妄想日記
2017-02-15 | 雑記
今日はそうでもなかったのだが、先日、ブログを書こうと編集画面を開くと・・・。なんだかテレビを点けたような嫌な感覚が起こった(その感覚がわからない人には伝わらない例えだが)。それなので、前回の記事は、メモ帳に書き込んでそれを貼り付けるという形をとった。今、こうやって書き始めていると、少々気分が悪くなってきた。
ここにコメントを好んでする人はほぼいないので、コメントについての記事といったらもう特定の書き込み相手しかいないのだが、それでもやる。
しばらく前から度々引用していたMAGICAカバラというブログ。これで検索したら出てくるので、リンクは貼らない。
有名シナリオライターは実際はアレンジャー程度の存在だったという話を、あれやこれやと書いていて、実際に、例えば宮崎駿の発言だったり、最近見たのでは、庵野秀明の発言を取り上げていた。
そういう話を書いていたら、噛み付いてきたわけだ。噛み付くならわしに噛み付くんじゃなくて、その脚本家だとかに噛み付くほうがいいかもしれんのだが。
そのブログの管理者もシナリオライターだそうな。具体的な作品名などはあげていないので、実のところはわからんが、くだらない嘘をついても仕方ないので、疑う理由もない。
それで、件のコメントはなんと噛み付いてきたのかというと、「その程度でシナリオライターを自称するなんぞ、たかがしれた奴だ」などと。見返したくないので、コピペではないことをお断りしておく。
わしは別に、そのブログの人と面識があるわけでもないし、擁護しようとかそういうつもりはないのだが、そやつが罵倒するのがまずおかしい。
なぜならば、有名脚本家に限って、自分自身の才能はたいしたことがなかった(宮崎)だの、あの話は体験でしかなく、話を何もないところから作れると思うのは傲慢だ(庵野)と語っているのを無視している。
有名脚本家の自嘲、といえなくもないかしらんが、コメントの台詞は、有名脚本家に向けていわなくてはなるまい。
「その程度でシナリオライターとはおこがましい」だったかな?
ここでさらに問題がある。こんな妙ちきりんなブログにコメントをしにきていた、というのが問題だ、とかいう話ではなく。
読んでたであろうに、人の話を理解していないか、端から理解するつもりがなかったとしかいえない。
それほどたいした話はしてはなかったが、それはともかく。わしは散々、「我々が当たり前だと思っていることは嘘偽りだ」という話をしていた。あのおっさんの元で、後半はたわけた自慢話が目立つラヂヲをやっていた時からずっとだ。行きつ戻りつだったが。
そのコメントはつまり、こう考えているとなる。
「才能のあるシナリオライターというのは、何もないところから素晴らしい作品を作り上げているのだ」と。
誰でもなんとなくそう思うだろう。わしだって思っていた。だが、これもまた、思い込みでしかなかったと。
その思い込みを疑え、覆せ、と言っているのに、思い込みを金科玉条にしてモノをいう。モノを言っているつもりで何も言っていない。
そして、それに纏わるコメントで「世界と社会のバランスがどうこう」などと言ってきたのに対し、こう返した。
「世界と社会のバランスを取るというのが、既成概念の強化のつもりなら、このブログのコメント欄で議論をする意味はない。自身でその自説を流布すべし」と。
以来、数ヶ月は過ぎたか。未だにコメントはない。そのつもりでないなら書けばよかろうが、そういう風に取る以外ない。
「今は上手く書ききれないが、そのつもりではない」と一言コメントぐらい出切るであろうが、そうもしない。PCが壊れた、とかいうならしらんが、埋め込まれた常識を大前提にして話をしているのを自身で理解していないのだから、こう言われれば多少は理解するだろうと思う。
さて、本当につまらない話はここで終る。
次は少々つまらない話である。
先月から、作文の訓練として、小説のような何かを書いていると述べた。
後悔するので公開しないとも言ってある。それはともかく。
いわゆるライトノベル的なノリの、漫画を小説にしたような内容ではある。具体的にどの作品かと問われると、書いた本人もわからないと答えるであろうが、どこかで見たようなシチュエーションがてんこ盛りという有様である。
それを、無い頭を捻って一字一句悩みながら書いている・・・のではなかった。
こういうと、頭がおかしくなったと言われるだろうが、体験したことを思い出したり、忘れている部分を補ったりして、あったことを日記に丸々書き込んでいるんじゃないか?というような、変な感覚なのである。正直、ブログを書くほうがしんどいレベルである。
だから、あれは小説じゃなくて「妄想日記」なんだろうと、思い至った。
そこで、上記の庵野監督の発言に戻る。「あれ」はエヴァンゲリオンのことだそうだが、自分の経験を元にしたもので~という発言だったそうな。
『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦は、自身をモチーフにしたキャラ(漫画家)に、「自分が体験したことを作品に盛り込むと面白くなる」といった趣旨の発言をさせている。あのシーンは強烈だった。クモをグチグチさして、体液をなめるとかいう。
人間の記憶というのは、脳が五感を通して覚えた情報である。ならば?
