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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レッド・ドラゴン」

2019-11-24 06:26:21 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Red Dragon)2002年作品。ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(91年)よりも以前のエピソードを描く“レクター博士三部作”の一作目。リドリー・スコット監督の「ハンニバル」(2001年)も含めたハンニバル・レクター・シリーズの中では、一番楽しめる。トマス・ハリスによる原作の第一回目の映画化であるマイケル・マン監督の快作「刑事グラハム 凍りついた欲望」(86年)にも匹敵する出来だ。

 元FBI捜査官のウィル・グレアは、元上司ジャック・クロフォードから満月の夜に発生した一家惨殺事件の捜査を依頼される。期間限定で現場へ復帰したグラハムだったが、なかなか糸口が掴めない。そこでかつて自分が逮捕した天才的な連続殺人鬼“人食いハンニバル”ことレクター博士に助言を求める。一方、古びた屋敷に一人で住むフランシス・ダラハイドは、自らの不遇な生い立ちを克服するため、超人願望に憑りつかれていた。



 私は世評の高い「羊たちの沈黙」を全然評価しておらず、単に奇をてらったB級映画としか思っていない。「ハンニバル」に至ってはイタリアの観光映画でしかないと断言する。対してこの作品はハンニバル・レクターの存在を“事件関係者の一人”という次元から一歩も逸脱させない。あくまでもメインはエドワード・ノートン扮する捜査官とレイフ・ファインズの異常犯罪者との争いである。

 そういうサスペンス映画の王道に徹しようとしているところが実に心地よい。もっとも、マイケル・マンによる前回の映画化もそういうテイストが前面に出ていたので、これは原作の手柄だと言ってもいいだろう。監督は「ラッシュ・アワー」のブレット・ラトナーだが、メリハリを付けた手堅い仕事ぶりで、予想以上の健闘を見せている。また、ラストの処理も気が利いている。

 主演の2人をはじめハーヴェイ・カイテル、メアリー・ルイーズ・パーカー、フィリップ・シーモア・ホフマンなど、キャスト面はいずれも良好。特に盲目の女を演じたエミリー・ワトソンは儲け役で、ファインズとのぎこちないラヴシーンは絶品だった。ダンテ・スピノッティのカメラによる奥行きの深い映像、ダニー・エルフマンの音楽も要注目だ。
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「楽園」

2019-11-18 06:30:55 | 映画の感想(ら行)
 本年度の日本映画を代表する力作である。本作を観て“ミステリーの体を成していない(だからつまらん)”とか“辛気臭いだけの映画”とか“何が言いたいのか分からない”とかいう感想しか述べられないのならば、それは“鑑賞力”が低いのだと思う。そもそも原作者が吉田修一だ。単純明快なミステリー劇を期待するのは適当ではない。

 長野県の山村で、女子小学生の失踪事件が発生。警察や村人が総出で捜索するが、結局行方は分からないままだった。12年後、事件の直前まで被害者と一緒にいた友人の湯川紡は、いまだに心の傷が癒えない。ある日彼女は、事件の少し前から村に住みついていた孤独な青年・中村豪士と知り合う。そんな中、再び少女が行方不明になり、疑いの目は豪士に向けられる。



 一方、村はずれに暮らす養蜂家の田中善次郎は、数年前都会からUターンで村に戻ってきた。彼は村おこしを提案し、一度は村の長老たちも同意する。しかし、彼の作る蜂蜜が評判を呼ぶようになってから、周囲の態度は急変。善次郎は村八分にされ孤立していく。

 前述したように、本作の主眼は犯人探しではない。犯罪が起きた背景ひいては社会全体を覆う閉塞感の描出だ。劇中、姿を消した少女の親族が“あいつが犯人だと言ってくれ!”と叫ぶシーンがあるが、それが本作のテーマの一端を示している。誰かをスケープゴートに仕立て上げることにより、周りの者たち及び共同体は“安心”してしまう。それで追い込まれていく者の辛さなど、知ったことではない。

