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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ランボー ラスト・ブラッド」

2020-07-20 06:55:28 | 映画の感想(ら行)

 (原題:RAMBO:LAST BLOOD)鑑賞前は映画の出来にはほとんど期待しておらず、実際観た後も内容の薄さが印象付けられる結果になったが、観て損したとはまったく思わない。82年に製作された第一作から、私はすべてリアルタイムで観ている。このシリーズがこれで終わりだという事実は、感慨深いものがある。そして、改めて主人公のキャラクターが浮き彫りになった点も認めたい。

 ミャンマーでの死闘を終えて久々に故郷のアリゾナに帰ったジョン・ランボーは、古くからの友人マリアとその孫娘ガブリエラと一緒に、まるで家族のように暮らすようになって約10年が経っていた。だが、高校を卒業したガブリエラは自分を捨てた実の父親がメキシコにいると知り、ランボーとマリアの反対を押し切って一人でメキシコに旅立ってしまう。かつて別れた父には会えたが、相手はガブリエラを今も邪魔者だと思っていた。傷心の彼女は悪友の誘いで危険な地域に踏み込むと、人身売買カルテルに掠われてしまう。ランボーはガブリエラを救出すべく、単身メキシコに乗り込む。

 前回までの敵役は、正式に組織された軍隊であった。だからさすがのランボーも苦戦し、そこから逆襲に転じるプロセスにカタルシスを覚えたものだ。しかし、今回の敵は単なるヤクザ、つまりはアマチュアに近い。元グリーンベレーのランボーの相手としてはまるで力不足である。メキシコまで出向くならば、大手麻薬カルテルの武装組織ぐらい持って来て欲しかった。

 戦いの段取りにしても、敵方はわざわざランボーの仕掛けた罠に面白いようにハマってれるし、そもそも前段階でメキシコの敵のアジトに正面から乗り込んでボコボコにされるあたりも、観ていて脱力する。しかしながら、今まで戦いに明け暮れたランボーの苦悩が上手く表現されている点は認めたい。

 彼は、アリゾナの牧場での平穏な暮らしの中にあっても、家の周囲に地下壕を掘りトラップを仕掛ける。そう、いつ敵が攻めてくるか分からないからだ。今回はたまたまメキシコの犯罪組織とのバトルにおいてそれらは役に立ったが、たとえ彼の残りの人生で戦いが起こらなくても、永遠に武装し続けるのだろう。

 そして彼を助けた女流ジャーリストとの会話で“復讐なくしては先に進めない”とまで断言してしまう。その悲しい性には胸に詰まるものがある。エンディングのタイトルバックでそれまでの戦いがリプライズされるのも効果的だ。エイドリアン・グランバーグの演出は大味だが許容出来るレベル。パス・ベガにアドリアナ・バラーサ、イヴェット・モンレアルといった脇の面子も悪くない。
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「ルース・エドガー」

2020-07-05 06:23:15 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LUCE)端的に言って、これは“何かあると思わせて、実は何もない映画”である。いや、正確には“何かある”のだとは思う。しかし、それが映画的興趣を喚起するほどに十分描き切れていないだけだ。聞けば本国での評価は上々らしいが、理解できない。あるいは彼の地ではリベラルっぽいネタを扱えば、斯様な生ぬるい出来でも評価されるということだろうか。

 首都ワシントンの郊外に住むピーターとエイミーのエドガー夫妻は、紛争が続くアフリカのエリトリアから子供を養子に迎え、10年にわたって育ててきた。その子はエドガーと名付けられ、学業とスポーツの両面で優れた成績を収める高校生へと成長。周囲の人望も厚い。だが、社会科の教師ハリエットは、エドガーが提出したレポートが過激派に与したような内容だったことに驚く。さらに彼のロッカーからは危険な花火が見つかる。彼女はエイミーを学校に呼び出して注進するが、その頃から学校やエドガー家において不可解な出来事が頻発する。



 ナオミ・ワッツとティム・ロスが扮する夫婦が得体の知れない若造に翻弄される・・・・という筋書きならば、どうしてもミヒャエル・ハネケ監督の鬼畜的快作「ファニーゲーム U.S.A. 」(2008年)を思い出してしまう。だから、いつハネケ作品のような不条理で残虐な場面が出てくるのかと待ち構えていると、大したことは起こらず肩透かしを食らわされた(笑)。

