今まで気がつかなかったのだが、日経新聞の夕刊に「体験学」という記事が連載されている。
今回、4回目の連載のようでタイトルが「大学院でMBA」となっていた。記者の経験を記事にしている。そして、この記者は法政ビジネススクールに2013年春に入学し15年春に修了したそうだ。総費用は約160万円。学費が約130万円で残りの30万円が書籍代とのこと。
法政は経営学修士を取得するのに2万字以上の論文の提出が必要らしい。わずか2万字。それで修士が取得できる。無論、その他の単位の取得も必要であり、その単位を取得するためには授業に参加し、予習復習し、試験やレポートに合格する必要がある。でも、それは仕事をしながらでも取得できる程度のもの。
私の修了した産業能率大学大学院にも、忙しいIT関連企業の社員や看護士さんもいた。上場企業の管理職はざらにいるし、社員1000人以上の会社の社長もいれば上場企業の元社長もいた。そのような多忙な方々でも概ね2年で修士が取得できる。
この記事の記者も「欧米と違い日本ではMBAの評価は高くない。記者も取得したからといって仕事上の変化は特にない。ただ50歳になってから新たな挑戦を成し遂げたことは、この先の小さな自信になりそうだ」と記事を締めくくっている。
「評価は高くなく」「仕事の変化なく」投下したコストに比べれば、社会的には、全く意味のない「挑戦」により、これまた社会的には全く意味のない「小さな自信」を得ること。それが現状の社会人大学院生の「現実」なのである。
それをわきまえずに、大学院を出て学位を取得したからといって「自慢」したり、後先考えずに「転職」したりするのは、相当おめでたい人だといえよう。国内MBAの学位なんて「小さな自信」を得るくらいの効果しかないし、私のように学位を複数取得しているものからすれば、社会的に通用しない「生涯学習道」の「初段の免状」ぐらいの価値しかない。
先の法政MBAの著者も2年で購入した書籍は50冊(うち3冊アメリカの原書)とのことだが、50冊程度で学位が取得できると思えるような記事を書いた段階で記者失格である。きっと図書館で借りた本もあるだろう。産能でも総研の教授に言われたが、「論文を書くなら、まず関連図書を100冊読め」とのことだ。そして、CINII等で関連の論文を漁る。そこからスタートだろう。
とはいえ、省エネで書こうと思えば、いくらでも手抜きで論文を作成することは可能である。指導教官にもよるのだろうが、放送大学大学院は玉石混交の度合いが酷すぎる・・・でも、学校教育法上は、どこの大学で取得しようが、修士は修士として同価値である。
昔の学士の方が、今の修士より学位取得が難しかったのでは・・・と思ってしまう。それぐらい簡単な学位の取得。たまたま読んでいた「ハングルの愉快な迷宮」と言う本のp.19に「ついにわが家にも修士様が出る」といって大いに喜ぶという記載があるのだが、今の日本の大学院教育からすれば、修了率の極端に低い大学院を避ければ、概ね2年で修士が取得できるのでは・・・と思ってしまった。
脱線するが、前掲書のp.169に思いのほかウケタ記載があった。「日本で人気のマンガ『金田一少年の事件簿』が韓国語に翻訳されて人気を博した。韓国語版のタイトルは『少年探偵キムジョンイル』。これを聞いた日本人は、必ずのけぞって笑う。だけど「金田一」と「金正日」とでは、カタカナ表記は同じでもハングルでは発音が違うので、韓国人にとってはおかしくもなんともないのである。「金田一」という日本の姓を金という姓と名前とに分けたところなど、翻訳者を誉めてやりたいほどだ。」という部分!そうか、カタカナだとそうなっちゃうんだ~と考えてしまったのだった。
話を戻して、そんなに取得しやすい日本の学位。取得しやすいなら効果もないし、学習にもならないだろうと無視するという考え方もあれば、取得しやすいから学位だけでも取得しておこうという考え方もあるだろう。学びとして足りない部分は、己の努力でいかようにもハードルを上げることが可能である。結局、同じ学位を取得したとしても、大学院での学びは自分の努力次第。人生無二ともいえる朋友を得ることができるかもしれないし、転職をいざなってくださる恩師にで会う方も結構いる。そう、必死にがんばっていれば、それなりに「スカウト」してもらえるところでもあるのだから(笑)。