 この映画のタイトルである“楽園”の意味の一つは、気心の知れた者たちだけの集合体であり、少しでも異質な考えや風体を持つ人間をとことん排除・弾圧する世界のことだ。まさに村の長老にとって住みやすい“楽園”そのものである。しかし、多様性・発展性を捨象したコミュニティは縮小均衡を余儀なくされ、いずれは消え去る運命にある。それは映画の舞台になった限界集落だけではなく、世の中全体にも言えることだ。



 そして“楽園”のもう一つの意味は、紡をはじめとした若い世代に託された、互いに価値観を認め合う“より良い社会”のことだ。しかし、それは実現が不可能に近い。何しろ紡自身が、都会に出てからも故郷のしがらみや辛い記憶から逃げられないのだ。ただし、少しでも他人の考えに対する許容性があれば、それは真の“楽園”にわずかでも繋がってゆく。映画は絶望の中にもそんな切ない希望を横溢させ、大きな感銘をもたらす。

 瀬々敬久の監督作としては「ヘヴンズ ストーリー」(2012年)に通じるものがあるが、テーマは普遍性を増している。本作での演出はパワフルで、一部の隙も見せない。綾野剛や杉咲花、佐藤浩市、村上虹郎、片岡礼子、黒沢あすか、柄本明など、演技派が揃うキャスティングは申し分ない。鍋島淳裕の撮影、上白石萌音によるエンディング・テーマ(作:野田洋次郎)も、大きな効果を上げている。
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「ラウンド・ミッドナイト」

2019-06-28 06:28:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Round Midnight)86年作品。まさに、ジャズ・ファンのイメージする本物の“ジャズ映画”である。これは当時現役のミュージシャンが主人公を演じていたという事実だけではなく、話の設定や雰囲気がもろにジャズなのだ。バド・パウエルとフランシス・ポードラの関係をモチーフにしたといいながら、デクスター・ゴードン演じるデイル・ターナーはまさにファンの理想とするキャラクターである。

 1959年のパリ。アメリカの著名なテナーサックス奏者デイル・ターナーのライブがブルーノートで行われていた。その音を、クラブの外で雨にうたれながら身じろぎもせず聴いていたのが、貧しいグラフィック・デザイナーのフランシス・ボリエだった。やがてデイルとフランシスは知り合い、意気投合する。フランシスはデイルを家に引き取り、面倒を見ることにした。

 しかしデイルは酒癖が悪く、たびたび酔っ払うと行方をくらましてしまう。それでもフランシスはこの伝説のミュージシャンの世話をすることに充実感を覚えていた。しかし、デイルがニューヨークヘ帰る日が来た。フランシスは一度はデイルに付いていくのだが、アメリカでのシビアな生活は彼を打ちのめす。

 デイルの造型が絶品だ。演奏のためならば全ての生活を犠牲にしてきた男。その引き替えに身も心もボロボロである。しかしながら、そんな破滅的な人間が何とも言えないロマンティシズムを醸し出す。彼がジャズの似合うパリやニューヨークをさすらう様子は、突出した存在感を現出させる。

 この誰も到達し得ない境地にある男には、いくらジャズ好きであるとはいえ、フランシスのような一般人は対等に付き合えない。デイルにとっては、フランシスとの生活は一時の休息に過ぎなかったのだ。この切なさ、やるせなさは辛いものがあるが、それもまた確固とした“現実”なのだ。しかし監督ベルトラン・タヴェルニエは、その“現実”を情感を込めて描き込む。孤高の存在との断絶さえも、掛け替えのない芸術との邂逅であると言い切っているようだ。

 ゴードンをはじめ、ハービー・ハンコックやビリー・ヒギンズ、フレディ・ハバード、ボビー・ハッチャーソンといった大物達が顔を揃える演奏シーンは圧巻。ブルーノ・ディ・カイゼルの叙情的とも言えるカメラワークも素晴らしい。
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「鹿鳴館」

