あの日あの時、思い出せば今のことのように・・・思い出す必要もないのだが、忘れていたことを思い出した。
それは・・・ある人の名前。
ええっと、豚彦?ちゃうちゃう。
まあ、豚も人も変わらんので間違いではない。正しくもないが。
というのも昨日のことだが、仕事場で「オナゴがどうこう」という話を、何かのきっかけでしゃべっていた。
そういえば仙人も(実際には仙人などとは呼ばれていない)、以前何がしかの人と付き合うだの合わないだのという話がなかったか?といわれた。
ああ、そういえばいたな、と、それは思い出した。
名前がしばらく出てこなかった。
夜勤の帰りがけに思い出すという遅延ぶりであった。
名前は重要ではない。別にスピリチュアルだとかを気取っていっているわけではなく、話の本筋には関係ないからだ。
それに、関係のないニンゲンのことをあげつらうようなことを書いても致し方あるまい。
最も言えば、誰とも関係はない、とはいえるが、それはまた別の話。
そのオナゴというのが、何でも、母親が病気で倒れて仰天して、などと書くとどっちも倒れたのかと思いそうだな、まあとりあえず激動の人生!というのを感じた。
そしてなにやら読み漁るうちに、「人の食べるものは果物!」という話に行き着いたそうで、そこまではいい。いいとか悪いとかではなく、どうでもいい。
まだわしが、某上人の下にいたときであった。権威としては一般的に重宝がられる歯医者という職業の方が属しており(などと書くと皮肉がきついが)、そのオナゴはメールを差し出したそうである。
「フルータリアンの旦那を探している。助けて欲しい」というような内容であった。
ウィルヘルム・ライヒの理屈にそってものをいっていた上人のお膝元、わしもオナゴが必要なのかも知れぬ、と考えていたわけで、渡りに舟であろう?というわけでいきなり紹介してきた。
ライヒの理屈云々はもう何度か書いたが、別に是非はない。ないのだが、万人の万人に対する万の状況に応ずる万能な話など基本的には理屈の世界にはないので、これもまた釈迦のいう、「己の見解を真理とみなす」という程度のものであろう、などと思っているので、改めてはいわない。
そして、メールがやってきた。
この話は実はずっと前にやったのだが、まあもののついでである。
一言目にあったと思うが(使っているメールのリニューアルで、消えた)、こうあった。
「フルータリアンで子供を育てたいので、旦那を探しています」と。
ああ、何かひっかかるなぁ、というか、お前はどこを見ているのだ?であったので、そのことについては、何かのきっかけで音信不通になったあと、上人の膝元から離れてから書いた。
そーゆーことを喋っていたら、オナゴについてしゃべっていた奴はこういった。
「いきなりそういうこと言われるのって、重いですね」
はた、と膝を打つような感じだった。
「重い」のである。
どれくらい重いのか本人はまったく自覚していないので、余裕や見境がなくなっていることに気づかない。
これをこれ、生存の不安に脅かされているという。
『スッタニパータ』のごく最初にこうある。
33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
※脱落がひどいので直した。
という。
執著である。前々から何度もいってきたが、喜びと不安(上に言う「憂い」)は同じものだ、という話である。
執著に取り付かれると、人は人らしさを見失う。まあ、一般的に言えば、「お前の方が人でなしだろう!」となじられるだろうが、そういう言い方もまた人でなしであるな、と答えておく。
仕事場の話し相手はごく一般的な「重い」という言葉で評したが、その重い理由はこれである。
以前にも書いた人でなしの言葉を再録するならば、こうである。
