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なまけたナマケモノ

2017-02-17 | 雑記
今は亡き、水木しげる爺は、かつてこう述懐していたという。

「わたしは努力なんてしてません」と。

若きころ戦地に借り出されて片腕をなくして日本に戻った後、貸し本漫画を描き始め、現在では知るもののないようなレベルの存在となった人物は如何なる努力をしてきたのか?と、思ったら、そんなことを言う。

あるいは、人柄がそういう風な物言いをさせたのか?ある思想家は、若いころに水木と面会した際のことを書いていたが、他人がどう思っているかをまるで意に介さないかのような振る舞いだったという。
具体的に何をされたのかを思い出して書くと、こんなことがあったといっていた。

訪問して、リビングだかで待っていたら、水木がやってきて、片腕に持っていたものをいきなり渡されたという。

「ヨーグルトです」

そして、戻っていったそうな。他人の状況を伺うこともせず、いきなり渡してそう一言だけ残していったそうな。

別の機会でも、同じことをされたそうである。

「バナナです」

お腹すいてませんか?よかったらどうぞ、とか、そういう普通の物言いではなく、いきなり渡しただけだったとか。

こういう人だから、そういう風に言うものなのだろうか?と考えてみても答えは出ない気がする。あの人柄だからだと結論づけるのもありとはいえる。

MAGICAカバラの管理者が推測するに、漫画家共有のネタ保管庫があって、そこからネタを引っ張り出しているのだろうという。
だから、「何々をパクリました」と公式に言ったりしているが、特にお咎めも何も無かったりする。
そして、そのネタ保管庫から取り出した話をアレンジしたりする程度なので、一般に思うような凄まじい努力をしたから面白い話を描けているわけではないのだと述べていた。
それは、先日書いた、宮崎駿や庵野秀明の言などにも繋がる。

そこから考えると、水木の言葉は、他人を意に介さないような所から出ているとしても、本当のところなのかもしれない。多少でも人目を憚って言うなら、「ちょっとはしたかもしれませんね」等と言う所かと思う。
だが、そんな人には見えない。

秘密結社で知識を授かってでんでん、じゃなくて云々、というのを抜きにして考えても、人間はその身だけの力で事を成しているのではない、という話がある。

まずは物質的な範囲に絞って物をいう。とはいうものの、いきなり野生動物の話である。
ナマケモノと名付けられた動物がいる。彼らは彼らなりの生活をしているだけなのだろうが、そんな名前を人間はつけた。

だが、そんな彼らの名前通りともいえる状況があったりする。

余り日に当たっていない状況が続いたりすると、腸内の細菌の活動が芳しくなくなり、満腹でも餓死するという、耳を疑うような話があるそうだ。

餓死とは一体・・・。これはつまり、ナマケモノは細菌に生かされているといえる。

人間とナマケモノを一緒にするな、とお叱りを受けそうな気もするが、実は色々とある。
健康のために腸内の状態をよくしよう、そのために乳酸菌を、などと宣伝されていたりするが、人の感情は、その腸内の細菌の具合でコントロールされているのではないか、という研究報告がある。
西洋の科学というのは、結果と原因をひっくり返して、つまり勘違いして報告していることが多々ある。もしくは意図的に。
例えば、骨髄が血を作っている、というのが定説だが、実際は生きた人間の身体を調べて得た結論ではない。
遺体を解剖したら、骨髄に血があるのを見出したので、骨髄が血を作っているに違いない、と結論付けられただけだそうな。
フッ素の過剰摂取で歯に変化が起こっている人達がたまたま虫歯が少なかったから、フッ素は歯に良い、とそれ以上の調査をせずに定説にしている歯科学の例もある。
こういう風に話をしても、取り合わない人がほとんどなので、正直諦めている。
医者にも名誉欲があるわけで、目新しい学説を見つけたなら、広めたいと願うものである。金にもならない真実だけを追い求めるほど、人間を捨てた存在がそこに集まっているわけではないのである。金を求めるな、というわけではないが。

愚痴はともかく。腹を立てたから腸内細菌が死んでしまった、ともいえるわけだが、ここまで書いておいてなんだが、腸内細菌に感情がコントロールされている、というのは間違いではないかもしれない。

腸が免疫の要といえるらしく、調子が悪いとイライラしたりするのが腸から始まった不調だとするならば、腸内細菌が感情を動かしている、となるわけだ。

ナマケモノと同じく、人間も細菌に生かされている、といえるのである。さすがに、満腹で餓死の報告は受けていないが。

細菌は人の目には写らないが、実際に存在する生物である。顕微鏡の開発以来、ずっと認識されっぱなしである。細菌なんていう存在を、生まれた時に認識していただろうか?顕微鏡で発見される前の人間は認識していただろうか?

