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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

2017-06-03 06:32:53 | 映画の感想(や行)

 この映画の“外観”は、かなり危なっかしい。主人公の若い男女は自己陶酔型のモノローグと意味ありげな仕草を延々と垂れ流す。その芝居がかったワザとらしさに拒否反応を起こす観客も少なくないだろう。映像的なケレンも満載で、まさに独り善がりの駄作に繋がりそうな雰囲気だ。ところが、本作はギリギリのところで踏み止まる。これはひとえに、作者が描きたいテーマをハッキリと捉えていることに尽きる。奇態なエクステリアはあくまでその“小道具”として機能させているに過ぎない。

 看護婦の美香は昼間は病院に勤務する傍ら、夜はガールズバーで働く。言葉にできない不安や孤独を抱えているが、周囲の誰とも打ち解けられず、悶々とした日々を送っている。工事現場で日雇いの仕事をしている慎二は、学生時代は成績優秀であったにも関わらず、左目が不自由というハンデを負っていることから能動的な生き方を放棄したように見える。そんな2人が、偶然が重なり何度も会うことになる。

 美香は患者の最期に何度も立ち会い、また母親も早く亡くしている。慎二の同僚達は明日が見えない境遇に身を置いており、さらには仲の良かった智之が突然に命を落とすのを目の当たりにする。つまりは2人とも死や絶望と隣り合わせに生きており、何とかそれらに巻き込まれないように心の中に高い壁を作っている。

 ところが、そんな似たもの同士の彼らがめぐり逢うと、互いの立ち位置を客観的に見据えることになり、思わぬ“化学反応”を見せる。それは、相手の視点から“外部”を睥睨することであり、初めて自分の存在とこの世界との距離感を認識することである。努力が報われず先の見えない社会において、彼らはどう世の中と折り合いを付けるのか。その過程をポジティヴに描くことにより、尽きせぬ映画的興趣を呼び込む。

 本作にはラブシーンは存在せず、それどころか2人は手も握らないのだ。それでいて、この重くたれ込めた世界に立ち向かう“同士”としての熱いパッションが溢れている。原作は最果タヒの同名の詩集で、監督の石井裕也はそこからインスピレーションを得て物語を構築したという。かなりの難事業であったと思われるが、そのチャレンジは意欲的で頼もしい。

 慎二に扮する池松壮亮は、今まで一番と思われるパフォーマンスを披露している。美香を演じる石橋静河はぶっきらぼうな演技しかできず、容貌も母親の原田美枝子の若い頃には及ばないが、存在感はある。智之役の松田龍平も同じ二世俳優ながら、最初は大根だったことを考え合わせると、この石橋も期待できるかもしれない。他のキャストでは慎二の先輩に扮した田中哲司が最高だ。食えない中年男を実に楽しそうに演じている。希望を持たせた幕切れも含めて、鑑賞後の印象は良い。
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「ユニバーサル・ソルジャー」

2017-02-24 06:21:18 | 映画の感想(や行)

 (原題:UNIVERSAL SOLDIER )92年作品。ローランド・エメリッヒ監督の初期の映画だが、後年の大味ディザスター・ムービーとは違って予算があまり掛かっていない分、何とそれなりにまとまった出来にはなっている。・・・・というか、本来彼はこの程度の規模の作品を任せられるのが丁度良いと思うのだ。分不相応なスペクタクル巨編なんかを手掛けるから、ボロが出てくる。

 フーバーダムで起こったテロリストによる人質事件をアッという間に解決したのは、ペリー大佐率いる謎の特殊部隊だった。テレビリポーターのヴェロニカは、彼らの正体を探るためにペリー大佐を追う。ネヴァダ沙漠の中に停まる巨大トレーラーが彼らの基地であることを突き止めた彼女だが、兵士たちの正体が、死体を蘇らせて感情や記憶を消した改造人間であることを知ることになる。その中のリュックとスコットに、突然ヴェトナム戦争での記憶がフラッシュバックする。正気を取り戻したリュックはヴェロニカと共に基地から逃亡するが、ペリー大佐とスコット達は彼らを追跡する。