2019-06-07 06:29:21 | 映画の感想(ら行)
 86年作品。市川崑監督作としては殊更優れたものでないが、伯爵夫人を演じる浅丘ルリ子の突出したパフォーマンス、および高いレベルの美術と衣装デザインにより、存在感のある映画に仕上がっている。また、製作デスクに原作者の三島由紀夫の遺児である平岡威一郎が加わっているのも感慨深い。

 明治19年11月、天長節の舞踏会で鹿鳴館は賑わっていた。外務卿の影山伯爵は政界では指折りの実力者で、政府に鹿鳴館の建設費用を出させたのも彼の功績である。妻の朝子は新橋の芸者あがりだが、華やかな外見と人当りの良さで社交界の人気者になっていた。

 朝子は侯爵令嬢の節子から恋愛の相談を受ける。その相手の名は清原久雄というのだが、それを聞いた朝子はショックを受ける。実は朝子と久雄との間には重大な“秘密”があったのだ。しかも、久雄の父である清原永之輔の指揮で自由党の残党がテロを計画しているという。久雄を邸に呼んだ朝子は、20年もの間誰にも言えなかったその“秘密”を打ち明ける。三島の同名戯曲の映画化だ。

 やっぱり、舞台劇の映画化は難しい。特に三島のレトリックの多い台詞回しは、そのままでは堅苦しい。もちろん映画向けに手直しされているのだろう(脚色は市川と日高真也)、それでも違和感は拭えない。加えて、各キャストには精彩が無い。影山伯爵役の菅原文太をはじめ、石坂浩二、中井貴一、井川比佐志、三橋達也、神山繁、浜村純など男優陣は駒を揃えているが、揃いも揃って無気力演技に終始。節子に扮した沢口靖子も、この頃はまだ大根だった(笑)。

 しかしながら、そんな中にあって浅丘ルリ子の奮闘は光る。彼女の挑発的な佇まいが、いかにも“訳あり”のヒロイン像に完全にマッチしている。正直言って、彼女が出ていなかったら途中で席を立っていたところだ。ワダエミによる衣装デザインは素晴らしい。鹿鳴館は遠景こそ安っぽいが、中身は十分それらしく仕上げられている。小林節雄による撮影、山本純ノ介と谷川賢作が担当した音楽もイイ線行っている。
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「ロングウェイ・ホーム」

2019-05-03 06:41:52 | 映画の感想(ら行)
 (原題:A LONG WAY HOME )81年作品。身を切られるような現実の惨さ、それに翻弄される主人公達、そしてその先に見える一筋の光明をも示し、実に訴求力の高い人間ドラマに仕上がっている(実話を題材にしている)。元々はテレビ映画として製作され、全米で45%という視聴率を記録したらしいが、テレビ番組にありがちな安易なアプローチは見当たらず、しっかりとした作りだ。

 少年ドナルドの父親は無職で、母親は娼婦だった。彼と幼い弟と妹の3人には、住む家も無い。ある雨の日に、彼らは親から置き去りにされる。警察に保護されて児童擁護センターに送られるが、3人は別々の施設に預けられる。月日は流れ、成長したドナルドは弟と妹を探すために奔走する。



 まず、子供達が置かれているシビアな境遇には驚かされる。まさに目を覆わんばかりだ。昨今は世間を騒がせる虐待事件が後を絶たないが、状況は今も昔も変わっていないのだ。

 そして、ドナルド達と里親との微妙な関係性が描かれているあたりも上手い。育ててくれたことには感謝はしているのだが、やっぱり実の親ではない。里親の側としても、距離感を掴むのは難しいだろう。結果としてドナルドが成人するまで互いに折り合いを付けられない。ここは決して単なる美談にはしないという、作者の意図が感じられる。それだけに、後半に両者が“和解”するくだりは感慨深い。