「子供を育てるのが目的であるならば、養子でも精子バンクでも好きなようにすればよい」と。
その「重さ」に苦しめられていることがワカラナイので、余計に苦しいことばかりして、そして人に不快感を与えるのである。
さて、こういうのは別にイキオクレのオナゴばかりではない。おっと失礼。フルータリアンがどうこうなんぞといっても、やってることは同じだったのでな。
別に物新しい話ではない。
簡単な話である。
ベジタリアン、いや、教条的ベジタリアンと書こう。所謂ベジタリアンという彼らの思考を全部知っているわけではないが、彼ら(の全員ではないが)が「肉を食らうものども」と蔑む存在と何ら変わりないことをお伝えする。
この話は込み入っている!うろ覚えでせーしょの話をしなくてはならぬ!漢字一字違いの書なら歓迎したいところだが、捨て措く。
さて、詳しくは忘れたが、聖書には家畜を従えよという風には書いているが、食べろとは書いてないからおかしい、という理屈はあるそーだ。
ここは余談である。家畜はいざとなったら食べられるようにするから家畜であって、家畜のためになけなしの食料を分け与えるのが目的ではない。
そこはどうでもいい。
で、西洋人の理屈ではこーゆーそーだ。聞いたことがある人もいるだろう。
「動物は人間のような知性はないから、家畜にして食べてもいいのである」といった理屈である。
聖書には「右のほほ肉を食べたら左のほほ肉も食べろ」とは書いていないが、ま、珍妙な突っ込みはしておいた。
しかしこの理屈、どこかで聞いたような・・・?
こ、これは!メイソン!?
ほんとに書いているのかはしらんが、ユダヤ教の秘儀の書には同じ理屈がある。詳しい人はご存知だろう。
曰く「真理を知らぬ非ユダヤ教徒は家畜同然に扱うべし」というやつである。彼らがゴイム、と呼ぶ存在についてである。
つまりは、大抵の一般人のことである。
何度も言うが、個人の体質だとか好みでベジタリアンとかフルータリアンやっているやつはまともな人間である。人間が認定する人間というものがまともであるかはまた別の話だが、とりあえず。
どこぞの上人達も、ま、わしもやっていたのだが、こういうのである。
「動物を殺して食ったり自然環境を破壊しているような人間は馬鹿だ死んでしまえ」と。
「正しいことを知らぬからだ」というわけだ。ついでに、馬鹿すぎて知ることも出来ぬ、ともいっていた。
これとイルなんとかの思想にもなってるとかいう、ユダヤ教の秘儀の理屈と何が違うのか?違いがあったら教えて・・・くれなくてもいいや。
これもなんと「重い」言葉であろうか。重すぎてそよ風が運んでいくくらいである。
以前も書いたが、欧米の心理学では「エナジー・ヴァンパイア」という理論があり、研究されている。
これを日本語で言うと、生霊だとも書いた。
食い物のエネルギーというわけではなく、精神的というか、生命力や活力とでもいうべきものを、あたかも吸血鬼が血を吸って生きながらえるが如きの存在である。
平たく言えば、「いじめっこ」の内面というわけである。
いじめっこ、などと書くとなんだか和やかに聞こえないような気がしないでもないが、平仮名と響きだけかもしれないので措くとして、なにも「いじめ」は学校だけではない。
アリス・ミラーの研究などにあるような、親から子への「いじめ」。また、その親はその親から、もしくは社会などの外的環境による「いじめ」の被害者だったりもする。
「いじめ」の話は何も学校だけではない、とは書いたが、よくマスコミで取り沙汰されるのは学校の話である。
いじめが激しくて子供が自殺した、という話はよく聞く。よく流しているだけ、ともいえるが、ともかく、「いじめ」は学校だけではないのだから、会社とか何人も自殺してるとか言う自衛官の話だとかは一切出ないのはどうしてか?というのは触れて欲しくないらしいので触れないが、さておき。