 ヴェトナム戦争で死んだ兵士2人が蘇生手術により戦闘マシーンとして生まれ変わるという筋書きは、大して新味は無い。しかしながら、この2人が、かつての戦場で敵対して同士討ちしたとの設定は悪くない。蘇った後も記憶が残り、生前のキャラクターそのままに大々的なバトルを展開する。

 エメリッヒの演出はとりたてて上手いというわけではないが、最後まで退屈させない程度の求心力は発揮している。ストーリーもほぼ“一本道の展開”なので、突っ込みどころも少ない。

 主演はジャン=クロード・ヴァン・ダムとドルフ・ラングレンで、もちろん前者が善玉役だ。思えばヴァン・ダムはこの頃アイドル的な人気があり、日本ではチョコレートのCMに出ていたほどだった(笑)。片やラングレンは「ロッキー4 炎の友情」(85年)からの流れで悪役一筋。でも、2人とも仕事が今でもコンスタントに入ってくるのは良いことだと思う。マッチョ系の役者では成功した部類だろう。ヴェロニカに扮するアリー・ウォーカーもけっこう魅力的。なお、続編が作られているが、私は未見である。
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「四十二番街」

2017-01-16 06:32:50 | 映画の感想(や行)

 (原題:42nd Street )1933年ワーナー・ブラザーズ作品。ハリウッド製ミュージカル映画の嚆矢として知られる作品だが、私は福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映で、今回初めて観ることが出来た。映画としては時代を感じさせるほどの脱力系のドラマ運びながら、ラスト15分間のミュージカル場面の盛り上がりは目覚ましく、個人的には観て良かったと思っている。

 金持ちの老人アブナー・ディロンは女優ドロシー・ブロックに御執心で、彼女を主演に据えたミュージカルを作るために出費することになった。演出を担当するのはかつて名声を得たジュリアン・マーシュだが、実はスランプ気味でメンタル面も危ない状態。それでもカネのため無理して製作に乗り出す。

 一方、ドロシーが本当に好きなのは昔から仕事上のパートナーだったパット・デニングであった。そのパットは駆け出し女優のペギーと懇意になっていたが、ドロシーが痴話喧嘩の果てに怪我を負ってしまうと、ペギーに主役の座が回ってくる。すったもんだの末にキャストが決まり、開演まで時間がない状況で一同は稽古に励むのであった。

 正直言って映画の大半を占める誰と誰が惚れたの何だのといった展開は、退屈極まりない。ロイド・ベーコンの演出は冗長で、山らしい山もないまま時間だけが過ぎていく。しかしこれは、製作年度を考えると仕方がないかもしれない。当時はこのぐらいのマッタリした流れが丁度よかったのだろう。

 ところが、クライマックスのミュージカルの実演になると、一気にヴォルテージは上昇。高名な振付師であったバスビー・バークレーによる見事なステージは、観る者を瞠目せしめるだろう。特にフォーメーションを上からのカメラで捉えるシーンは、上演する劇場の観客が絶対に見ることができない光景であり、映画におけるミュージカルの可能性を示したことで、映画史に残る金字塔だという評価もうなずける。

 ジュリアン役のワーナー・バクスターをはじめビービー・ダニエルス、ジョージ・ブレント、ウナ・マーケル、ルビー・キーラーといったキャストは(あまりに古い映画であるため)馴染みがないが、申し分のない仕事をしていると思う。

 特筆すべきは脇役としてジンジャー・ロジャースが出ていることで、後年のMGMミュージカルで神業的なパフォーマンスを見せる彼女と同一人物とは思えないほど、身体が絞れていない(笑)。でもまあ、この時代ならば仕方がないだろう。それどころか、早い時期から彼女を起用したプロデューサーの慧眼を認めるべきなのかもしれない。
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「ヤング・アインシュタイン」

2016-12-19 06:31:07 | 映画の感想(や行)
 (原題:YOUNG EINSTEIN)88年オーストラリア作品。コイツは面白い。観る前は“ガイジンには笑えても、日本人はちっとも笑えないアチラ産の大味コメディじゃないのか?”とも思っていたのだが、実際に接してみたらそんなことは全くなかった。若い頃のアルバート・アインシュタインを描く・・・・という建前で、中身は徹底的にお笑い方面にイジられており、しかも史実をもマジメに見据えた上で玄妙に大幅改変しているという芸の深さ。作った奴はただ者ではない。