 ドナルドが弟と妹を探し出す過程は山あり谷ありで、適度なサスペンスも折り込み、飽きさせない。彼らの本当の両親のようにロクでもない人間は少なくないが、マトモな者はそれよりもずっと多く、真摯に接すれば必ず助けてくれるという構図の提示は申し分ない。印象に残るのは、自分の身分をわきまえた範囲で最大限ドナルドをサポートしてくれる施設の女性カウンセラーだ。“渡る世間に鬼はなし”とはよく言ったものである。

 ロバート・マーコウィッツの演出は丁寧で、登場人物の内面を巧みに掬い上げる。それに応えるティモシー・ハットンやブレンダ・ヴァッカロ、ポール・レジナ、ロザンナ・アークエットといったキャストも申し分の無い仕事ぶりだ。感動的なクライマックスは観る者の涙を誘うだろう。また、児童福祉の問題に関して考える上でも、大いに参考になる映画である。
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「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」

2019-02-04 06:27:16 | 映画の感想(ら行)

 (原題:REBEL IN THE RYE)J・D・サリンジャーの半生を要領良く紹介しているという意味では、存在価値のある映画だと思う。ただし、私は彼の著作を全然読んでいないし、今のところ読む予定も無い。斯様に題材に対する思い入れは持ち合わせていない以上、映画に関しても“引いた”立場で眺めるしかない。

 1939年、退学を繰り返していた20歳のジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは、本格的に作家への道を歩むためコロンビア大学の創作学科に編入する。担当教授のウィット・バーネットは彼の才能を見抜き、何かとアドバイスしてくれた。短編小説を書き始めるジェロームだったが、何度も出版社へ売り込むも不採用。それでもようやく文芸誌への掲載が決定するが、第二次大戦が勃発して取り消されてしまう。

 やがて召集によりヨーロッパ戦線に送られたジェロームだったが、筆舌に尽くしがたい数々の悲惨な出来事を経験し、終戦後に帰国しても精神的後遺症に悩まされることになる。そでも初長編「ライ麦畑でつかまえて」を書き上げ、これが高く評価されて成功を収める。だが、静かな生活を望むジェロームは、次第に発表する作品数を減らしていくのであった。ケネス・スラウェンスキーによるノンフィクション「サリンジャー 生涯91年の真実」の映画化だ。

 冒頭“サリンジャーには興味は無い”と書いたが、映画としては門外漢であっても引き込んでしまうほどの訴求力があればそれで良い。しかし、本作にはそういうパワフルな作劇は見当たらない。事実を平易に並べるだけである。これでは幅広く興趣を喚起することは出来ないであろう。

 それでも、ウィットの造型については興味を覚えた。教員としては優秀だが、本業の傍ら営んでいた雑誌出版の仕事は上手くいかない。ジェロームと何とか関係を保とうとするが、その結末は切ない。演じるケヴィン・スペイシーが失意の初老の男の悲哀を上手く表現していた。一方、サリンジャーに扮するニコラス・ホルトの演技は破綻は無いが、こちらに迫ってくる熱いパッションは希薄だ。

 ダニー・ストロングの演出はスムーズながら、盛り上がりには欠ける。ただ個人的にびっくりしたのは、ジェロームと恋仲だったウーナ・オニールが彼と別れた後、あのチャップリンと結婚したことだ。もちろんこれは史実だが、年齢差をものともせずに若い嫁さんをゲットした喜劇王のバイタリティには感服せざるを得ない。
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「レイズ・ザ・タイタニック」

2018-12-14 06:05:17 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Raise the Titanic )80年作品。ゴールデンラズベリー賞の、栄えある“第一回最低作品賞候補”になったシャシンらしい。ハッキリ言って出来としても凡庸なのだが、日本での公開当時は(他に目ぼしい対抗馬がいなかったためか)正月映画の目玉として扱われ、そこそこヒットしたという“実績”を持つに至っている(苦笑)。