そう。妄想や夢というのもまさしく、記憶なのである。そして、夢の中などでは、見たこともない光景や存在を目の当たりにすることもある。
映画『マトリックス』で、主人公のネオがマトリックスの支配について知らされ、戦いを挑むのだが、その際に何をしていたかというと、イメージトレーニングである。脳に夢を見せているマトリックスのやり方を利用して、超人的な動きや能力を仕込んでいた。そして、マトリックスの中にまた入りなおして、言ってしまえば強敵と渡り合う夢を見に行っているわけだ。
アスリートなんかもそうである。試合前に、自身の最高のプレイを現実のものとしてイメージする、ということを行っている。
いわゆる常識は、誰かが、何かが作って見せている夢である。
あなたが見るべき夢の中では、あなたは主役なのである。
夢を、夢の中で眠らせたままでは、目覚めることもままならないであろう。
などと、意味不明な供述をし・・・。
つまりは、有名な脚本家やらがあの様な発言をするという理由が、なんとなく感じ取れたような気がする、という話である。
では、よき終末を。
ここにコメントを好んでする人はほぼいないので、コメントについての記事といったらもう特定の書き込み相手しかいないのだが、それでもやる。
しばらく前から度々引用していたMAGICAカバラというブログ。これで検索したら出てくるので、リンクは貼らない。
有名シナリオライターは実際はアレンジャー程度の存在だったという話を、あれやこれやと書いていて、実際に、例えば宮崎駿の発言だったり、最近見たのでは、庵野秀明の発言を取り上げていた。
そういう話を書いていたら、噛み付いてきたわけだ。噛み付くならわしに噛み付くんじゃなくて、その脚本家だとかに噛み付くほうがいいかもしれんのだが。
そのブログの管理者もシナリオライターだそうな。具体的な作品名などはあげていないので、実のところはわからんが、くだらない嘘をついても仕方ないので、疑う理由もない。
それで、件のコメントはなんと噛み付いてきたのかというと、「その程度でシナリオライターを自称するなんぞ、たかがしれた奴だ」などと。見返したくないので、コピペではないことをお断りしておく。
わしは別に、そのブログの人と面識があるわけでもないし、擁護しようとかそういうつもりはないのだが、そやつが罵倒するのがまずおかしい。
なぜならば、有名脚本家に限って、自分自身の才能はたいしたことがなかった(宮崎)だの、あの話は体験でしかなく、話を何もないところから作れると思うのは傲慢だ(庵野)と語っているのを無視している。
有名脚本家の自嘲、といえなくもないかしらんが、コメントの台詞は、有名脚本家に向けていわなくてはなるまい。
「その程度でシナリオライターとはおこがましい」だったかな?