 タスマニア島でのどかに暮らしていたアインシュタインは、自家製ビールに泡を立てる方法を考えている間に相対性理論の公式を発見。早速彼はその理論を発表するため・・・・ではなくビールの醸造法の特許を得るため大都市シドニーへ向かう。途中、列車の中でマリー・キューリーと出会って一目惚れするが、居合わせたプレストンによって邪魔されてしまう。



 残念ながら特許は得られなかったが、シドニーに滞在している間にアインシュタインはサーフィンを発明したりと、マリーの歓心を得ることに成功。嫉妬したプレストンは彼を精神病院に入れ、ビール製法を盗んでノーベル賞をも受賞しようと企んだ。ところがビール製造器は実は原子爆弾であり、爆発に向けてのカウントダウンを開始。アインシュタインは新発明のエレクトリック・ギターでそのエネルギーを放出させようと奮闘する。

 アルバート・アインシュタインは南ドイツ出身のはずだが、ここでは勝手に別の場所に変えられている(爆)。そもそも彼がキューリー夫人と知り合ったのは、彼女が結婚した後であり、彼も妻帯者だったのだ。さらにはこの時点で故人だったダーウィンがVIPとして出てきたり、ライト兄弟の一人が黒人だったり、フロイトが母親に連れられていたりと、まさにやりたい放題。

 だが、主人公が特許局に勤めることになるくだりは、実際に彼が特許局の技師だった事実にヒントを得たものだ。ついでに言うと、プレストンのモデルはヒットラーであり、彼がバーバリアン兄弟と手を結んでビールを作る展開は、ヒットラーがドイツのババリア地方を支配できれば全ドイツを制圧できると考え、ミュンヘンのビアホールに押し入って新しい独裁政府を宣言したという事実の巧妙なパロディである。このように、作者はただおちゃらけているのではなく、徹底的に素材を研究していると言えよう。

 監督および製作・脚本・主演をもこなすのは、オーストラリア出身のヤッホー・シリアスなる人物。このふざけた名前を、アーティストとしての自分の信念で、なんと本名にしているというナイスな野郎である。展開はテンポ良く、カラフルな映像に絶妙のギャグが入り交じり、人を食ったラストまで存分に楽しませてくれる。シリアス監督のその後の消息は知らないが、本作を手掛けたことだけでも記憶に値する人物であると思う。
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「蘇える金狼」

2016-08-30 06:26:02 | 映画の感想(や行)
 79年作品。角川映画40年記念企画としてリバイバル上映され、今回初めて観ることが出来た。いやはや、それにしても酷い出来である。こんなものが多額の宣伝費をかけて全国拡大公開されていたというのだから、この頃の邦画界というのはマトモではなかったと言うべきであろう(もっとも、それは角川映画に限った話だったのかもしれないが ^^;)。

 大手油脂メーカーの経理課に籍を置く若手サラリーマンの朝倉哲也は、凶悪な“裏の顔”があった。ある日、朝倉は現金移送中の銀行のスタッフを襲い、一人を射殺して1億円を強奪。ところが、その札はナンバーが銀行に登録されていて使えない。彼は横須賀のヤクザに掛け合ってその札を麻薬に替え、それを再び安全な紙幣に替えた。やがて朝倉は、手に入れた麻薬で会社の上司の愛人である永井京子を手なずける。



 一方、会社の不正経理を嗅ぎつけた桜井という男が強請を仕掛けてくる。会社側は朝倉に桜井の始末を依頼するが、事が終わり次第に朝倉自身の抹殺も企んでいた。それを読んでいた朝倉は、会社幹部の弱みを握って逆襲に転じる。大藪春彦の同名の小説(私は未読)の映画化だ。

 とにかく、筋書きが滅茶苦茶である。杜撰な現金強奪作戦を堂々とやってのける厚顔無恥ぶりから始まって、主人公がボクシングジムに通っているという事実を掴んだだけで、いきなり殺しの依頼をする会社幹部が噴飯ものならば、上手く立ち回ったつもりで全く合理的ではない行動を取る桜井にも呆れる。映画の進行と比例するかのように支離滅裂の度合いは幾何級数的に上昇し、ラスト近辺などスタッフが映画作りを放り出したような醜態だ。