教育学者だかなんだかがこういうのを聞いたことはあるだろう。耳にタコが出来そうなレベルである。
「いじめをするのは命の大切さを知らないからだ!もっと命の大切さを教育すべし!」というやつである。
さて、「エナジー・ヴァンパイア」の理屈からすると、これは実は十分と言っていいほど成功しているのである。
なぜならば、彼らは「己の命がとても大事であると感じているがゆえに、他者からエネルギーを奪っても良いのだ」と考えているからである。「命を大事にしている」のである。
本当にそう考えているかはインタビュー・ウイズ・ヴァンパイアをしたことがないし、したところでワカラン。
命は大事、というのをしっかり守っているのである。所謂本能であろう。
人間こそ尊貴たるもので、他は賤賊である!というのが聖書の理屈であるといわれている。実際はそうではなく、神も人間も不完全で間違いばっかりするのだ、という話を書いているものだと、ひろさちちやは書いていたが、実際自分で読んで考える人はあんまり多くないと思われる。人のことは言えんが。
それで、こういう風になったのは、ユダヤ人がエジプトで奴隷になっていたからだ、という心理学的な考察もあり、疑いの余地はなさそうである。
奴隷から離れたのに、人を奴隷にしなくてはやっていけない。それは「己が命以外は賤しく価値のないものである」という理屈ではないだろうか。
約めていえば「命を大事にしている」のである。
そしてその命は、奴隷は「重かった」ということが忘れられないので、未だに振り回されているのである。
己の命が大切か?ならば他の己も同様に大切である。あっちとこっちの己で殺し合いをするのか?
それでは結局、奴隷の「重さ」から一歩も離れていないのである。片方を撃ち滅ぼしたところでな。
生き物として肉体を持ち生きているという意味では命は大切である。だが、ただそれだけである。
「エナジー」を食らい続けたところで常しえに美しく健やかに生きてはいないのが、生き物である。
ならばこう考えるべし。
「己の命の「重さ」の奴隷となるな」
その「重さ」というのもまた、基準でしかない。蟻には重いかもしれないが、台風の前では塵に等しい。
とはいえ、このような言葉は、現代には届かないともいえる。
先ほどの教育学者だかの言葉にもあるように、命の「重さ」を訴え、いかにその奴隷となるかを流布するのがこの世の常である。
教条的ベジタリアンとかいうものの話に戻る。
彼の者は訴える。「我が命は脅かされている」と。
何が彼を脅かすのか?
それは、奴隷の「重さ」に押しつぶされているからである。上記の「己の命の「重さ」の奴隷」である。
そのような「重さ」はまやかしである。
悪魔パービマンは言う。
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」
そして釈迦は言った。
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
己の命の奴隷であることに執著することは、愚かさへの近道である。
奴隷であることを捨てられなくとも、執著していることに気をつけねば、生霊に堕する事であろう。
でもまあ、こうもいうよねぇ。
なんでもぉ、イルミナティがいうにはぁ、「汚い肉体を滅して清らかな精神と魂だけにしちゃおっかなぁ」ってぇ。
それならぁ、生霊はとても清らかな存在だと「重い」まぁす!
ああ、いかんいかん。ふざけてしまった。
最後に一言。
所謂教条的ベジタリアンの如きがのたまうように、己の心身を最高峰の宝と致し、他を殺そうとせんばかりの言い草は、本当は自分を殺してもらいたいのではないのか?
