大学院レベルで研究したいテーマが1つ見つかった。
「マルチディグリー取得者の心理研究」である。
例えば、私を含めて、大学評価・学位授与機構で複数の学位を取得している人がいる。あるいは、通信制大学等で学位を複数取得している人もいる。
何故、彼ら、あるいは彼女達は、複数の学位を取得するのであろうか?その目的と、社会における評価・認知はいかがなものであろうか?
そんなことを、ふと、思いついた。
電車の中で「学位商法」と言う本を読んでいたときに思いついたのだ。私は、基本的に「極めること」あるいは「集めること」が好きだが、山積みになった学位記を見たいために学位を取得しているわけではない。むしろ、学位記を山積みにしたいなら、インターネットで安いものなら数万円程度でMBA等が販売されているから、そうして学位記を集めれば、すぐに目標は達せられる。
これまた、同時に読んだ「キャリアデザイン入門Ⅱ」では、キャリアプロフィールにおける学歴については「学部卒は書かないことが多くなってきている」とされ、「修士以上が学歴であると言う考え方が広がってきている」としている。
なら、一体、学位ってなんなんだろう?少なくとも、日本においては、短期大学卒業も学位として認め、ついこの前に「短期大学士」を作ったばかりである。その反面、社会的あるいは国際的に高学歴化が進展し、修士あるいは博士を学歴として見なす風潮もある。
なら、学士は不要か?と問いかけるなら、必要と私は確信している。しかし、その根拠をうまく言葉に表すことができない。
修士や博士に到達するための、マイルストーンとして必要というなら、横に学位を展開していく「マルチディグリー」という考え方は不毛である。何故、複数分野の学位取得者が存在するのか。
私自身もそうだが、身近に二桁の学位を取得している社会人が複数いる。一体、彼らは何のために、そこまで学位にこだわるのか?単なる資格マニアと同じ心理なのか、それ以上に、尊い「理念」や「目標」があるのだろうか?
放送大学を6回卒業する人もいれば、大学評価・学位授与機構でも大学卒業者にもかかわらず学位申請する人も多数いる。
私自身、生涯学習以外に学位を取得している動機がありそうで、それをうまく表現できない。自分の深層心理を明らかにするためにも、いずれ、この分野の研究を始めてみたい。
「マルチディグリー取得者の心理研究」である。
例えば、私を含めて、大学評価・学位授与機構で複数の学位を取得している人がいる。あるいは、通信制大学等で学位を複数取得している人もいる。
何故、彼ら、あるいは彼女達は、複数の学位を取得するのであろうか?その目的と、社会における評価・認知はいかがなものであろうか?
そんなことを、ふと、思いついた。
電車の中で「学位商法」と言う本を読んでいたときに思いついたのだ。私は、基本的に「極めること」あるいは「集めること」が好きだが、山積みになった学位記を見たいために学位を取得しているわけではない。むしろ、学位記を山積みにしたいなら、インターネットで安いものなら数万円程度でMBA等が販売されているから、そうして学位記を集めれば、すぐに目標は達せられる。
これまた、同時に読んだ「キャリアデザイン入門Ⅱ」では、キャリアプロフィールにおける学歴については「学部卒は書かないことが多くなってきている」とされ、「修士以上が学歴であると言う考え方が広がってきている」としている。
なら、一体、学位ってなんなんだろう?少なくとも、日本においては、短期大学卒業も学位として認め、ついこの前に「短期大学士」を作ったばかりである。その反面、社会的あるいは国際的に高学歴化が進展し、修士あるいは博士を学歴として見なす風潮もある。
なら、学士は不要か?と問いかけるなら、必要と私は確信している。しかし、その根拠をうまく言葉に表すことができない。
修士や博士に到達するための、マイルストーンとして必要というなら、横に学位を展開していく「マルチディグリー」という考え方は不毛である。何故、複数分野の学位取得者が存在するのか。
私自身もそうだが、身近に二桁の学位を取得している社会人が複数いる。一体、彼らは何のために、そこまで学位にこだわるのか?単なる資格マニアと同じ心理なのか、それ以上に、尊い「理念」や「目標」があるのだろうか?