ここでさらに問題がある。こんな妙ちきりんなブログにコメントをしにきていた、というのが問題だ、とかいう話ではなく。
読んでたであろうに、人の話を理解していないか、端から理解するつもりがなかったとしかいえない。
それほどたいした話はしてはなかったが、それはともかく。わしは散々、「我々が当たり前だと思っていることは嘘偽りだ」という話をしていた。あのおっさんの元で、後半はたわけた自慢話が目立つラヂヲをやっていた時からずっとだ。行きつ戻りつだったが。
そのコメントはつまり、こう考えているとなる。
「才能のあるシナリオライターというのは、何もないところから素晴らしい作品を作り上げているのだ」と。
誰でもなんとなくそう思うだろう。わしだって思っていた。だが、これもまた、思い込みでしかなかったと。
その思い込みを疑え、覆せ、と言っているのに、思い込みを金科玉条にしてモノをいう。モノを言っているつもりで何も言っていない。
そして、それに纏わるコメントで「世界と社会のバランスがどうこう」などと言ってきたのに対し、こう返した。
「世界と社会のバランスを取るというのが、既成概念の強化のつもりなら、このブログのコメント欄で議論をする意味はない。自身でその自説を流布すべし」と。
以来、数ヶ月は過ぎたか。未だにコメントはない。そのつもりでないなら書けばよかろうが、そういう風に取る以外ない。
「今は上手く書ききれないが、そのつもりではない」と一言コメントぐらい出切るであろうが、そうもしない。PCが壊れた、とかいうならしらんが、埋め込まれた常識を大前提にして話をしているのを自身で理解していないのだから、こう言われれば多少は理解するだろうと思う。
さて、本当につまらない話はここで終る。
次は少々つまらない話である。
先月から、作文の訓練として、小説のような何かを書いていると述べた。
後悔するので公開しないとも言ってある。それはともかく。
いわゆるライトノベル的なノリの、漫画を小説にしたような内容ではある。具体的にどの作品かと問われると、書いた本人もわからないと答えるであろうが、どこかで見たようなシチュエーションがてんこ盛りという有様である。
それを、無い頭を捻って一字一句悩みながら書いている・・・のではなかった。
こういうと、頭がおかしくなったと言われるだろうが、体験したことを思い出したり、忘れている部分を補ったりして、あったことを日記に丸々書き込んでいるんじゃないか?というような、変な感覚なのである。正直、ブログを書くほうがしんどいレベルである。
だから、あれは小説じゃなくて「妄想日記」なんだろうと、思い至った。
そこで、上記の庵野監督の発言に戻る。「あれ」はエヴァンゲリオンのことだそうだが、自分の経験を元にしたもので~という発言だったそうな。
『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦は、自身をモチーフにしたキャラ(漫画家)に、「自分が体験したことを作品に盛り込むと面白くなる」といった趣旨の発言をさせている。あのシーンは強烈だった。クモをグチグチさして、体液をなめるとかいう。
人間の記憶というのは、脳が五感を通して覚えた情報である。ならば?