それは、奴隷であることに憑かれ、いや疲れ切ったものの泣き言なのかもしれない。
では、よき終末を。
それは・・・ある人の名前。
ええっと、豚彦?ちゃうちゃう。
まあ、豚も人も変わらんので間違いではない。正しくもないが。
というのも昨日のことだが、仕事場で「オナゴがどうこう」という話を、何かのきっかけでしゃべっていた。
そういえば仙人も(実際には仙人などとは呼ばれていない)、以前何がしかの人と付き合うだの合わないだのという話がなかったか?といわれた。
ああ、そういえばいたな、と、それは思い出した。
名前がしばらく出てこなかった。
夜勤の帰りがけに思い出すという遅延ぶりであった。
名前は重要ではない。別にスピリチュアルだとかを気取っていっているわけではなく、話の本筋には関係ないからだ。
それに、関係のないニンゲンのことをあげつらうようなことを書いても致し方あるまい。
最も言えば、誰とも関係はない、とはいえるが、それはまた別の話。
そのオナゴというのが、何でも、母親が病気で倒れて仰天して、などと書くとどっちも倒れたのかと思いそうだな、まあとりあえず激動の人生!というのを感じた。
そしてなにやら読み漁るうちに、「人の食べるものは果物!」という話に行き着いたそうで、そこまではいい。いいとか悪いとかではなく、どうでもいい。
まだわしが、某上人の下にいたときであった。権威としては一般的に重宝がられる歯医者という職業の方が属しており(などと書くと皮肉がきついが)、そのオナゴはメールを差し出したそうである。
「フルータリアンの旦那を探している。助けて欲しい」というような内容であった。
ウィルヘルム・ライヒの理屈にそってものをいっていた上人のお膝元、わしもオナゴが必要なのかも知れぬ、と考えていたわけで、渡りに舟であろう?というわけでいきなり紹介してきた。
ライヒの理屈云々はもう何度か書いたが、別に是非はない。ないのだが、万人の万人に対する万の状況に応ずる万能な話など基本的には理屈の世界にはないので、これもまた釈迦のいう、「己の見解を真理とみなす」という程度のものであろう、などと思っているので、改めてはいわない。
そして、メールがやってきた。
この話は実はずっと前にやったのだが、まあもののついでである。
一言目にあったと思うが(使っているメールのリニューアルで、消えた)、こうあった。
「フルータリアンで子供を育てたいので、旦那を探しています」と。
ああ、何かひっかかるなぁ、というか、お前はどこを見ているのだ?であったので、そのことについては、何かのきっかけで音信不通になったあと、上人の膝元から離れてから書いた。
そーゆーことを喋っていたら、オナゴについてしゃべっていた奴はこういった。
「いきなりそういうこと言われるのって、重いですね」
はた、と膝を打つような感じだった。
「重い」のである。
どれくらい重いのか本人はまったく自覚していないので、余裕や見境がなくなっていることに気づかない。
これをこれ、生存の不安に脅かされているという。
『スッタニパータ』のごく最初にこうある。
33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
※脱落がひどいので直した。
という。
執著である。前々から何度もいってきたが、喜びと不安(上に言う「憂い」)は同じものだ、という話である。
執著に取り付かれると、人は人らしさを見失う。まあ、一般的に言えば、「お前の方が人でなしだろう!」となじられるだろうが、そういう言い方もまた人でなしであるな、と答えておく。
仕事場の話し相手はごく一般的な「重い」という言葉で評したが、その重い理由はこれである。
以前にも書いた人でなしの言葉を再録するならば、こうである。
「子供を育てるのが目的であるならば、養子でも精子バンクでも好きなようにすればよい」と。
その「重さ」に苦しめられていることがワカラナイので、余計に苦しいことばかりして、そして人に不快感を与えるのである。
さて、こういうのは別にイキオクレのオナゴばかりではない。おっと失礼。フルータリアンがどうこうなんぞといっても、やってることは同じだったのでな。
別に物新しい話ではない。
簡単な話である。
ベジタリアン、いや、教条的ベジタリアンと書こう。所謂ベジタリアンという彼らの思考を全部知っているわけではないが、彼ら(の全員ではないが)が「肉を食らうものども」と蔑む存在と何ら変わりないことをお伝えする。
この話は込み入っている!うろ覚えでせーしょの話をしなくてはならぬ!漢字一字違いの書なら歓迎したいところだが、捨て措く。
さて、詳しくは忘れたが、聖書には家畜を従えよという風には書いているが、食べろとは書いてないからおかしい、という理屈はあるそーだ。
ここは余談である。家畜はいざとなったら食べられるようにするから家畜であって、家畜のためになけなしの食料を分け与えるのが目的ではない。
そこはどうでもいい。
で、西洋人の理屈ではこーゆーそーだ。聞いたことがある人もいるだろう。
「動物は人間のような知性はないから、家畜にして食べてもいいのである」といった理屈である。
聖書には「右のほほ肉を食べたら左のほほ肉も食べろ」とは書いていないが、ま、珍妙な突っ込みはしておいた。
しかしこの理屈、どこかで聞いたような・・・?