 そもそも、朝倉の正体と行動規範がまったく納得いくようには扱われていない。普通の勤め人でありながら銃の扱い方に長けており、人を殺すことを何とも思っていない。それ相応の“経歴”を臭わせる部分があって然るべきだが、その気配は全くない。もちろん、どういう内面を持っているのか皆目分からない。

 監督は村川透だが、撮影時に何か悩みでもあったのではないかと思うほどグダグダである。アクションシーンには緊張感・高揚感は皆無。テレビの刑事ドラマにも劣る。こんなつまらない内容の映画に、豪華なキャストが顔を揃えていることには驚かされる。主演の松田優作をはじめ、佐藤慶や成田三樹夫、小池朝雄、草薙幸二郎、岩城滉一、真行寺君枝、千葉真一等々、よくもまあ集めたものだ。だが、全員揃いも揃って精彩を欠く。良かったのは美しさとエロさを全面開示した京子役の風吹ジュンぐらいだ。

 角川映画はそれまで邦画界に存在しなかったメディア・ミックスを仕掛けて一世を風靡したが、良い作品は数えるほどしか無い。いくらマーケティングを新規に工夫しても、実際に映画を作るのは従来からのスタッフと俳優達であることを失念していたようだ。早晩“限界”に達してしまうのは当然のことだったのだろう。
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「ヤング・アダルト・ニューヨーク」

2016-08-19 06:23:23 | 映画の感想(や行)

 (原題:WHILE WE'RE YOUNG )作者の“魂胆”が見え透いており、全然愉快になれないシャシンだ。もっとも、筋書きが型通りでも語り口が巧みならば評価できるのだが、これが凡庸きわまりないので途中で面倒くさくなってくる。あとは眠気との戦いに終始。正直、観たことを後悔してしまうような映画である。

 ニューヨークのブルックリンに住むドキュメンタリー映画監督のジョシュと、その妻で映画プロデューサーのコーネリアは共に40歳代半ば。子供はいない。ジョシュはスランプ気味で新作を手掛けられず、アートスクールの講師をやって糊口を凌いでいる。コーネリアは著名な監督である父親の作品を担当しているが、先の見えない状態であるのは夫と同じである。ある日、2人はアートスクールの聴講生である監督志望のジェイミーとダービーの若夫婦と知り合う。彼らは流行のデジタルデバイスに背を向け、レトロかつクリエイティヴな生活を送っている。ジョシュとコーネリアは彼らに触発され、元気を取り戻していく。しかし、実はジェイミーはとんだ食わせものであり、自身の映画作りにジョシュ達を巻き込もうとしていたのだ。やがてジョシュは、難しい立場に置かれることになる。

 要するに、トシばかり取って何の実績もあげていないのではと悩む中年夫婦が、溌剌と見える若い者達と知り合ったことにより柄にも無く頑張ってしまうものの、結局は身の程を知るという、あまり奥深いとは思えないハナシを予定調和的に綴っているだけだ。カルチャーギャップを前面に出して似非インテリ中年の悲哀を描いたつもりだろうが、あいにくそのような単純な図式に乗せられてしまうほど、こちらはナイーヴではない。

 だいたい、ちゃんとしたカタギの人間ならば、ジェイミーのような胡散臭い若造に容易く丸め込まれたりしないのだ。それは主人公が行き詰まった映像作家だろうと、子供がいない家庭だろうと、たとえ独身であったとしても関係ない。単に考えが足りないだけである。ジェイミーの佇まいも、いかにもワザとらしくて脱力してしまう。

 監督のノア・バームバックは“ウッディ・アレンの後継者”みたいな評価を受けているらしいが、有能かつ海千山千のアレンとは比べるのもおこがましい。アレンならばこのような無理筋の設定も軽妙洒脱なコメディに仕立て上げてしまうのだろうが、バームバックの演出は平板に過ぎる。テンポは悪いし、ギャグの振り方もイマイチだ。音楽の使い方は凝っているが、何やら“オレって、センス良いだろ”と言わんばかりの選曲には閉口する。

 主演のベン・スティラーをはじめ、ナオミ・ワッツ、アダム・ドライヴァー、マンダ・サイフリッド、チャールズ・グローディンと、結構多彩なキャストを集めているのに、もったいない話である。