そう。妄想や夢というのもまさしく、記憶なのである。そして、夢の中などでは、見たこともない光景や存在を目の当たりにすることもある。
映画『マトリックス』で、主人公のネオがマトリックスの支配について知らされ、戦いを挑むのだが、その際に何をしていたかというと、イメージトレーニングである。脳に夢を見せているマトリックスのやり方を利用して、超人的な動きや能力を仕込んでいた。そして、マトリックスの中にまた入りなおして、言ってしまえば強敵と渡り合う夢を見に行っているわけだ。
アスリートなんかもそうである。試合前に、自身の最高のプレイを現実のものとしてイメージする、ということを行っている。
いわゆる常識は、誰かが、何かが作って見せている夢である。
あなたが見るべき夢の中では、あなたは主役なのである。
夢を、夢の中で眠らせたままでは、目覚めることもままならないであろう。
などと、意味不明な供述をし・・・。
つまりは、有名な脚本家やらがあの様な発言をするという理由が、なんとなく感じ取れたような気がする、という話である。
では、よき終末を。
以前、コメントを書いた際には、「浅はか」と表現しましたが、そこには「おこがましさ」のようなニュアンスは含まれておらず、私が言いたかったのは、もっと別なところにあります。ましてや、「才能のあるシナリオライターは、何もない所から云々」などという世迷い言は、腰が抜けても言えません。
つまり、今はシナリオライターの話をしているわけですから、その文脈に則った言葉を使いますと、「想像力」の一言に要約できるかと思います。その想像力が何であるのかに関しては、既に書いた通りです。
しかし気になるのは、私の書き方が下手だったからそのように解釈されたのか、それとも、安生さんの無意識が表出した結果としての、その解釈なのか、という事なのですが、あるいは両方なのかもしれません。無論、断定するつもりはさらさらありませんが、それでも、私の視点を通して見れば、そのように感じられる時がある、という話ではあります。
結論としては、確かに無視するのが正解だったのかもしれません。しかし、それだとコメントする意味が薄れるように思いますし、何より私自身が未熟者であるという事で、どうかご勘弁下さい。(本人に直接言う気も起きないという意味では、無視しているとも言えますが)
それから、実社会とのバランス云々の話に関しましても、何も既成概念がどうとか、そういった大きな話をしようというわけではなくて、つまり要約すると、次のような一文になります。
「スピリチュアルの阿呆どもとか言ってる馬鹿はもう少し考えてから発言をした方が良いし、逆にスピリチュアリティの罠に嵌ってる阿呆どもは、いい加減に目を覚ませよ」
無視できないからこそ、こうやってネットでカタカタやってるのだと思います。もちろんそれだけではありませんが。
※ 以前にコメントを放棄した件ですが、あれは完全に私の怠慢です。自分が悪いとは言え、一度消えてしまったものを書き直す気力が湧かず、言い訳めいた事だけを残して、終わらせてしまいました。
当然、あのコメントは不要でしたね。失礼を致しました。
なぜ、私が想像力の言葉を出したのかと言いますと、
「シナリオライターを名乗っている割には、内から沸き上る創作の種に対して、やたらめったら結社だなんだのと繋げていて、その辺りに浅はかさを感じている」
からです。
ただし、「あの管理人の書くシナリオなんてつまらないに決まっている」というような意味ではなく、その辺りの事に何の言及してなかったので、繰り返しになりますが、不親切だったなと。
要するに「何でもかんでも自分の持つ知識を断定的に主張するばかりで、パラノイアを疑わざるを得ない」
ということです。
まだまだ雑なところはありますが、私の主張としてはそんなところです。
↓
「何でもかんでも自分の持つ知識を断定的に繋げるばかりで」
さて、大体の人はハンドルネームを変更したら、その際は「元○○です」と相手に伝えるものです。ご注意を。他の人と交流したことが無いというなら、あまり意味はないですが。
「スピリチュアルの阿呆どもとか言ってる馬鹿はもう少し考えてから発言をした方が良いし、逆にスピリチュアリティの罠に嵌ってる阿呆どもは、いい加減に目を覚ませよ」
そういう風に考えていたんですね。あの文ではさっぱりわかりませんでした。
そういう認識が前提にあるのならば、特に異論はありません。
「想像力」云々の内容はちょっと思い出せません。申し訳ない。
ただ、想像力という話なら、そちらが以前書かれた内容を忘れているので重複しているのかもしれませんが、この上の記事でも違う感じで触れている、実際は自力のものではないのではないか?という話があります。
仙道と魔術をやっている人の話では、「情報の全てが蓄えられてるのではなく、別の異空間にある情報へアクセスするための器官が脳である感じがします」とのこと。
ラジオのチャンネルを回して受信するようなもので、実際は人間の努力や能力というのは「チャンネル回し」程度のものなのかもしれないわけです。まったく努力や能力などがないわけではないが、それが全てはなかったと。
