巻き込もうと暗躍し、2つの広告会社の競争は熾烈を極めていく。鈴木と升田商二の共作によるオリジナル脚本の映画化だ。



 鈴木監督は登場人物をすべて“一個の人間”として先入観なしに徹底的に描き込む。つまりはキャラクターをハッキリするという土台の上ではじめて映画の設定をのっけているわけで、どこぞの映画みたいに設定からキャラクターを無理矢理デッチ上げるような愚を犯していない。だからこそ、この映画には悪役も善玉もいない。たまたま主人公にとって敵にも味方にもなる人物が“設定上”存在するだけの話で、それぞれのあり方を糾弾も美化もしない。その状況に向き合って精一杯生きる登場人物たちをクールに描くだけだ。

 各キャラクターの造形がしっかりしているからこそ、観る者は自由に劇中の誰かに自分を投影し、その思いを共有することができる。お仕着せではない情感に酔うこともできる。切なさと痛々しさに感じ入ったりもできる。それを可能にする鈴木監督の堅牢極まりない演出力には脱帽あるのみだ。ラストのまとめ方も、ストイックで余韻が残る。

 そして有能なキャストの面々、主演の司葉子をはじめ宝田明や原知佐子、山崎努や大塚道子、児玉清、浜村純、西村晃などの分をわきまえた的確な演技が光る。ダメ男に惚れ込む身持ちの悪い女を森光子が嬉々として演じているのもうれしい。池野成の音楽と、逢沢譲のカメラによる撮影も言うことなし。後年のキャリアウーマンを描いたハリウッド作品なんかとは完全に一線を画す、女性を主人公にした映画の傑作である。
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「シン・ウルトラマン」

2022-07-02 06:11:05 | 映画の感想(さ行)
 明らかな失敗作だ。これは樋口真嗣と庵野秀明とのコンビの前作で評判の良かった「シン・ゴジラ」(2016年)と比べてみると、不備な点が明確になる。それは「シン・ゴジラ」が絶対悪であるモンスターと人類との一騎打ちという単純な図式を採用していたのに対し、本作は“現実世界に現れたヒーロー”という、一筋縄ではいかない構図を創出する必要がある。しかし、この映画はそのあたりがまるで精査されておらず、これでは評価するわけにはいかない。

 “禍威獣(カイジュウ)”と呼ばれる謎の巨大生物が次々と現れて、甚大な被害をもたらすようになった近未来の日本。政府はこの災厄に対処するため、各分野のスペシャリストを集めて“禍威獣特設対策室専従班”(通称:禍特対)を設立。班長の田村君男をはじめとする各メンバーは、日々困難なミッションをこなしていた。そんなある時、大気圏外から銀色の巨人が突如出現し、禍威獣と戦い始める。この事態に備え禍特対には新たに分析官の浅見弘子が配属され、隊員の神永新二と共に任務に当たる。



 まず、ウルトラマンが地球にやってきた理由が示されていない。昔のTVシリーズではそのあたりが平易に説明されていたのに比べると、随分といい加減だ。そして、突然飛来したこの謎の巨人を、大した困惑も議論も無しに皆がヒーローとして受け入れている不思議。実社会におけるヒーローのあり方を巡って試行錯誤を続けるアメリカのマーベルやDC作品とは、完全にレベルが違う。

 それに、禍威獣がなぜ主に日本にしか現れないのか、ほとんど詳説されていない。禍特対には専用のメカが備わっていないにも関わらず、彼らの主な仕事場は禍威獣が暴れているポイントの近くで、しかも全員どういうわけか現場作業には馴染まないスーツ姿。神永隊員に至ってはヘルメットも被らずに危険な人命救助に赴く。

 登場する禍威獣はネロンガにガボラ、ザラブ星人と、あまりスクリーン映えしない顔ぶれ。どうしてバルタン星人やレッドキングやゴモラなどの濃い面子を出さないのか、実に不満だ。メフィラス星人が暗躍するのはまあ良いとして、ゾーフィとゼットンとの関係など、無理筋の極みである。カラータイマーが無いウルトラマンの造形は違和感を拭えないし、ゾーフィのデザインもセンスが良いとは思えなかった。