 余談だが、ジェイミーの家にはアナログレコードが山積みにされており、彼はそれをPIONEERの古いプレーヤーを使って聴くのだが、その様子にジョシュが“コイツは上の世代と話が合う”と勝手に合点してしまうくだりはけっこう痛々しい。彼のこの趣味は、文字通り自分の好みでしかない。オジサン層に共感してどうのこうのというハナシでは決してないのである。最近はアナログレコードを好む若い世代が増えつつあるらしいが、この動きを“古い世代の価値観(?)”で捉えてその範囲内での商品展開しか出来ないというのも、送り手側の独善でしかないと思う。
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「ヤクザと憲法」

2016-02-19 06:38:00 | 映画の感想(や行)
 観る価値は十分にある注目作だ。ヤクザと人権問題に迫ったドキュメンタリー作品という触れ込みだが、それよりもヤクザを取り巻く環境、ひいては我々が住む社会の問題点をあぶり出している点が出色である。そもそもヤクザに“人権”があるのかどうかという、身も蓋も無い極論を軽く粉砕してしまうほどの重量感が、この映画にはある。

 取材対象は、大阪の指定暴力団“二代目東組”傘下にある“二代目清勇会”である。スタッフが組員達と取り交わしたルールは“取材謝礼金は支払わない”“収録テープ等を放送前に見せない”“顔のモザイクは原則しない”というもの。

 製作は戸塚ヨットスクール事件を扱った「平成ジレンマ」、四日市公害問題を扱った「青空どろぼう」など、ドキュメンタリー番組で数々の実績を上げた東海テレビだが、この一歩も引かない姿勢は評価されるべきだし、それ以上にその制約を受け入れた清勇会のスタンスが実に興味深い。つまり昨今は平気で“人権”が蹂躙される風潮がはびこり、本来アウトローであるはずの彼ら自身もそのあおりを食らって、シャレにならないほど追い詰められているということなのだ。

 ヤクザにはマトモな商取引は許されず、部屋も借りられない。ヤクザの子供は保育園から入園を断られる。山口組の顧問弁護士である山之内幸夫も登場し、組員の窮状を訴える。もちろんこれらは暴対法等による締め付けに端を発していることなのだが、では社会から爪弾きにされている彼らを受け入れるところが世の中にあるのかというと、まず存在しないのだ。

 取材先の清勇会のメンバーの中で最も印象的なのは、二十歳そこそこで入った若い組員だ。あまり人付き合いが上手には見えない彼は、おそらくは家庭にも学校にも居場所がなかったのだと思われる。劇中で彼が何か不手際をおこない、兄貴分からヤキを入れられる場面がある。鼻血を出しながら落ち込んでしまう彼だが、その後で年嵩の組員が一緒に食事を取ったりしてフォローする。カタギの世界では傷心の彼に声を掛ける者もいなかったであろうことを考えると、ヤクザ組織の方が彼にとって住み易かったりするのは何とも皮肉だ。

 ディレクターのひじ方宏史は当初定められた“事務所での取材時間は朝から夕方まで”という取り決めを守りつつも、個別の組員に対しては私生活に肉迫したアプローチを敢行して驚かされる。特に何かヤバいものを売買している現場をとらえたシークエンスは、警察沙汰一歩手前の緊張感がみなぎって圧巻だ。

 終盤で清勇会の親分が取材陣の“ヤクザを辞めるという選択肢はないのか”との質問に対して“辞めても他に行くアテなんか無い”と言い放つシーンは痛切だ。確かに反社会的集団は糾弾されても当然だが、彼らを叩くばかりでは根本的な問題は何一つ解決しないのである。はぐれ者にも行き場が用意され、社会の構成員の端くれとして生きられる世の中こそが、あるべき姿だろう。ただでさえ出口の見えない不況も相まって、一面的で例外を認めないような硬直した風潮が罷り通ってしまう昨今である。
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「誘拐報道」

2016-01-09 06:25:53 | 映画の感想(や行)
 82年作品。一本の映画の中で“とても優れている部分”と“つまらない部分”が等間隔で並んでいるという、興味深い光景が見られる。ただしその“優れている部分”があまりにも上質なので、全体的な点数は悪くない。いずれにしろ、製作主体の意向と作家性との齟齬が生じるとこのような映画が出来上がるという好例であろう。