MAGICAカバラの管理者が、売れている漫画家やシナリオライターなどが秘密結社と云々というのは、それらが有名なのは、社会を牛耳っていると言われている秘密結社からの支援があるから、という理論です。
世の中で成功している理由を言ってるわけです。
そういう人たちは、普通の人より「チャンネル回し」をうまくできるコツを秘匿している人たちから教わったから、というわけですよ。
ああ、思い出しました。一般人だって、魔の領域だかにアクセスしたりできる人はたくさんいるはずだ、って言ってましたね。
魔術なら、個人である程度訓練したり、師についたりして、能力を開発したりできるでしょう。もしくは生まれつき素養がある人もいます。
それでもって、素敵な能力を扱って暮らしている人もいるでしょう。面白い話を作っているかもしれません。
が、世の中に売り出すのは、牛耳っている方の都合なわけで、能力やらがあるか高いかはあまり関係ないのかもしれません。
回してほしくないチャンネルを勝手に回す奴を世に出すのは、自分たちの基盤が崩れるわけですからね。
色々言いましたが、人間はあまり大差ないです。売れるか売れないかは、内容や能力が同等だったするならば、「回してほしいチャンネルを回してくれるかどうか」ぐらいの差なのでしょう。
自分の聞きたいチャンネルを回せる世の中が一番でしょうが、回し方を思い出さねばならない時代らしいです。
というわけで、自分の持つ知識を断定的に繋げてみました。
ところで、腰が抜けても言えないじゃなくて、口が裂けてもとかではないでしょうか?
「そんな頭の悪い事を言えるか!」てな意味になるわけですから。言い換えれば、口が腐っても。
腰が抜けるのは、驚いたり恐怖で立てなくなることなので、意味が分かりませんが、何に驚いたのか、などと延々追及するつもりはありません。これはただの嫌味です。
ではでは。
チャンネル回しの話には概ね同意します。ただし、異次元の領域に触れられる(もしくは触れたことがある)という事と、それを上手く扱えるという事の違いに関しては、慎重に分けて考える必要があるでしょう。と言いますのも、単にチャンネルの感覚を得られたというだけでは、何が正しくて何がそうでないのかの区別をつける術を持っている事にはならないわけですから、未だ混乱状態にあるという意味において、発信者の勘違いである可能性もあるわけです。要するに、「正確に受信できているのか、それとも単に自分自身の観念に引っ張られているだけなのか」というわけでして、問題は当人がその事に自覚的であるかどうかというところにあるのですが、私の観察した範囲としては、拗らせちゃってる人の方が多い印象です。
あとこれは私の想像なのですが、例え牛耳っている側の人間が魔術的な邪魔をしてきたとしても、それをものともしない働きができるというのが、物質的であることの強みだと考えています。もちろんそれを抑制するのも魔術の範囲ではあるのですが、それほど単純には言えない事だとも思っています。
腰が抜けても言えない、じゃなくて、口が裂けても言えない、ですか。いやはや、まったくもってその通り。これは一本取られましたな。(ついでに言えば、以前ご指摘頂いた『』の使い方のやつを合わせると、正確には二本目になりますね)
ただ、自我だけが全てだと思って暮らしてる我々にはそれがよくわからんのです。
バトラーの著作によれば、一般に認識されているレベルでの物質としての体の外側には、アストラル体があり、さらにその外にエーテル体、その上にはスピリチュアル体と繋がっているといいます。
そこはともかく、顕在意識からでは自分とは思えない自分がこれやろうあれやろう、と思い立ったりしているわけです。
それが、上記のエネルギー体を駆使して、「世の中」を作り上げ、そのシナリオに沿って自分が動いているといえるわけです。
そういうことを根本的に理解し、また例えで出した「チャンネル回し」のコツだったりを勉強してきたのが、魔法という論理体系なのです。逆にアクセスして、シナリオを変動させるということもやります。それを含めた「チャンネル回し」です。
勉強しなくても回せることは回せるでしょう。我流で回している人達は、こじらせるのが当然です。よく勉強している人達でも失敗しますから。熟練者の指導の下で慎重にやらないと、取り返しがつかなくなる領域もあるそうです。
現代はいわば、決まったチャンネルしかないラジオ放送しかない状態なわけです。他に流れている放送を受信しようとすると、咎められると。
自分が聞きたいはずのものを受信しようとするというのは、肉体的な自我の意志だけではなく、それを受信させようとしている側としての自分の意志でもある、ということです。
こじらせている人は、ガチャガチャ回して、怪電波を受信してたりするといったところです。回せば何かは受信しますから。その人が本来聞くものではないから、おかしくなるのです。
我流でも、本来聞くべきものならば、問題ないのかもしれません。さすがに専門家ではないので、請合えませんがね。
物質的であるほうが魔法に対抗できそう、という話ですが、考えてもみてください。
例えば、相手が魔法で飛んで攻撃してくるとして、地べたに這いつくばっているのは有利ですか?