こ、これは!メイソン!?
ほんとに書いているのかはしらんが、ユダヤ教の秘儀の書には同じ理屈がある。詳しい人はご存知だろう。
曰く「真理を知らぬ非ユダヤ教徒は家畜同然に扱うべし」というやつである。彼らがゴイム、と呼ぶ存在についてである。
つまりは、大抵の一般人のことである。
何度も言うが、個人の体質だとか好みでベジタリアンとかフルータリアンやっているやつはまともな人間である。人間が認定する人間というものがまともであるかはまた別の話だが、とりあえず。
どこぞの上人達も、ま、わしもやっていたのだが、こういうのである。
「動物を殺して食ったり自然環境を破壊しているような人間は馬鹿だ死んでしまえ」と。
「正しいことを知らぬからだ」というわけだ。ついでに、馬鹿すぎて知ることも出来ぬ、ともいっていた。
これとイルなんとかの思想にもなってるとかいう、ユダヤ教の秘儀の理屈と何が違うのか?違いがあったら教えて・・・くれなくてもいいや。
これもなんと「重い」言葉であろうか。重すぎてそよ風が運んでいくくらいである。
以前も書いたが、欧米の心理学では「エナジー・ヴァンパイア」という理論があり、研究されている。
これを日本語で言うと、生霊だとも書いた。
食い物のエネルギーというわけではなく、精神的というか、生命力や活力とでもいうべきものを、あたかも吸血鬼が血を吸って生きながらえるが如きの存在である。
平たく言えば、「いじめっこ」の内面というわけである。
いじめっこ、などと書くとなんだか和やかに聞こえないような気がしないでもないが、平仮名と響きだけかもしれないので措くとして、なにも「いじめ」は学校だけではない。
アリス・ミラーの研究などにあるような、親から子への「いじめ」。また、その親はその親から、もしくは社会などの外的環境による「いじめ」の被害者だったりもする。
「いじめ」の話は何も学校だけではない、とは書いたが、よくマスコミで取り沙汰されるのは学校の話である。
いじめが激しくて子供が自殺した、という話はよく聞く。よく流しているだけ、ともいえるが、ともかく、「いじめ」は学校だけではないのだから、会社とか何人も自殺してるとか言う自衛官の話だとかは一切出ないのはどうしてか?というのは触れて欲しくないらしいので触れないが、さておき。
教育学者だかなんだかがこういうのを聞いたことはあるだろう。耳にタコが出来そうなレベルである。
「いじめをするのは命の大切さを知らないからだ!もっと命の大切さを教育すべし!」というやつである。
さて、「エナジー・ヴァンパイア」の理屈からすると、これは実は十分と言っていいほど成功しているのである。
なぜならば、彼らは「己の命がとても大事であると感じているがゆえに、他者からエネルギーを奪っても良いのだ」と考えているからである。「命を大事にしている」のである。
本当にそう考えているかはインタビュー・ウイズ・ヴァンパイアをしたことがないし、したところでワカラン。
命は大事、というのをしっかり守っているのである。所謂本能であろう。
人間こそ尊貴たるもので、他は賤賊である!というのが聖書の理屈であるといわれている。実際はそうではなく、神も人間も不完全で間違いばっかりするのだ、という話を書いているものだと、ひろさちちやは書いていたが、実際自分で読んで考える人はあんまり多くないと思われる。人のことは言えんが。
それで、こういう風になったのは、ユダヤ人がエジプトで奴隷になっていたからだ、という心理学的な考察もあり、疑いの余地はなさそうである。
奴隷から離れたのに、人を奴隷にしなくてはやっていけない。それは「己が命以外は賤しく価値のないものである」という理屈ではないだろうか。
約めていえば「命を大事にしている」のである。
そしてその命は、奴隷は「重かった」ということが忘れられないので、未だに振り回されているのである。
己の命が大切か?ならば他の己も同様に大切である。あっちとこっちの己で殺し合いをするのか?