 そもそも、映画の設定自体に難がある。エドガー夫妻がどうして遠く離れた土地からエドガーを引き取ったのか、その背景が分からない。2人の間に子供が出来なかったのかもしれないが、それだけではアフリカから養子を迎える理由にはならない。しかも、ビーターは前妻との間に一子を儲けている。おそらくはこの夫婦はリベラルな思想の持ち主で“アフリカの子供を助けたい”という意向があったのかもしれないが、万人には受け入れがたい価値観だ。

 ハリエットの妹がメンタル面でのハンデを負っていたり、韓国系の女生徒がエドガーに絡んだりといったモチーフも、思わせぶりなだけで映画の本筋に食い込んでいかない。アメリカで生まれ育った黒人と、同じ黒人でもアフリカからやってきたエドガーとでは、当然のことながら立場が違う。そのあたりのディレンマを描こうとしているフシもあるが、観ているこちらには強く迫ってくるものが無い。そして映画はどうでもいいようなラストを用意しているのみだ。

 ジュリアス・オナーの演出はピリッとせず、全編に渡って煮え切らなさが漂う。原作のJ・C・リーはアジア系とのことで、黒人を描く上でどこか他人事みたいなタッチであるのは、そのことも関係しているのか。ワッツとロスのパフォーマンスは想定の範囲内だし、オクタヴィア・スペンサーやケルヴィン・ハリソン・Jr.などの面子も大したことはない。ジェフ・バロウとベン・ソールズベリーによるインダストリアル系の音楽は、映画に合っているとは言い難い。
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「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」

2020-06-19 06:55:02 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LOCAL HERO)83年イギリス作品。一見社会派映画のように見えて、実は本来私が苦手としている(笑)ファンタジーものだ。しかし、大仰な仕掛けと御都合主義的なプロットが横溢する一般のファンター映画(←このあたり、筆者の偏見が全面展開している ^^;)とは違い、日常のすぐ隣にあるような非日常といった、トンデモ度合が少ない設定で進められているので、あまり違和感は覚えない。それどころか、このユルさと泰然自若としたテンポは、観る者を惹き付けるのには十分だと思う。

 アメリカの大手石油会社の会長ハッパーは、巨大な石油精製工場をスコットランドの片田舎の漁村ファーネスに建設する計画を思いつく。その交渉役として若手社員のマッキンタイヤを指名。理由は名前がスコットランド系っぽいという理由だけだ。またハッパーは天体観測オタクであり、マッキンタイヤに、土地買収交渉と同時に当地の星空の模様を電話で知らせることも命じた。



 当地では大規模な反対に遭うと思われたが、意外にもファーネスの村民はマッキンタイヤに協力的。しかし、湾の浜辺に住む老人ベンは断固として土地の買収に応じなかった。そんな時、村の上空に信じ難いような大流星群が発生。マッキンタイヤはハッパーにそのことを報告すると、一刻も早く天体観測をしたいハッパーはヘリコプターで駆けつける。

 ファーネスは一見普通の村だが、周囲はいつも霧が立ち込め、村に子供の姿がほとんどない。ベンや海洋学者のマリーナにしても、どこか浮世離れしている。まさに異世界と言っても差し支えない。しかしながら、そこで通常のファンタジー映画のように“剣と魔法がどうのこうの”というパターンには持って行かない。日常を少し離れた、普段は立ち入らない路地に足を踏み入れたような、そんなライト感覚の非日常がマッタリと展開してゆくのだが、これが妙に心地良い。

 ハッパーはこの世界を気に入ってしまい、おそらくはマッキンタイヤも再びこの地を訪れるだろうと予想出来る。監督ビル・フォーサイスは、そんなエコでスローな村の生活を“現代社会に対するアンチテーゼ”みたいな大上段に振りかぶったような扱い方をしない。そこがまた説得力を持つのである。

 ハッパーに扮するのはバート・ランカスターで、さすがにこの名優が出てくると映画の安定感は増してくる。ピーター・リガートにデニス・ローソン、フルトン・マッケイ、ジェニー・シーグローヴといった面子も、派手さはないが良い味を出している。クリス・メンゲスのカメラよるスコットランドの風景は美しい。音楽を担当しているのは意外と映画の仕事も多いダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーで、ここでも手堅くスコアを提供している。
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「ルディ・レイ・ムーア」