 庵野秀明の演出スタイルは「シン・ゴジラ」を踏襲しているが、人類側の“事情”が上手く組み上げられていないため、ただ各キャラクターが早口でセリフを流しているだけという感じ。しかも、それが却ってスキル不足のキャストを目立たせている。いつも通りの長澤まさみ御大をはじめ、有岡大貴に早見あかりといったアイドル畑からの人材、さらに十分な演技指導無しでは大根方面に振られてしまう斎藤工と西島秀俊の仕事ぶりなど、かなり弱体気味だ。良かったのはメフィラスに扮した山本耕史ぐらいだろう。

 本作を観終わって思ったのは、この映画の前に「シン・ウルトラQ」(仮題)の製作が必要だったのではないかということだ。そこで禍威獣たちの“プロフィール”をじっくり描き、禍特対の結成プロセスにまで繋げれば、今回のウルトラマンの登場も説得力が増したかもしれない。
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「シング・ア・ソング! 笑顔を咲かす歌声」

2022-06-18 06:14:52 | 映画の感想(さ行)
 (原題:MILITARY WIVES)監督が「フル・モンティ」(97年)のピーター・カッタネオということで、本作もあの映画と同じ印象だ。つまりは、題材は面白そうだが中身は薄味で求心力に欠ける。観る者に感銘を与えるような骨太な物語性は存在せず、あまりストレスも覚えずサラリと映画は進むのみ。肌触りは良いが、鑑賞後にはあまり記憶に残るようなシャシンではない。

 2009年、アフガニスタン紛争に介入したイギリスは現地に多数の兵士を送り込んでいたが、その家族は軍基地で暮らしながら遠征した者の無事を祈るしかなかった。ストレスを抱える従軍兵士の妻たちは、共に苦難を乗り越えるための活動として合唱を始めることにする。主宰者は大佐の妻ケイトと、思春期の娘に頭を悩ませるリサだ。素人ばかりのメンバーで最初は歌声はまったく揃わなかったが、努力の甲斐あって次第にサマになってゆく。そんな合唱団のもとに、毎年開催される戦没者追悼イベントへの招待状が届く。実話をもとにした一編だ。



 このムーブメントはメディアに注目され、やがて全英を巻き込むようになったらしいが、そのようなドラマティックな御膳立ては出てこない。ただ“何となくそうなった”という印象しか持てない。実際には紆余曲折はあったはずだが、映画では深く描かれず、せいぜいが追悼イベントの当日にちょっとしたトラブルが発生する程度だ。

 キャラクター設定も弱い。ケイトは一人息子をアフガン派遣で亡くしているにも関わらず、あえて平静を装っているが、その喪失感がほとんど伝わってこない。リサも一見賑やかだがその内面は掘り下げられていない。他のメンバーは外見こそバラエティに富んでいるが、存在感に欠ける。そもそも、発表するオリジナルの楽曲はいつ出来てどのように練習したのか分からない。

 それでも、彼女たちが歌う80年代ヒット曲の数々は懐かしいし、イギリスの田舎の風景は味がある。主演のクリスティン・スコット・トーマスとシャロン・ホーガンをはじめ、グレッグ・ワイズ、ジェイソン・フレミング、エマ・ラウンズ、ギャビー・フレンチといった面々は、いずれも申し分のないパフォーマンスを見せており、その点は評価できる。
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「その人は 昔」

2022-06-17 06:22:47 | 映画の感想(さ行)
 1967年東宝映画。当時人気絶頂だった歌手の舟木一夫がデビュー3周年を記念して作った同名のコンセプト・アルバムを元にした作品で、監督は「人間の條件」シリーズ(1959年より)や 「名もなく貧しく美しく」(1961年)などの松山善三。音楽は同アルバムを担当した船村徹が受け持っている。

 北海道の日高地方の漁村に住む若者(舟木)と少女(内藤洋子←娘の喜多嶋舞よりカワイイ ^^;)は、過酷な労働に追いまくられる生活を嫌い家出同然に上京するが、都会のせち辛さは二人の淡い期待を裏切り続け、そして・・・・というストーリー。この悲しい結末は当時の映画の傾向を表しているのかもしれないが、それ以上に、一片の救いもないドン底の展開を見せられるにつけ、松山監督の過度の被害者意識を印象づけられる。だからダメな映画かというとそうじゃなくて、そういう激しい思い込みが異様な迫力で画面を横溢し、圧倒されてしまった。