飛べないなら仕方ないですが、飛んで対抗できるなら、飛んだほうがいいのは当然ではないでしょうかね?
魔術が物質を抑制するというのなら、物陰に隠れてやり過ごすことも無意味になるでしょう。
人や自然に働きかけるのが魔術です。バトラーは「思うがままに意識に変革を起こすこと」と述べましたが、それはつまり、アイクが言ってますが、「全ては意識」なんですよ。
意識が先にあるから、物質が出てきているのです。逆ではないのです。
繰り返しになりますが、その意識は、肉体的な自我からのみ出たわけではないということです。
物質には聞こえないでしょうが、凝り固まった記憶に縛られると、つまりは意識が縛られた状態ですが、これを書く少し前に更新した記事で紹介したのと同じ状態になるのです。
変なチャネリングする人も、名声だとか特殊な能力を持ったという自負だとかいう、物質にこだわっているわけです。意識が縛られているから、というわけです。
意識が見せる幻が物質というなら、つまり、凝り固まった記憶も物質なわけです。
そんなものは無視して、己自身にとって最高だと思えるチャンネルを受信すればよいものを、チャネリングで大仰な事を言ったり、はたまた、見せびらかすために自給自足やるとかほざいたりするのです。
そういうことを一々すべての人に教えるのは、人間の仕事では無理です。
まあ、「お前は何を頭のおかしなことを言っているんだ」と返されるのがオチですし、そもそも魔法使いでもなんでもないのでね。
「お前は仙人か?」なら言われたことはありますが。
チャンネルを回せるようになるためには、まずは意識の奥行きを広げる必要があるでしょう。その為には視野を広げる目を持つことが肝要で、そこから得られる深い洞察と、経験の中から培われていく全体像を、いかに安定させていくか、といったプロセスを踏んだ後に、ようやくの、具体的なピント合わせのいろはが始まる、という感じですかね(一面的な見方としては)。最も、中にはいきなり捉えられる人もいるようですが、けれどもそれは、単に順番が逆というだけの話であり、もちろん完全と言いたくなるようなタイプの人がいないとは露ほどにも思いませんが、そういう人は偉大な方々が放っておかないでしょうから、当人の性格によっては、不幸であるのかもしれません。逃れられない宿命と言えば陳腐のようにも聞こえますが、日本だと沖縄のユタなんかが有名ですね。
まあ、現代社会ではなかなかに通用しづらい話という事もあってか、確かにいちいち教えてはいられないのでしょう。とは言え、精神世界だ何だと言ったところで、結局は肉体が重要となってくるわけですから、その意味で言えば、理想的な肉体作りの何たるかを世に浸透させることが、結果的に教えていることになるのだと思います。
送信できなくとも、受信装置はある、というわけですね。しかしながら、五感ではない主要感覚器官の事に関しては、「霊を信じるかどうか」などという問いかけが支配的になっている事からもわかる通り、五感の(俗に言う)常識に閉じ籠っている状態にあると言えるわけですから、それは例え七つのチャクラを信じている人であっても、七つの感覚があるとは言い出さない(考えもしない)ですからね。その辺りに根本的な問題点があるような気はしていますが、人によっては閉じ込められていると捉えるのでしょうね。
バトラーの著作は、『魔術修行』というやつを先日読んでみました。予習というよりは復習のための書という内容で、一般向けに書かれてはいますが、その実、スタート地点に立っている人への励ましのメッセージ、という印象を受けました(当たり前の話ですが)。「思うがままに意識に変革を起こすこと」というのも、その内のひとつでありましょう。ある種、本質を突いてはいるけれども、理解としては表面的でしかない、とでも言いますか。