2020-05-04 06:26:47 | 映画の感想(ら行)

 (原題:DOLEMITE IS MY NAME )2019年10月よりNetflixで配信されたコメディ作品。何といっても主演のエディ・マーフィの“復活”が嬉しい。彼は「ドリームガールズ」(2006年)以降あまり目立った仕事は無かったが、久々に手応えのある役を引き寄せたようだ。映画の出来自体も満足すべきもので、鑑賞後の印象は上々である。

 70年代初頭のロスアンジェルス、コメディアンとして世に出ることを夢見ていたルディ・レイ・ムーアだが、現実はレコード屋の店員として糊口を凌ぐ毎日だ。ある日彼は、ホームレスのオッサンの戯言からインスピレーションを受け、下品なネタの速射砲で観衆を圧倒するメソッドを獲得。一躍スタンダップコメディの寵児になり、ライヴもレコードも好調なセールスを記録するようになる。

 ところが、仲間と一緒に映画館でビリー・ワイルダー監督の「フロント・ページ」(74年)を観て、ルディは少なからぬ衝撃を受ける。周りの白人たちは大爆笑しているのに、彼らにはその良さが全く分からないのだ。そこでルディは“黒人が楽しめる映画を作らなければならない”と決意。カネもコネもノウハウも無い彼らだが、多額の借金を背負いながら、果敢に映画製作に挑む。70年代に活躍した、ミュージシャンでコメディアンのルディ・レイ・ムーアを描いた実録映画だ。

 80年代に人気絶頂だった頃のエディ・マーフィは、とにかく“攻め”の姿勢が前面に出ていた。黒人の喜劇役者であることをモノともせず、幅広い観客層に対して“オレ様のジョークは絶対に面白いはずだっ。さあ笑え!”とばかりに、勢いでねじ伏せようとしていた。だが、そんな彼も60歳に手が届く年代になり、スピードもパワーも衰えてきた。本作での彼は、腹の出た冴えないオッサンである。

 しかし、エディは決して無理していないし、焦ってもいない。芽が出ないまま人生の後半戦を迎え、それでもオッサン芸人としての矜持を保ちつつ、年齢相応の夢と希望を持って仲間達と仕事に取り組む主人公像を無条件で受け入れている。このスタンスは素晴らしい。映画の中でルディが一歩ずつ成功への階段を上がるように、エディも「フロント・ページ」の主演のジャック・レモンのような喜劇人からのキャリアアップを見据えているようだ。

 ハッキリ言って、私はルディ・レイ・ムーアという人物は知らなかった。そして劇中で披露する彼のお笑いネタも、どこが面白いのか分からない。しかし、そこが欠点になっているとは思えない。映画はとことんポジティヴに、自分のできる限りのことをやったエンターテイナーの生き様を追うだけだ。それで十分に観客の支持を集められる。

 クレイグ・ブリュワーの演出はソツがなく、スムーズにドラマを進める。ギャグは下ネタ中心ながら、上手い具合に繰り出されており嫌味が無い。ウェズリー・スナイプスにキーガン=マイケル・キー、マイク・エップス、クレイグ・ロビンソン、そしてスヌープ・ドッグといった脇の面子も実に良い味を出している。既成曲(もちろん、当時のブラックミュージック)中心の音楽と、カラフルな衣装デザインも要チェックだ。
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「レ・ミゼラブル」

2020-03-29 06:58:36 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LES MISERABLES)第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞を獲得し、世評も悪くない作品だが、率直に言ってそれほどのシャシンとは思えない。理由は、脚本およびキャラクター造型に難があるからだ。何やら、ハードな題材を選べば事足りているという印象で、その次元に留まっている。とにかく、物語の練り上げが無ければ映画として成り立たないのだ。

 パリ市警で勤務することになったステファン巡査長が配属されたのは、ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」の舞台となった郊外のモンフェルメイユであった。そこは、不法移民や低所得者が多く住む危険な地域である。犯罪防止班に新たに加わった彼は、2人の仲間とともにパトロールするうちに、2つのギャングのグループが緊張関係のまま均衡を保っていることを知る。



 そんなある日、サーカス小屋からライオンの子供が盗まれるという事件が発生。ステファンたちは犯人と思われる少年たちを追うが、同僚の一人が誤ってイッサという少年に怪我を負わせてしまう。しかも、その現場を別の少年が操縦するドローンが撮影していた。そこはギャングのボスたちが仲介して何とか事態を治めたと思われたが、後日大変な騒動が起きてしまう。