 いちおう“歌謡映画”という体裁の作品で、最初から最後まで歌の連続であり、ほとんどミュージカルといっていい。楽曲の数なんて、一時期のハリウッド作品やインド映画などより多い。しかも、歌唱シーンはけっこう凝っている。ここまで力いっぱいやられると、ダサさを通り越して感心するしかない。内藤が歌う「白馬のルンナ」は元々この映画の挿入歌だったことを本作を鑑賞して初めて知った。山中康司に金子勝美、生方壮児、小沢憬子といった他の面子は正直言ってすでに現在では知られていないが、皆悪くはない演技をしている。

 余談だが、私はこの作品を某映画祭の特集上映で観た。しかしながら、すでにフィルムの劣化が激しく、全編赤く退色してしまっていたのには呆れてしまった。本作はビデオ化はされていたようなので、市販ソフト版はそのような有様ではないとは思う。しかしながら、たぶんフィルムの保存状態が悪くて半ば“埋もれてしまった”作品は他に少なからずあるのだろう。そういえば、大昔のプログラム・ピクチュアの中にはジャンクされてしまったシャシンが多数あると聞いたことがある。フィルム・アーカイブの重要性を改めて痛感した。
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「女子高生に殺されたい」

2022-06-05 06:22:36 | 映画の感想(さ行)
 いかにもキワモノ臭いネタを扱った映画で、普通ならば敬遠するようなシャシンだが、そこは城定秀夫監督、見応えのあるサスペンス編に仕上げていた。さらには原作が快作「帝一の國」などの古屋兎丸なので、よく考えれば駄作にはなりそうもない陣容だ。上映館の数は少ないものの、もっと注目されて良い作品である。

 地方都市の高校に赴任してきた若手教師の東山春人は、その甘いマスクとマジメな仕事ぶりにより、瞬く間に生徒たちから絶大な人気を得る。ところが彼は、とある女生徒に殺されたいという特異な欲望を持っており、そのために彼女が在籍するこの学校に入り込んだのだ。しかも文化祭の当日に彼が理想とする手口で最期を迎えるべく、周到に準備を進める。しかし、春人の元恋人で臨床心理士の深川五月がスクールカウンセラーとして着任するに及び、彼の計画は揺らぎ始める。



 自分が殺されることに性的興奮を覚える精神疾患なんか有り得ないと思っていたら、このオートアサシノフィリアという嗜好は実在するらしい。それは別にしても、主人公の春人はこのテイストに現実感を持たせるに相応しいキャラクターだ。演じる田中圭はまさに絶好調で、困難にぶち当たっても計画を遂行させるべく身悶えして粉骨砕身する有様は、変態俳優として目覚ましい存在感を発揮している(注:これはホメているのだ ^^;)。

 くだんの女生徒が、春人を取り巻く女子の中の一体誰なのかというサスペンスは十分に盛り上げられており、彼女が殺意を露わにするシチュエーションの段取りも上手くいっている。城定秀夫の演出には弛緩した部分が感じられず、適度なケレンを織り交ぜつつ、飽きさせずにエンドマークまで観客を引っ張ってゆく。

 生徒に分するキャストの中では、何と言っても南沙良のパフォーマンスが光る。複雑なキャラクターだが、見事に役柄を自家薬籠中のものにしており、この年代の女優としては飛び抜けた実力の持ち主だ。茅島みずきに莉子、細田佳央太などの他の生徒役も悪くない。ただし、出番が多い河合優実の演技は硬くて感心しない。今後の精進に期待したい。五月に扮する大島優子は安定しており、すっかり手堅いバイプレーヤーとしての地位を手にしたようだ。また、世武裕子の音楽も効果的である。
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「白い牛のバラッド」

2022-03-21 06:10:05 | 映画の感想(さ行)
 (英題:BALLAD OF A WHITE COW )これはかなり厳しいイラン製のサスペンス劇だ。全編を通じて作者の切迫した危機感が横溢しており、観る者を圧倒する。しかも、いたずらに扇情的にならず冷静で落ち着いた語り口に終始しているあたり、作り手の聡明な姿勢が感じられる。また、心象風景およびメタファーの多用など、イラン映画が新しい局面に入ったことを示しているのも興味深い。

 シングルマザーのミナは、聴覚障害で口のきけない愛娘ビタを抱えながらテヘランの牛乳工場に勤めている。夫のババクは殺人罪で逮捕されて死刑判決を受け、1年ほど前に刑が執行された。ある日、義弟と共に裁判所に呼び出されたミナは、夫の事件の真犯人が判明し、ババクは無実だったことを知らされる。あまりにも不条理な話に激高したミナだったが、死刑を宣告した担当判事に会って事情を聞くことすら出来ない。