 豊中市に住む古屋数男は喫茶店経営に失敗して二進も三進も行かなくなり、ついには子供を誘拐することを思い付く。ターゲットは羽振りの良い小児科医の三田村昇の息子である英之だ。名門の私立小学校に通う英之の下校途中を狙った誘拐劇は成功し、父親の昇に三千万円の身代金を要求する。



 県警本部の発表でこの事件が新聞記者達に伝えられるが、各新聞社に“報道協定”の要請があり、子供の生命がかかっているため、各社は受けざるを得なかった。数男は英之を連れ回し、挙げ句に殺害しようとするが、タイミングを逸しているうちに殺意が後退してゆく。一方で警察は数男を追い詰めるべく、着実に捜査を進めていた。

 前述の“優れている部分”というのは、犯人の数男およびその家族の描写である。彼は気が小さいくせに見栄っ張りで、収入が多くないのに娘の香織を英之と同じ私立の学校に通わせていた。家計を助けるために妻の芳江は工場で働いているが、やがて数男は高利貸の森安にだまされて店を取り上げられてしまう。

 どうしようもない男と、それにウンザリしながらも付き慕う妻。演じる萩原健一と小柳ルミ子の渾身のパフォーマンスにより、目を見張るリアリティを獲得するに至っている。また子役時代の高橋かおりが演じる香織が最後に言い放つセリフは、まさに痛切だ。

 対して“つまらない部分”というのは、かなりの時間を割いて描かれる新聞記者連中の扱い方だ。本作は、実際に起きた学童誘拐事件を題材にした読売新聞大阪本社社会部編集による同名ドキュメンタリーを原作としており、製作にも同社は関与している。そのためか、実に通り一遍の描かれ方しかされていない。ハッキリ言って、無い方がマシだった。

 監督の伊藤俊也はこのネタを何としても映画化すべく、当時の岡田茂東映社長を説き伏せ、小柳の所属するプロダクションにまで直談判したということだが、結局は製作サイドの事情という“壁”に突き当たってしまったということだろう。

 なお、新聞社の部長に扮する丹波哲郎をはじめ、中尾彬、藤巻潤、平幹二朗、菅原文太、秋吉久美子、伊東四朗など、配役はかなり豪華。しかしながら、主人公一家以外のキャラクターが全然“立って”いないので、何やら虚しい気分になる。菊池俊輔の音楽は良好で、特に谷川俊太郎の詩に曲を付けた「風が息をしている」というナンバーは素晴らしい効果を上げている。
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「夜の罠」

2015-09-01 06:30:34 | 映画の感想(や行)
 昭和42年作品。いかにもB級サスペンスといった作りだが、富本壮吉の演出はテンポが良く、映像はキレがあるし、何より話が面白い。コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の小説を「雁の寺」などの舟橋和郎が脚色したものだ。

 真鍋藍子はサラリーマンの夫が浮気しているのではないかと思い、興信所に調査を依頼。結果、夫はキャバレーの女・麻美と懇ろな仲になっていることが判明した。直談判しようと麻美のアパートに押しかけた藍子だが、そこで見つけたのは彼女の死体だった。夫に嫌疑がかかることを避けるため、夫の名前が載っていた手帳を奪って部屋を出た彼女だが、やがて夫は殺人容疑で逮捕される。彼の無実を信じる藍子は、手帳に名前が記載されていた4人の男のうち誰かが犯人ではないかと疑い、刑事の忠告も聞かずに独自に捜査を始めるのであった。

 ウールリッチの原作「夜の天使」は読んでいないが、事件の関係者がやむなく探偵役を買って出るという、彼の作品に共通したモチーフはここにもあらわれている。藍子は4人に身分を偽って接近し、そのたびに大変なことに巻き込まれ、あやうく命を落としそうになる。それでも全く懲りずに事件の真相に迫ろうとするのだから、まさに浮世離れしたバイタリティだ(笑)。

 しかしながら、演じているのがこれまた浮世離れした美貌の持ち主である若尾文子なので、あまり違和感はない。要するに“スターを引き立てるための映画”なので、細かいことは言いっこなしである(爆)。考えてみればかなり無理筋のストーリーだが、面倒くさい筋書きはヒロインのモノローグが勝手に語ってくれる。