 本作を観て思い出したのが、リオデジャネイロ郊外の貧民街を舞台にしたフェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」(2003年)である。だが、出来はあの映画には敵わない。一番の問題点は、ステファンという良心的なキャラクターを画面の真ん中に置いたことだ。つまりは“良識”によって一応事態は収束されるはずだといった、道理的なスタンスを打ち出している。

 しかし、ちょっと見れば分かるようにこの映画で描かれる世界は常識は通用しない。食うか食われるかのワイルドな状態だ。それを新任の警官がどうこう出来る余地は無い。しかし、作者自身がリベラルとも言えるスタンスを取ってしまったが故に、終盤には結末をあらぬ方向へ“丸投げ”するしかなかった。これでは消化不良だ。

 対して「シティ・オブ・ゴッド」のアプローチは、痛快なほど素材の残虐性をエンタテインメントとして昇華している。“良心”なんか、最初から存在しない。あの映画に比べれば、この「レ・ミゼラブル」は随分と甘口に見える。

 しょせん、貧困と暴力が支配する地域を対処療法的に何とかしようとしても無駄なことなのだろう。私なんか、こういう極悪なガキどもは機銃掃射で一斉駆除してやれば良いとも思ってしまうのだが(苦笑)、そうもいかない以上、ステファンの同僚たちのように現状を追認して上手く立ち回る方が得策だという、脱力するような結論に行き着くしかない。

 そもそも諸悪の根源は、貧民街を存在させているグローバリズムをはじめとする国家施策の数々だ。この問題を解決するには、現場の個人の努力ではどうしようもない。監督のラジ・リはそのことに気付いているのか。いや、たぶん気付いてはいるのだが、何か出来るはずだという願望を抱いているだけだろう。
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「ラスト・プレゼント」

2020-03-27 06:56:21 | 映画の感想(ら行)
 (英題:Last Present)2001年韓国作品。私は2002年のアジアフォーカス福岡映画祭で観ている。本国では大きな話題を呼んだらしいが、なるほど誰でも楽しめるラブコメディ(兼悲恋もの)に仕上がっており、鑑賞後の満足度も決して低いものではない。ただし、設定自体に長所と短所が混在しており、諸手を挙げての高評価は差し控えたいと思う。

 お笑い芸人のヨンギは、才能はあるがさっぱり売れない。来る日も来る日も、演芸番組の“前振り”で客席をある程度盛り上げるような“裏方”の仕事をこなすのみだ。妻のジョンヨンは甲斐性の無いダンナにウンザリしており、いつもケンカばかり。しかし、実はジョンヨンは重病に冒されており、余命幾ばくも無いことを隠していた。やがて偶然その秘密を知ったヨンギは、彼女のために一世一代のネタに挑む。



 監督は当作品がデビュー作となるオ・ギファン。主人公の夫婦を演じるのはイ・ジョンジェとイ・ヨンエで、この二人の人気俳優の共演は、韓国の映画ファンに多いにアピールしたという話だ。ヨンギをコメディアンにしたことがこの作品の長所であろう。

 頻繁に挿入されるギャグシーンは、絵に描いたような“お涙頂戴もの”のルーティンを巧みに緩和して、少々不自然な展開や、ヒロインの初恋の人を捜すシークエンス等のまどろっこしさも、文字通り“笑って済ませる”ことが出来る。加えて主演二人の存在感。イ・ジョンジェは以前の作品群とはうって変わった好漢ぶりで、コメディアンとしての舞台場面もまったく違和感がない。イ・ヨンエも従来のイメージを覆し、終始スッピンを通した形振り構わぬ大熱演だ。特に両親の墓の前で独白するシーンにはグッときた。

 しかし、終わってみれば、主人公の成功の影に妻に関する悲話が付きまとうことが今後の彼の在り方の障害になることは確実である。どんなにコメディアンとしての才能に恵まれようが、世に出るきっかけが妻との悲恋とセットで語られてしまっては若手喜劇人として致命的(笑わせなきゃならないのに、泣きが先行してどうするんだって感じだ ^^;)。あまり感動できないのはそのためで、それがこの映画の短所でもある。