 そんな中、夫の友人だったという中年男レザがミニのもとを訪れる。彼はババクに金を借りていたと言い、多額の返済金をミナに渡す。さらに彼は住処を追われた彼女のために借家を手配したり、ビタの学校への送り迎えを引き受けたりと、何かと世話を焼いてくれる。だが、レザには人に言えない秘密があった。

 レザの正体は前半で予想が付くし、映画もその通りに展開するのだが、本作の主要ポイントはそこではない。冤罪という重大な案件が持ち上がっても、遺族にはわずかな見舞金しか支給されないという現実。そもそも、1人を殺害しただけで死刑になり、判決後に間を置かずに執行されるのは、まさに無茶苦茶だ。映画はこのシビアな状況を容赦なく告発している。

 さらに、見知らぬ男と会ったという理由でアパートを追い出されたり、未亡人には不動産を提供しない等という、理不尽極まりない差別が横行しているイスラム社会の欺瞞をも描き出す。そして、都合が悪くなると“神の御意志だ”という題目で片づけてしまうのだから、市民にとってはたまったものではない。

 監督はミナを演じるマリヤム・モガッダムで(ベタシュ・サナイハと共同演出)、イランの地にあって堂々と社会問題を取り上げる覚悟が画面から滲み出ている。また、サウンドデザインの非凡さや映像構築の巧みさなど、高い映画的技巧が施されているのも評価したい。急展開を見せる終盤と、鮮やかな幕切れは、強いインパクトを残す。

 第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品ながら、自国では3回しか上映されておらず、実質的には公開禁止になっている。モガッダムをはじめアリレザ・サニファル、プーリア・ラヒミサムといったキャストの仕事ぶりも文句なしだ。
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「シラノ」

2022-03-19 06:21:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:CYRANO)原作は1897年に発表された、17世紀のフランスの騎士を主人公にしたエドモン・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」であるが、今回の映画化は少しも楽しめなかった。まず、音楽と作劇とが全く合っていない。音楽を担当したアーロン・デスナーとブライス・デスナーは、アメリカの先鋭的インディー・ロックバンド“ザ・ナショナル”のメンバーであり、楽曲自体は決して悪いものではない。しかし、このモダンなロックサウンドが古典的な舞台劇にマッチしているかというと、断じてそうではない。そもそも、この有名な話をミュージカルにする必然性があったのか、大いに疑問である。

 そして、出ている面子が時代劇にふさわしくないのも難点だ。この題材は過去に10回以上も映画化されているが、共通しているのは主人公シラノは大きな鼻を持つユニークすぎる御面相をしていること。ただし、顔以外はいたって普通の男であり、それどころか歴戦の騎士でもあるから腕っぷしも強い。



 ところが本作の主役ピーター・ディンクレイジは、顔は申し分ないが体形がいわゆる“ミニサイズ”なのである。別に“ミニサイズ”自体が悪いということではないが、この体格では戦場で何度も修羅場をくぐった強者だという設定は無理がある。それでも、意外な強さを見せるシークエンスがあれば文句は無いのだが、唯一の立ち回りのシーンである劇場内での決闘は、殺陣が決まらず低調に推移する。これでは説得力に欠ける。

 そしてシラノの盟友である新兵クリスチャン・デ・ヌヴィレットに扮するケルヴィン・ハリソン・Jrは黒人だ。もちろんアフリカ系俳優であること自体がイケナイということではないが、彼は線が細くて軍人らしくない。そもそも、この時代のフランスで黒人兵が前線に立つというのは、どうにも違和感は拭えない。

 さらに最大の難点は、シラノが恋心を抱くロクサーヌを演じるヘイリー・ベネットだ。どう見ても歴史劇のヒロインに相応しいルックスではない。誰もが見惚れるような正統派美人女優を起用すべきだった。しかしながら、彼女は演出を務めたジョー・ライトの嫁であり、この監督に仕事をオファーすることは彼女がバーターで付いてくることは十分考えられたはず。これはプロデューサーの責任かもしれない(笑)。

 ライトの演出は今回は特筆すべきものはなく、起伏に欠け平板だ。ラストの愁嘆場も盛り上がらない。アカデミー賞から袖にされたのも当然か(ノミネートは衣装デザイン賞のみ)。
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