ゆえに、短い人生、幅広かつ積極的に動いていかないことには、面白くないのである。
今回、4回目の連載のようでタイトルが「大学院でMBA」となっていた。記者の経験を記事にしている。そして、この記者は法政ビジネススクールに2013年春に入学し15年春に修了したそうだ。総費用は約160万円。学費が約130万円で残りの30万円が書籍代とのこと。
法政は経営学修士を取得するのに2万字以上の論文の提出が必要らしい。わずか2万字。それで修士が取得できる。無論、その他の単位の取得も必要であり、その単位を取得するためには授業に参加し、予習復習し、試験やレポートに合格する必要がある。でも、それは仕事をしながらでも取得できる程度のもの。
私の修了した産業能率大学大学院にも、忙しいIT関連企業の社員や看護士さんもいた。上場企業の管理職はざらにいるし、社員1000人以上の会社の社長もいれば上場企業の元社長もいた。そのような多忙な方々でも概ね2年で修士が取得できる。
この記事の記者も「欧米と違い日本ではMBAの評価は高くない。記者も取得したからといって仕事上の変化は特にない。ただ50歳になってから新たな挑戦を成し遂げたことは、この先の小さな自信になりそうだ」と記事を締めくくっている。
「評価は高くなく」「仕事の変化なく」投下したコストに比べれば、社会的には、全く意味のない「挑戦」により、これまた社会的には全く意味のない「小さな自信」を得ること。それが現状の社会人大学院生の「現実」なのである。
それをわきまえずに、大学院を出て学位を取得したからといって「自慢」したり、後先考えずに「転職」したりするのは、相当おめでたい人だといえよう。国内MBAの学位なんて「小さな自信」を得るくらいの効果しかないし、私のように学位を複数取得しているものからすれば、社会的に通用しない「生涯学習道」の「初段の免状」ぐらいの価値しかない。
先の法政MBAの著者も2年で購入した書籍は50冊(うち3冊アメリカの原書)とのことだが、50冊程度で学位が取得できると思えるような記事を書いた段階で記者失格である。きっと図書館で借りた本もあるだろう。産能でも総研の教授に言われたが、「論文を書くなら、まず関連図書を100冊読め」とのことだ。そして、CINII等で関連の論文を漁る。そこからスタートだろう。
とはいえ、省エネで書こうと思えば、いくらでも手抜きで論文を作成することは可能である。指導教官にもよるのだろうが、放送大学大学院は玉石混交の度合いが酷すぎる・・・でも、学校教育法上は、どこの大学で取得しようが、修士は修士として同価値である。
昔の学士の方が、今の修士より学位取得が難しかったのでは・・・と思ってしまう。それぐらい簡単な学位の取得。たまたま読んでいた「ハングルの愉快な迷宮」と言う本のp.19に「ついにわが家にも修士様が出る」といって大いに喜ぶという記載があるのだが、今の日本の大学院教育からすれば、修了率の極端に低い大学院を避ければ、概ね2年で修士が取得できるのでは・・・と思ってしまった。
脱線するが、前掲書のp.169に思いのほかウケタ記載があった。「日本で人気のマンガ『金田一少年の事件簿』が韓国語に翻訳されて人気を博した。韓国語版のタイトルは『少年探偵キムジョンイル』。これを聞いた日本人は、必ずのけぞって笑う。だけど「金田一」と「金正日」とでは、カタカナ表記は同じでもハングルでは発音が違うので、韓国人にとってはおかしくもなんともないのである。「金田一」という日本の姓を金という姓と名前とに分けたところなど、翻訳者を誉めてやりたいほどだ。」という部分!そうか、カタカナだとそうなっちゃうんだ~と考えてしまったのだった。
話を戻して、そんなに取得しやすい日本の学位。取得しやすいなら効果もないし、学習にもならないだろうと無視するという考え方もあれば、取得しやすいから学位だけでも取得しておこうという考え方もあるだろう。学びとして足りない部分は、己の努力でいかようにもハードルを上げることが可能である。結局、同じ学位を取得したとしても、大学院での学びは自分の努力次第。人生無二ともいえる朋友を得ることができるかもしれないし、転職をいざなってくださる恩師にで会う方も結構いる。そう、必死にがんばっていれば、それなりに「スカウト」してもらえるところでもあるのだから(笑)。
ゆえに、短い人生、幅広かつ積極的に動いていかないことには、面白くないのである。