 クォン・ヘヒョやイ・ムヒョンといった脇の面子は万全。イ・ソッキョンによる撮影、チョ・ソンウの音楽も悪くない。なお、本作は2005年に日本でテレビドラマ化されている。私は見ていないが、脚本が岡田惠和で堂本剛と菅野美穂が主演とのことなので、けっこう出来は良かったのではないかと想像する。
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「ロマンスドール」

2020-02-15 06:24:50 | 映画の感想(ら行)
 小綺麗に、肌触り良く仕上げられているが、ドラマにあまり深みは無い。それでも最後まで観ていられたのは、キャストの頑張りに尽きる。ただし、その“頑張っていたキャスト”が主役ではなく脇役の方であったのには違和感を覚えた。そもそも、こういうネタを取り上げるには、この監督で良かったのかという疑問もある。もっとアクの強い演出家が担当すれば、盛り上がったのではないだろうか。

 美大を卒業した北村哲雄は、先輩の紹介でラブドールの制作工場で働き始める。よりアピール度の高い製品を開発するには、生身の女性のバストから“型取り”をすべきだと考えた哲雄とベテラン職人の金次は、美術モデルの園子に“医療用製品のため”と偽って目的を果たすことに成功する。



 ところが哲雄は園子に一目惚れしてしまい、交際が始まる。やがて2人は結婚するが、哲雄は“本職”を妻に告げられないまま数年が過ぎた。哲雄は仕事に没頭するあまり、次第に夫婦仲は冷え切っていく。園子は家出騒動を引き起こした後、抱えていた秘密を夫に打ち明ける。

 冒頭、いきなり2人の“別れ”が描かれ、それから映画は10年前に遡るのだが、最初から結末を開示する意味があったとは思えない。それはドラマ的興趣を削ぐことにならないか。そもそも最初に園子が何も知らずに工場を訪れることは考えにくく、夫の“本業”も知らないまま何年も過ごすというのはあり得ない。さらに言えば、結婚後は当たり前のように専業主婦に落ち着いてしまうのも釈然としない。子供を作ることを話し合う場面も無く、これでは実体感のないママゴトみたいな夫婦生活と言わざるを得ない。

 ラブドールの製作現場では、多かれ少なかれセクシャルなイメージが付きまとうはずだが、意外なほど希薄だ。確かに工業製品の一つには違いないのだが、商品の“用途”の描写に関して及び腰である必要はない。タナダユキの演出はソフトなタッチだが、言い換えれば素材の捉え方が甘いということだ。主人公たちのラブシーンも撮り方がライト感覚で、切迫したものが無い。もっとエゲツない描写を得意とする監督が手掛けたならば、それらしく仕上げられたと思う。

 主演の高橋一生と蒼井優は良くやっていたとは思うが、ドラマの求心力が小さいのであまり成果が上がっていない。反面、金次に扮するきたろうと社長役のピエール瀧は好印象。この2人を主役にして本作の“前日談”を作った方が、より面白かったかもしれない。また浜野謙太に三浦透子、大倉孝二、渡辺えりなど、脇の面子の方が主役よりも目立っている。

 余談だが、劇中でラブドールの“歴史”みたいなものが紹介されていたのは興味深かった。特に素材のシリコンは比重が人体より少し大きいので、小ぶりに作る必要があるというのは面白い。まあ、個人的にはラブドールを購入する予定は無いのだが(大笑)、世の中には知らないことがまたまだあるものだと、大いに感じ入った次第だ。
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「リチャード・ジュエル」

2020-02-01 06:15:30 | 映画の感想(ら行)
 (原題:RICHARD JEWELL)日頃より、クリント・イーストウッドの監督作は“観る価値無し”と決めているのだが、本作はけっこう評判が良かったので劇場に足を運んでみた。結果、観終わって“やっぱり、時間の無駄だったな”という感想しか持てない。とにかく、この生温い描写と感情移入が著しく困難な登場人物のオンパレードには、辟易するしかない。

 96年、アトランタオリンピックを記念して行われていたコンサートの会場で、警備員のリチャード・ジュエルは不審なバッグを発見する。どうやら爆発物らしい。彼はいち早く警察をはじめ関係部署に通報し、自身は観客の避難誘導に当たっていた。爆発そのものは止められなかったが、被害を最小限に留めることは出来た。