 元米海軍大佐のダーク・ピットは、現在は危険な任務を遂行しているフリーのエージェントである。彼が当局側の依頼で北極圏における調査の任務に就いていた際、行方不明だったアメリカ人鉱物学者を救出する。その学者によると、究極のレアメタル(?)であるビザニウムの鉱石が、1912年に沈んだタイタニック号に積み込まれていたという。ピットは、タイタニックの唯一の生き残りの老船員を探し出し、その事実を裏付ける証言を得る。

 ピットからの報告を受けたワシントンの政府海洋研究機関は、早速タイタニック号の引き上げの大規模プロジェクトを密かに立ち上げる。だが、それはソ連大使館の情報部の知るところとなり、アメリカがビザニウムを独占することを阻止するため、ソ連側はマスコミにリークするという暴挙に出る。マスコミ報道によって世間は騒然となるが、ピット達は粛々と引き上げ計画を遂行する。

 クライヴ・カッスラーによる原作は読んでいないが、カッスラー自身は本作を酷評しているという。なるほど、各キャラクターは“立って”いないし、米ソの鍔迫り合いもほとんど描かれていないことから、原作のかなりの部分が省略されていることは想像に難くない。ジェリー・ジェームソンの演出は平板で、メリハリの無い展開に終始。ラストの“オチ”は観客の裏をかいたつもりだろうが、脱力感を覚えるばかりだ。

 結局、この映画のセールスポイントは終盤のタイタニック引き上げ場面のみだろう。さすがにこれは良く出来ている。当時としては特殊効果の粋を集めた映像だと思われる。このシーンに接するだけでも、鑑賞した価値があったと満足してしまった観客も多かったのだろう。

 リチャード・ジョーダンにジェイソン・ロバーズ、デイヴィッド・セルビーといった配役は正直あまり印象に残らない。ただし、ジョン・バリーの音楽だけは立派だった。余談だが、この映画がテレビ放映されたとき、タイタニック引き上げ場面の途中にCMが挿入されたのには呆れた。放映局とスポンサーは映画の見どころを軽視していたと思われる。
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「ルームロンダリング」

2018-07-21 06:09:28 | 映画の感想(ら行)

 設定は面白いのだが、出来映えはとても合格点は付けられない。聞けば新人の映像作家の発掘を目的としたコンペティションで入賞したオリジナルストーリーの映画化らしい。しかし、いくら原案が優れていても、脚本のクォリティをはじめ、キャストに対する演技指導、そして大道具・小道具の使い方等に関して十分に練り上げないと、劇場用映画としては通用しないのだ。

 主人公の八雲御子は、父親は世を去り、母親は失踪、そして育ててくれた祖母も亡くなり、天涯孤独の身となってしまった。そんな彼女の前に、不動産屋を営む叔父の悟郎が現れる。悟郎は御子に住む場所とアルバイトの提供を申し出る。そのアルバイトとは、いわゆる“事故物件”に短期間住み、それ以降の新規入居者に対する不動産屋による物件の履歴説明責任を帳消しにする“ルームロンダリング”という仕事だった。御子は、このアルバイトを始めるとすぐに、その部屋で死んだ者達の幽霊が見えるようになる。彼女は幽霊達と共同生活を送りつつ、彼らの現世で思い残したことを解消するために奔走するハメになる。

 孤独なオカルト女子が、型破りな叔父をはじめ、幽霊や隣人らによって少しずつ“社会性”を身に付けていくという筋書きは悪くない。ホラーテイストこそ採用されているが、これは主人公が自分が何者であるかを自覚するという、普遍的な青春ドラマのルーティンを踏襲している。