放送大学を6回卒業する人もいれば、大学評価・学位授与機構でも大学卒業者にもかかわらず学位申請する人も多数いる。
私自身、生涯学習以外に学位を取得している動機がありそうで、それをうまく表現できない。自分の深層心理を明らかにするためにも、いずれ、この分野の研究を始めてみたい。
答えが出る日を楽しみにしています。
僕も知りたいです。
僕も、通信の勉強始める前は、もう大卒だから、二つ目は要らない。
大学院なら別だけど、と思っていました。
また、世間でも、大卒は一つで十分というのが常識のようです。
ただ科目履修生も幾つか経験してみると、
やはり、それでは中途半端な物足りなさが残ります。
「卒論」なり「卒制」なりまとまった結論がなければ、何か「し残し感」があるんですよね。
卒論や卒制で、人生が大きく変わった経験や知見が広がったり、
逆に悩みが深くなる場合もあり、
そうした経験を重ねると、卒業で仕上げることが必要となってきます。
学位はおまけというか、その通過点に到達した単なる証明書です。
人生と言う、おのおの限られた時間を投下して、人は、何かを得ているのです。
人生を等価交換するにふさわしいもの。多くの人は「時間(人生)」⇒「お金」あるいは「時間(人生)」⇒「余暇」という等価交換をするのですが、我々は「時間(人生)」⇒「学問(学位)」に変換していると言えます。
我々は学位という社会的「シグナル」を尊重するタイプの人間です。他者は「シグナルは一つ以上あっても同である」と考える学位の価値をさほど認めないタイプの人間なのでしょう。
1つであろうと、10であろうと、呼称は学士で変わらない。そういうものです。
>あるいは、通信制大学等で学位を複数取得している人もいる。
ハイ、私もそのひとりであり、全く同じ疑問を抱きます。
学位を授与されて満足したそばから、次のメニューを手に取って計画を立てているって、もうこれは「学ぶ」という次元ではなく、「作品を作る」という芸術の次元のような気がします。
もはや、研究履歴・学習履歴をパズルのピースにして、巨大なモザイク画を書いているような気分。画材は何でもありの、巨大な作品をコツコツ作っているような……。
何かそれって、私が名乗る「プロ作家」の作品群にもちょっと似てて、いろんなネタ、いろんなアイディアを組み合わせて、「松本肇」という巨大な作品を作っていくって感覚すらあります(^^;)。
なんだか教育学から芸術学を経由して哲学の方まで来ちゃったという感があります(^◇^)。
結局のところ、学問とは追究し続けると「思想」や「哲学」あるいは、その領域と言える「芸術」にまで遡るのかもしれません。
「作品を創る」という感覚は、そのとおりなのでしょうが、実際、まだその外観が全然見えないことに、大きな不安を覚えてしまいます。
最終的な結論やたどり着く姿は何なのか?その一抹の不安が、私にとって、漠然とした不安を与えるのでしょうか。
学士は Bachelor of Arts ←直訳:芸術学士
博士は Doctor of Philosophy ←直訳:哲学博士
英語の話は頭の中に定着しないです。。。
少数(確か6人だけ)のSCでしたが、面白い内容のSCでした。でも、その内容を思い出すことができない・・・
面白かったという記憶だけが残っております。
>「学ぶ」という次元ではなく、「作品を作る」という芸術の次元のような気がします。
分かります、その感覚。
というか、有形無形のどちらのものを創るアーティストの端くれ(現時点ではほんと端くれの泡沫ですが)としては、
成る程と激しく首肯せずにはおられません。
自分にとって作り始めた作品は、どんな駄作でも完成させてみるのが本能ですから。