 リチャードは一躍英雄として持て囃されるが、彼の行動と経歴に疑問を持った新聞社が事件は彼の自作自演ではないかという記事を載せる。さらに、FBIはリチャードを事件の有力な容疑者として捜査を進める。ヒーローから一転して犯人扱いされることになった彼は、世間やマスコミから激しいバッシングを受ける。切羽詰まった彼は、昔の顔見知りであるブライアント弁護士に助けを求める。マリー・ブレナーによるノンフィクションの映画化だ。

 驚いたことに、リチャードが犯人であるという証拠は何一つ無いのだ。物的にも状況的にも、彼の有罪を明確に示すものは存在しない。ところがマスコミは勝手な憶測によって“疑惑”をデッチ上げ、捜査当局もうっかりそれに乗ってしまったという話なのだ。しかしながら、無責任なマスコミは別にしても、FBIが証拠も無しに強引な捜査を押し進めるというのは納得出来ない。

 劇中では“証拠が無いことを、疑われた方が証明しなければならない”という、いわゆる“悪魔の証明”みたいな極論が引用され、彼の国はそんな無茶苦茶な理屈が罷り通っているのかと驚いたが、映画の終盤になると“そうでもない”といったエクスキューズが臆面もなく披露され、この一貫性の無さに脱力した。ならばこの一件は何だったのか。単なる茶番ではないか。

 捜査内容を平気でマスコミにリークするFBIの態度も納得できないが、くだんのデマ記事を漫然と垂れ流す女性記者の描き方に至っては、まさに噴飯もの。前半はあれだけ傲慢だった彼女が、何の前触れもなく後半では人間味あふれる存在(苦笑)へと変質するという脈絡のなさだ。

 そもそも、リチャード自身が同情を寄せるキャラクターにはなっていない。いい年して独身で、母親と同居しているというのはまだ許せるが、何かというと法の執行者であることを頭ごなしに強弁するのには辟易する。見た目は冴えず、愛想もなく、前の職場ではトラブルを引き起こす。極めつけは自宅に多数の銃器類を保持していることだ。どう考えてもこれは、絶対に友達になりたくないタイプである。

 リチャードをはじめ、FBIやマスコミ連中など、この映画にはイヤな奴しか出てこない。もちろん共感を呼べるキャラクターが絶対必要だという決まりはないのだが、本作の場合は不快なキャラクターの跳梁跋扈に何の必然性も無い。斯様に浅はかな作劇しか提示されていないのだから、ラストで紹介されるリチャードのその後の人生に何の感慨も覚えないのは当然のことだ。

 リチャード役のポール・ウォルター・ハウザー、弁護士に扮するサム・ロックウェル、そしてキャシー・ベイツにジョン・ハム、オリヴィア・ワイルドなど、キャストはいずれも精彩を欠く。とにかく、マスコミの暴走や捜査当局の不祥事を扱った映画が他にも複数存在する以上、この映画にそれほどの存在価値があるとは思えない。イーストウッドの監督作は、もう願い下げだ。
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「ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋」

2020-01-13 06:39:59 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LONG SHOT )まるで面白くない。政治ネタと恋愛沙汰をコメディ風味でミックスさせようという意図は良いが、困ったことにこの映画の作り手は政治も恋愛も分かっていないらしい。何やら本国での評判は良いらしいが、そのあたりはどうも理解出来ない。

 シャーロット・フィールドは、史上最年少の米国務長官として忙しい日々を送っていた。一期目のチェンバーズ大統領は次回の選挙には出馬せず、後継者としてシャーロットを指名する意向を示す。彼女は大統領選へ向けて、選挙スピーチの原稿作成を外部のスタッフに依頼することになるが、そこで選ばれたのが失職中のジャーナリストのフレッド・フラスキーだった。



 フレッドは有能だったが、意固地な面が強くて周囲との摩擦が絶えなかった。それでもシャーロットが彼を指名したのは、フレッドは幼馴染みであり気心が知れていたからである。2人は行動を共にするうちに惹かれ合っていくが、もとより立場が違うこともあり、思いがけない邪魔が次々と入るのであった。

 まず、シャーロットはどういう政治的ヴィジョンを持ち、具体的に何をしたいのか、さっぱり分からないのが難点だ。どうやら環境問題に関心があるようだが、政策面での言及は無い。そして、現大統領やマスコミ界の大物を嫌っている理由も明確ではない。そもそも、国務長官としてのポリシーも実績も示されていないのだ。対するフレッドは、身体を張った突撃取材で名を馳せるものの、その考え方は偏狭で幅広い共感を呼べるものではない。