風邪を引いて寝込んだとする。何日か寝込んだとして、そして元気になったと。寝ていたのを努力だというのも変だが、安静にするよう勤めたから治ったのだ!と考える。
果たして、その「努力」が風邪を治したのだろうか?
あなたは確かに、安静にするように勤めたが、実際はその意志が具体的に風邪の治癒を指示などしていないのである。安静にしようというのは、確かに風邪に対するものだといえども。
寝込むほどの症状ならわかり易いが、気づかない程度の症状の場合ならなお更である。
あなたの気づかないところで、あなたは生かされている、と言えるのである。

それと水木翁の話とどう関係あるのか?という辺りに戻る。

人間の脳というのは、経験や情報による記憶を駆使し、また五感からの情報を記憶する器官、というのが一般的な認識である。確かに、なければ話したりすることはおろか、生きているという状態にはならない。後天的な記憶とは別に、心臓を動かしたりするのもまた、脳の一部が行う。
だが、脳というのは一般に思われているような、命令を下すだけのものではないのではないか?という話がある。ラジオのアンテナだというのだ。
ソクラテスは、「わたしは、頭の後から少し上のところから聞こえてくる言葉に従っているだけだ」という風に語っていたという。
もしかしたら、聞こえてないだけで、自分がやっていると思っていることは、実は何かの指示通りなのかもしれない。まともな指示なのか、指示通り動けているのか、という問題もあるだろうとして。
それが何なのかというのは、人によっては宇宙からのメッセージだとか言う。アイクが言っていたが、現在の地球は様々な電波(ラジオや電話、テレビ等の)が全体を覆うように飛び交っていて、宇宙からの周波は遮断されているそうだ。

要するに、わしら自体がすでに、目に見えないものに多大な影響を受けているのだというわけで、「努力したんだ」というのは自意識にうぬぼれているだけだということである。
さっきも言った風邪で寝込んだ話と同じである。安静にしていたことは治す要因の一つであろうが、風邪を治したのはあなたの「努力」そのものではないのだと。

こんな話をしているのは、また例のおっさんの話を思い出したからではある。

何かにつけて「努力した」だの、「苦労してきた」だのといっていた。
努力だの苦労だのと人に言うのは、嫌々やってきたからそういうわけで、それならば、あの言葉はどう解釈すればよいのだろうか?と思い至ってしまったのである。
「わたしとY子さんが今の関係になるまで、色々と苦労したんだ」と。
そういえば、「努力して痩せた」ともかつてのHPに書いていたわけだ。
その人と一緒になりたいとお互い感じて動いてきたことを、「嫌々やってきた」と述べる。
デブデブに肥えた身体を「嫌々痩せさせた」という。
160cmちょいの身長で、80kgオーバーまで太らせたというのは、相当努力なさったんでしょうな、と皮肉も言いたくなるわけだ。

皮肉とはいったが、デブデブにならなければ、我が身を省みて、痩せようとは思わなかったわけで、これはつまり、「太ったから悪い、痩せたから正しい」ではなく、「太ってそこから痩せるという流れでもって我が身を省みさせるという一連の動き」だっただけのことである。それを痩せるために努力したと述べるのは傲慢だと言える。痩せる努力をしたのなら、太る努力もしていたとも言わなければならないからだ。
「あの時太ってたから、我が身を省みることが出来たんで、太っててよかった」とでも考えられない様では、人間を肥える、ではなく、超えるとは情けなくて言えなくもなろうものである。もしかしたらそんな風なことを言っていたかもしれないが、忘れた。少なくとも、かつてのHPにはそんな言葉はなかったと思われる。間違った食べ物や知識で太らされた、とばかり述べていたはず。

長くなったが、つまりは、自発的な努力なんぞないのである。過程に努力もなかった。活動することで疲労を負う、というのはあるが、それは何事にもついて回ることである。
だから、水木翁も「努力してない」と言ったのであろうな、などと思うのである。

それで、目に見えないものがどうたらとかいうけど、それって無茶苦茶じゃないか?と思われるだろう。とはいえ、テレビやラジオの電波も見えないのに、しっかり働いている。これを無視して言うのもどうだろうかとは思うが、一つ、普段目に映っているが見えていないものについて。これについては度々書いてはいるが、改めて。

晴れた日がいいだろう。ある程度視界の開けたところがいい。個人的には近所の川原なんかが最適だった。
とりあえず、川原だとして、空のほうでも見る。そして、焦点を内側にするような具合にする。眼球の表面に漂うゴミが見えたりするだろう。あの視線を意識して、それを強める。
すると、目の前にキラキラした物体がわんさか漂っているのが見えてくるはず。
別段、特殊なものではない。ただ、焦点を変えるだけで見えてくる、ありふれた存在である。ちなみに、水場のほうがよく見える。だから、川原がいいと述べた。水気のないところだと、動きが鈍くなる。機会があったらお試しあれ。
インド方面の言葉ではプラーナ、ウィルヘルム・ライヒはバイオンだとかビオンと名付けた。
我々は、知らず知らずのうちに、これらを吸い込み、また身に纏っているともいる。
この様なものに囲まれていることは普段意識していない。眼前にあるのに、これである。
バイオンは、我々を取り巻いている、目に見えない何かの一部である。もしくは、見える形になった状態とでもいうべきか。つまりは、物理的な目の焦点を変える程度では見えないものが、我々を包み込んでいるのである。もしくは、我々もそれの一部なのである。
それなのに、見えるものだけが自身を培っていると思うのである。まだ具体的な細菌の例や風邪の例にしてもだし、すぐ上の「努力」にしてもだ。

目に見えない、感じ得ないものはなんだろうか?などと考えるのは夢想だと思われるだろうが、実際はありもしなかった「努力」とやらにうぬぼれるほうがよっぽど夢想だろうと感じるのである。

冒頭の水木しげるの言葉は、何の衒いもない、素直な感想だったのだろうと思われる。あの人柄なら、なお更であろう。


では、よき終末を。


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