 しかしながら、どうも作りが安直なのだ。幽霊が出てくるところは、いたずらに観る者を怖がらせる必要は無いが、もう少しインパクトが欲しい。全編に渡ってオルガンを使ったライトな音楽が流れ、脱力系コメディの線を狙っているフシもあるのだが、中盤以降は御子が殺人事件に巻き込まれるというハードな展開があるにも関わらず、タッチがソフト過ぎて白けてしまう。

 よく考えれば、悟郎が御子にこの仕事を頼む理由もハッキリしない。彼女のことを心配するのならば、もっとカタギの職場を紹介して見聞を広げさせた方が数段良かったはずだ。また、ラスト近くには母親の“消息”が明らかになるのだが、どうしてそうなったのか具体的説明は無いし、暗示だけにするにしても段取りが不十分だ。

 これが長編デビュー作になる片桐健滋の演出はメリハリに欠け、盛り上がらない。特に、後半の“活劇”シーンは気合いが全然入っておらず閉口した。主役の池田エライザは、演技面ではまだまだである。ただ、妙な存在感はあると思う。さらに、可愛らしいルックスと共に、下着姿になった時のインパクトは並々ならぬものがある(笑)。

 悟朗役のオダギリジョーは彼自身の持ち味で何とか持ち堪えているが、伊藤健太郎に渋川清彦、光宗薫、木下隆行、つみきみほといった他のキャストは上手く機能していない。あまり冴えない出来に終わってしまったが、唯一、ヒロインが空を飛ぶ飛行機を“手で掴む”というモチーフだけは面白い。この映像感覚を活かせば、この監督の今後も期待出来るかもしれない。
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「レディ・バード」

2018-06-23 06:27:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LADY BIRD )あまりにも“普通の映画”なので面食らってしまった。ならば別に観なくても良い映画だとも言えるのだが、アカデミー賞にノミネートされ、他にもいくつかアワードを獲得しているのであえてチェックした次第。ただ、上映時間が1時間半程度と短いので、そこは評価出来よう(世の中には無駄に長い映画が多すぎる ^^;)。

 2002年、カリフォルニア州サクラメントのカトリック系高校に通うクリスティンは、自分を“レディ・バード”と名付けて周りにも呼ばせている少し変わった女生徒だ。彼女は母親との仲が上手くいかないせいもあり、この田舎町から抜け出して東部の大学に進学することを希望していた。母親は地元の大学に行かせたいのだが、クリスティンは密かに父親に希望の大学に入るための助成金の申請書を頼んでいた。

 ある日彼女は親友ジュリーと一緒に受けたミュージカルのオーディションで、ダニーと出会う。優しい彼を好きになった彼女だが、実はダニーは同性愛者だった。次にクリスティンが好意を持ったのは、バンドのメンバーであるカイルだった。やがて彼女はカイルと同じ人気者グループのジェナと一緒に行動するようになり、ジュリーとは疎遠になる。卒業の日が近付いた頃、東部の大学から補欠合格の通知が届く。だが、そのことでまたクリスティンは母親と衝突するのであった。

 ヒロインが通う高校の様子こそ興味深いが、母親との確執や、友人およびボーイフレンドとの関係性などには大して新味は感じられない。これより厳しくて身につまされる青春映画は過去にいくつもあったし、本作が持つアドバンテージは大きくはない。そもそも主人公が勝手に“レディ・バード”と名乗っているという前提には説得力は無く、そのことが終盤の展開の伏線になっていることは分かるものの、必然性が感じられないのは辛い。

 彼女の兄は養子であり、その恋人も同居しており、また父親はパッと見た感じは祖父ではないかと思うほど年を取っている。そのちょっと変わった家庭環境を突っ込んで描いた方が面白くなったかもしれない。

 グレタ・ガーウィグの演出は前作「20センチュリー・ウーマン」(2016年)よりは幾分滑らかになったが、それでも平板で凡庸だ。上映中は眠気をこらえるのに苦労した。70年代っぽい粒子の粗い画面も、さほど効果的だとは思えない。