 この地に足が付いていないような2人が、たとえ久々に再会して旧交を温めたとしても、そのまま懇ろな関係になる必然性が見えないし、納得出来るようなプロセスも踏んでいない。その描写不足を糊塗するかのように繰り出されるギャグは、徹底して下ネタ優先。ただし、タイミングと展開が生ぬるいのでほとんど笑えず。同じくお下品コメディの快作であるロバート・ルケティック監督の「男と女の不都合な真実」(2009年)と比べると、随分と落ちる。

 ジョナサン・レビンの演出は冗長で、盛り上がる箇所はほとんど無い。シャーロットに扮するシャーリーズ・セロンは、残念ながら色気はあるが知性は感じられず、とても政治家には見えない。フレッド役のセス・ローゲンも単なるむさ苦しい男で、愛嬌に欠ける。カナダ首相を演じるアレクサンダー・スカルスガルドに至っては、イロモノ扱いだ。それにしてもこのカナダの首相の扱いをはじめとして、ヒロインが訪れる世界各国の描き方はかなり杜撰である。作者の見識の浅さか、あるいは“その程度”の観客を相手にするということで見切っているのか分からないが、いずれにしても愉快ならざる気分になる。
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「ラスト・ムービースター」

2019-11-25 06:39:18 | 映画の感想(ら行)
 (原題:THE LAST MOVIE STAR )バート・レイノルズの全盛期を少しでも知っている映画ファンならば、感慨深いものになること必至だ。しかも、先日観たロバート・レッドフォード主演の「さらば愛しきアウトロー」がレッドフォードに馴染みの無い観客は“お呼びでない”といった内容だったのに対し、本作はたとえレイノルズの映画を観たことが無くても、その良さは伝わってくる。鑑賞する価値のある佳編だ。

 かつて一世を風靡したアクションスターだったヴィック・エドワーズは、老いた今ではロス郊外の自宅で一人暮らしだ。ある日、ヴィックは国際ナッシュビル映画祭とかいう聞き慣れないイベントの招待状を受け取る。その映画祭では彼に功労賞を渡すらしく、過去にはロバート・デ・ニーロやクリント・イーストウッドも賞を受け取っているという。



 取り敢えずその映画祭に参加したヴィックだったが、国際映画祭とは名ばかりの小汚い居酒屋での映画鑑賞会だったことを知り憤慨。途中で帰ろうとするが、偶然そこは彼が生まれ育ったノックスビルの近くだった。ヴィックの胸に、青春時代や最初の妻と出会った頃の思い出が去来する。

 2018年に世を去ったレイノルズの遺作だが、主人公ヴィックは彼自身を投影している。また、劇中でヴィックがレイノルズの若い頃の諸作の中で“共演”を果たす場面があるが、ヴィック(レイノルズ自身)のそれまでの俳優人生を振り返る意味で、実に効果的だ。

 レイノルズはデ・ニーロやイーストウッドのようなレベル(主要アワードの常連)に達することは出来なかった。しかし、アクションスターに徹して観客を楽しませた実績はとても大きなものだ。たとえ片田舎のマイナーな映画祭だろうが、熱心なファンに囲まれることによって、彼は自らのコンプレックスを克服しキャリアをポジティヴに振り返ることが出来た。終盤で彼がつぶやく“人生、これからだ”というフレーズには感動がわき上がる。



 もちろんレイノルズはもういないのだが、彼の作品群は次世代のファンに半永久的に支持されるのだ。全ての映画好きに“これからもずっと楽しんでくれ”と告げているようで、観ていて胸が一杯になる。ヴィックの世話係になった若い娘リルはメンタル面で問題を抱えているが、彼と行動を共にすることによって人生を前向きに捉えるようになる。それは映画祭に集う連中にしても同じことで、あこがれの映画スターが同じ時代を生きたことを再認識し、改めて今後に向き合ってゆく。

 レイノルズは好演で、この映画でキャリアを終えたことはある意味幸せだったのかもしれない。リル役のアリエル・ウィンターをはじめ、クラーク・デュークやエラー・コルトレーン、チェヴィー・チェイスなど他の面子も良い仕事をしている。それに「ヘアスプレー」のニッキー・ブロンスキーが久々に映画に出ているのも嬉しい。
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