あと、カバラの項に関しては、ほとんど読み飛ばしました。非常に興味深くはあるんでしょうけど、むやみやたらに手を広げるのがよくないというのは、それこそ本に書いてあった通りということで、私とは縁遠い位置にあるのです。少なくとも、今のところは。
「物質的であるほうが魔法に対抗できそう」というのは誤解です。私は単に、物質的であることの優位性について言及しただけに過ぎませんので、「〜の方が」という言い回しは、私の思うところではありません。もちろん一面的な味方として考えるのであれば、特に異論はありませんが、どちらの方が優れているかを語ろうとするのは、ナンセンスです。
アイクの著作は、ムーンマトリックスの一巻を読んだだけですので、よくは知りません。なので、どのような文脈の中から「全ては意識」と言ったのかはわかりませんが、それを言ってしまえば、まずは「全ては愛」から入るべきでしょう。愛などと言いだせば、ひどくわかりにくくはなりますが、それでもやっはり、まずは愛なのです。
私の印象から言えば、どちらかと言うと物質面を軽視している人の方が、意識に縛られているように感じます。霊的な領域を羨望する(もしくは引っ張られ過ぎている)があまり、物質界のへの関心を失ってしまうというのは、初心者にありがちなことです。それが私には、サンタクロースを信じる夢見がちな子供のように映ってしまうのでありまして、通過儀礼と考えて見守るのが一番なのでしょうけど、どうにも萎えてしまう癖がついてしまっていて、やはり私は未熟者なのだなあと思い知らされます。
とは言え、まあ、あまり得意げに書きすぎると、どこかの誰かと一緒にされかねませんので、あまり真に受けないよう、適当に読み流して下されば、と思います。
自我ってなんぞや?というと、それはパソコンで言えばOSです。肉体というPCパーツの構成品を駆動させるためのシステムです。
動かすために必要なだけで、それにわたしはPCではないので、それが全てだと思うなんてバカですよ、とは言います。
健康がどうこうですが、かつてアイクは、「健康的な生活」をしているニューエイジャー達に、危険が迫っていることを伝えにいったそうです。
「そんなことしりたくもない!」「我々の生活を脅かす気か!」と追い返されたそうな。
そして、こう結んでます。
「健康であることに越したことはないが、健康だからといってわかるものではない」と。
肉体と精神をいくら磨いても、PCの掃除をしてるだけの話で、あなた自身は何も変わってないのです。幾分マシ、ぐらいです。
バトラーを読むのは結構なことですが、どうしてそこなんですか?あなたは他の魔術関係の入門書でもお読みになられましたか?そういうことをしてると、あなたが魔龍氏に対してここで批評したことと同じ事をやりますよ。
先日、アイクもユングもバトラーも同じようなことを言っていると書きました。
ユングは言ってませんが、アイクとバトラーも同じ事を言っています。
バトラーから言いますが、魔術の修行や行使の際に必要なのは、無償の奉仕だと言っています。
そして、アイクも言います。全ては愛なのだと。
バトラーは、魔術の修行が進むと、日常の物理法則を覆すようなことを体験するといいます。
アイクは物質は全て幻だといいます。
「物質は精神の影」という言葉があった気がしますが、影と本体のどちらが優位性があるとかないとか語る時点でおかしいことではないですか?