 主演のシアーシャ・ローナンは「ブルックリン」(2015年)の頃に比べれば少し垢抜けてはいるものの、やっぱりルックスが私の好みではない(笑)。加えて、高校生を演じるには容貌が老けている(再笑)。母親役のローリー・メトカーフは良かったが、あとは印象が薄い。“イケメン枠”で登場のティモシー・シャラメもあまりクローズアップされていない有様だ。

 それにしても、こういう“普通の映画”が候補作になるとは、今年(第90回)のアカデミー賞のレベルは高くはないことを、改めて実感した。
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「レディ・プレイヤー1」

2018-05-21 06:25:37 | 映画の感想(ら行)

 (原題:READY PLAYER ONE)面白い。ただ、観客を選ぶと思う。ネット環境に幼少の頃から浸っている若年層や、こういう世界に最初から縁の無い高年齢層は観てもピンと来ない可能性があるが、40歳代から60歳代半ばまでの者ならば楽しめるだろう。観る者の琴線に触れるような大道具・小道具が目白押しで、しかもそれらが絶妙のタイミングで出てくるというのは、好きな者にとってはまさに堪えられないのだ。

 2045年。環境は悪化して異常気象が続き、対して政治は無策で、それによって経済は荒廃して貧富の差が拡大。ほとんどの者がスラム街で暮らさざるを得ない状況に陥っていた。辛い現実から逃れるように、人々はバーチャルネットワークシステム“オアシス”の中に入り浸り。そんな中、“オアシス”の開発者であるジェームズ・ハリデーがこの世を去る。彼は“遺言”として、仮想世界内に隠された3つの謎を解き明かした者にすべての財産を譲り渡すというメッセージを残していた。

 たちまち激しい争奪戦が勃発。両親を亡くした17歳のウェイドも参戦するが、レースを支配して“オアシス”を我が手に収めようとする巨大組織も暗躍を始めていた。ウェイドは女性プレーヤーのアルテミスや仲間たちと協力し、その陰謀を阻止するために立ち上がる。

 有り体に言えば、本作のテーマは“現実こそがリアルだ(ヴァーチャルはリアルではない)”ということだろう。それは当たり前のことなのだが、昨今では“ヴァーチャルにも現実とは違う価値のある何かがある”といった風潮、およびその認識に導こうとする“動き”があると感じる。もちろん、それは欺瞞なのだ。現実以上にリアルなもの、あるいは現実と比肩しうる価値観なんかが、ヴァーチャルの中にあるはずがない。

 監督スティーヴン・スピルバーグが属している世代(および中年層)では、こういうネタを描く際は斯様な真っ当なスキームを提示する以外の選択肢は無い。あとは“語り口”の問題だ。さすがに海千山千のスピルバーグは、ここでも観客を最後まで引っ張る力技を発揮している。

 ヴァーチャル世界と現実にそれぞれ見せ場を用意して同時進行することによって、作劇面での相乗効果を高めることに成功。さらには“オアシス”の中に現れる、懐かしくも嬉しいコンテンツの洪水には、すっかり嬉しくなる。いちいち挙げるとキリがないので詳細は割愛するが、それでも“ガンダムVSメカゴジラ”のくだりには手を叩きたくなった。

 主演のタイ・シェリダンをはじめオリヴィア・クック、サイモン・ペッグ、森崎ウィンといった若手の面々には馴染みは無いが、皆けっこう良い演技をしている。ベン・メンデルソーンやサイモン・ペグ、マーク・ライランスといったベテランもしっかりと脇を固めている。ヤヌス・カミンスキーの撮影はいつも通り手堅い。音楽はいつものジョン・ウィリアムズではなく、アラン・シルヴェストリが起用されているのが珍しい。やはりデロリアンが登場するので「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のスタッフに声を掛けたのかもしれない。
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