 ラストでは意外な犯人が姿をあらわし、藍子は絶体絶命のピンチに陥る。それでも“たぶん大丈夫だろう”と安心して観ていられるのは、さすが若尾御大の存在感だ。他の出演者では、軟派なプレイボーイに扮する船越英二が最高。人を食った登場の仕方といい、並外れた馴れ馴れしさといい、まさに圧巻だ。成瀬昌彦や南原宏治といった面子も胡散臭くて良い。当時の東京の歓楽街や団地の風景なども興味深いものがある。
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「ゆきゆきて、神軍」

2015-08-16 06:37:26 | 映画の感想(や行)
 86年疾走プロダクション作品。監督は原一男。公開当時は大きな反響を呼び、国内外で多くの賞を獲得している。とにかく凄いドキュメンタリー映画だ。“感動した”とか“共感した”といったレベルの凄さではない。あまりの衝撃に真っ青になってしまうような問題作である。

 この映画の主人公、というか作者が題材にしている人物は奥崎謙三という元日本陸軍の兵士で、彼は数少ないニューギニア戦線での生き残りである。表向きはカタギの仕事をしているが、彼は自らを“神軍上等兵”と称し、天皇の戦争責任を糾弾するため危険なプロパガンダ活動を行なうという、もうひとつの顔がある。といっても左翼過激派とは関係なく、一匹狼の活動家で、昭和天皇にパチンコ弾を打ち込もうとした事件などで、数回逮捕されている。その彼が敗戦直後ニューギニアで起こった兵士処刑事件の真相を暴くべく、遺族とともに当時の戦友を訪ね歩く。映画はその一部始終を追っている。

 何よりもその取材方法が常軌を逸している。カメラは突然の訪問者である奥崎とともに彼にとっての“被告”である元の上官の家に勝手に上がり込む。明らかに迷惑そうな当事者の顔が見える。これはプライバシーの侵害であり、ジャーナリズムのルールにも反している。そして奥崎は相手の知られたくない過去を問いただす。言うことをきかない相手には突然殴る蹴るの暴行まで加える。



 明らかな犯罪行為であるが、それでもカメラは回りっぱなしだ。異常な主人公と尋常ではないスタッフ。ドキュメンタリー映画の一線を超えてしまっているにもかかわらず、そこには異様な迫力がある。嘘いつわりのない主人公の行動に作者のカツドウ屋としての血が騒いでしまったからだろう。

 やがて当時ニューギニアで起こった惨劇の真相が明らかになってくる。事件にかかわった一人である神戸に住む元衛生兵は“そんなこと誰でもやってたことさ。たいしたことじゃないよ”などと言ってのける。このシーンは語られる衝撃的な事実と語る口調の軽さのアンバランスのために、ほとんど圧倒的である。

 この元衛生兵は極端な例としても、戦時中いろいろとヒドいことをした連中が、戦後は善良な市民面して社会生活を営んでいるという事実は、頭ではわかっていても、相当なショックだ。彼らにはアメリカ映画が描くような戦争(特にベトナム戦)の深刻な後遺症に悩む元兵士の面影はどこにもなく、戦争中の蛮行さえも思い出のひとつとして風化させてしまっている能天気な日本人の姿がそこにある。小林正樹監督の「東京裁判」でも示された、誰も責任をとらない日本の権力構造というものが、ここでは一般庶民をも巻き込んだリアルなものとしてはっきりと提示される。

 この作品は映画作りのモラルの点から言うと大きな問題があり、しかもこの主人公は自分が常に正しく自分こそが神の使いであると信じきっており、他人の迷惑など知ったことではない確信犯である。当然、観客の共感は期待できない。あまりにもブッ飛んだ作品であるため、同様の映画が作られることはまずないと思う。しかし、平和をむさぼる現代日本の裏側をあばき出すためには、ここまでやらないとダメだということだろうか。

 この映画の撮影後、奥崎は元上官の息子を狙撃して重傷を負わせ、服役している。また昭和天皇崩御の際には“戦争犯罪人、天皇ヒロヒトに対してようやく天罰が下った”という意味のコメントを残している。なお、彼が出所して2005年に死去するまでの間に撮られたドキュメンタリー作品「神様の愛い奴」は観ていない。
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