本体がなければ影なんてないんですから。
前に書きかました。事細かに。
簡単に書きますが、物質は結果であって、原因ではないのです。地球があるから人間が生まれたのではなく、まず我々の意識(通常の認識ではないレベルの)があるから地球が出来て人間が生まれたと言っているのです。
物質は意識の従者であります(これは魔法と物質の優位性云々のところにかかった話です)。
どちらが優位と語っているように見受けるのでは、ナンセンスが過ぎます。
「己の知識を断定的に繋げている」のはあなたです。
しかも断片的で無意味です。
長くなってますが、さらに。
自然回帰がどうこうと、一般人皆なら誰でもなんとなくあこがれそうな文言です。あなたもなんとなくそう思うようにコメントされてませんでしたか?
しかし、人の、人間の意識が物質を作り上げているにすぎないのに、どうして作り上げただけのものが磐石なよりどころになるのですか?幻だと言っているでしょう?
と、言ってきたわけです。
先日書いた記事に、「自然は意識のうちにしかないのでは?」とやりましたが、同じ意味です。
まだ表現が至らぬところがありますが、素之さん自体をけなしたいわけではないです。そう感じるところもないわけではないですが、浅はかな理解でものを言うのはおやめください。バトラーの件もアイクの件もです。
さて、さらに。お礼ともう一つ。
映画のご紹介ですが、その件はありがたく拝読しました。
しかし、誰が得意げに話してるように見えたからと、あのおっさんと同じだとけなすのだと思ったのですが?
そもそも、単なる感想ではないのですか?得意げに書いたのですか?保証します、がですか?太鼓判というやつでしょうが。
わたしは、あのおっさんが自給自足をやっていること自体をけなしてはいません。以前はけなしたこともあったでしょうが、本質的には無意味だと思うので、そういう意味ではバカだとけなしているかもしれませんが。
そこではなく、自我の妄想ででっちあげた話を、人類全体が見るべき夢だとわめきだしたから、脳みそが腐っていると申しているのですよ?奴が書き記してきた人類支配の黒幕と同じなんです。だから、バカなことを言うなと書いてきたわけです。
あなたは、そんな風に書きましたか?ふざけないでくださいね?
腰が抜けてもじゃなくて、それでは腰抜けの文章です。
コメントが前後しますが、リトルピープルの件です。
大抵の人がそこまで考えることはないのが現状です。
知らないだけで、一杯いるのかもしれませんが。
だから、もう一度言います。煽られてるに過ぎないのです。
テレビが流す流行の代わりに、テレビじゃない森ヴィジョンの流行に乗っているだけです。何も変わらないではないですか。
ではでは。
魔術関係の本は、バトラー以外には読んでいません。関連であれば話は別ですが、文脈から言って、普通に読んでないと言って差し支えないと思います。例えば今後、何かしらの本と出会う縁があったとしたならば、その時はありがたく読ませて頂くつもりですが、今のところその予定はありません。あとそれから、なんとなくの気持ちで自然回帰の言葉を使っているかどうかで言えば、そんなわけがないと返答します。
「意識が物質を作り上げているに過ぎない」と表現するその「過ぎない」とは、一体どういうことですか? 場合によっては頷きたくあるところですが、そこに過小評価的な意味合いが押し出されているのだとしたら、今の私にはまったくもって理解不能です。
「どっかの誰か」というアレですが、不快な思いをされたのでしたら謝ります。アレは書くべきではありませんでした。確かにただの感想と言われればその通りですし、本人がどう書こうが勝手だという意見にも、まあ頷けます。ただ、扱っているものがものなだけに、ついつい反応してしまいました。それで私の思いが変わることはありませんが、直接的に揶揄するというのは、さすがに控えるべきかもしれません。正直に言いますと、「安生さんに変なこと吹き込むんじゃねえ」的な本音があったのですが、その話はもういいです、失礼致しました。
しかし、おかげ様で、こうやって文章のやり取りをしていると、ホント勉強になりますね。自分の未熟な部分が透いて見えて、反省するところが多く、それに加え、人の意見を聞くという事の大切さを、噛み締めないわけにはいきません。