それでは結局、奴隷の「重さ」から一歩も離れていないのである。片方を撃ち滅ぼしたところでな。
生き物として肉体を持ち生きているという意味では命は大切である。だが、ただそれだけである。
「エナジー」を食らい続けたところで常しえに美しく健やかに生きてはいないのが、生き物である。
ならばこう考えるべし。
「己の命の「重さ」の奴隷となるな」
その「重さ」というのもまた、基準でしかない。蟻には重いかもしれないが、台風の前では塵に等しい。
とはいえ、このような言葉は、現代には届かないともいえる。
先ほどの教育学者だかの言葉にもあるように、命の「重さ」を訴え、いかにその奴隷となるかを流布するのがこの世の常である。
教条的ベジタリアンとかいうものの話に戻る。
彼の者は訴える。「我が命は脅かされている」と。
何が彼を脅かすのか?
それは、奴隷の「重さ」に押しつぶされているからである。上記の「己の命の「重さ」の奴隷」である。
そのような「重さ」はまやかしである。
悪魔パービマンは言う。
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)するもとのものは喜びである。執著するもとのない人は、実に喜ぶことがない。」
そして釈迦は言った。
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
己の命の奴隷であることに執著することは、愚かさへの近道である。
奴隷であることを捨てられなくとも、執著していることに気をつけねば、生霊に堕する事であろう。
でもまあ、こうもいうよねぇ。
なんでもぉ、イルミナティがいうにはぁ、「汚い肉体を滅して清らかな精神と魂だけにしちゃおっかなぁ」ってぇ。
それならぁ、生霊はとても清らかな存在だと「重い」まぁす!
ああ、いかんいかん。ふざけてしまった。
最後に一言。
所謂教条的ベジタリアンの如きがのたまうように、己の心身を最高峰の宝と致し、他を殺そうとせんばかりの言い草は、本当は自分を殺してもらいたいのではないのか?
それは、奴隷であることに憑かれ、いや疲れ切ったものの泣き言なのかもしれない。
では、よき終末を。
オナゴの話でおもいだしたのが、イキオクレという悪口に関連して、その話相手が実はずっと前に言ってました。
「その年代の女性はそうなりがちだ」と。
悪魔バーピマンが喜びそうな時代だなぁと思います。ま、時代は関係ないでしょうけど。
食い扶持についてはワカリマセン。向こうは所謂芸術家の家で、親も芸術で食ってます。
わしなんぞより金はあると思うので、もっといい人を探すべきでしょう、とさらにいらんことを思ったりもします。
でもまあ、いいでしょう。興味もないのに「あなたのファンです」などとのたまう人よりはるかにまともだといえますから。
わしも野暮なので、オナゴの扱いはワカリマセン。
野暮なのか仙人のせいなのか、それもワカリマセンが、もう少し己に正直に生きれないものかと、人の心配をしてしまいます。
そんな暇はやっぱりないので、どこかの別のオナゴといい感じになりかけたので、破談となったわけです。
(恐らく、連絡が来なくなった理由です)
でも野暮なので、そのオナゴもイナゴのごとく飛んでいきました。
わしはイナゴにもリンゴにもなれないし、なる気もないので、猫やあざらしの如くゴロゴロしようと思いました。
かつての「オナゴ」さんですが、はばかりながら遅まきの解釈を述べさせていただきますと、
怒涛の人生を送ってらっしゃったが故に、種の保存への危機感を得、
至高と考える生き方「フルータリアン」で育てやすい環境(生き方に賛同してくれ子どもと自分を養ってくれる子種持ちを得ること)が欲しい
という思考になられたのではないでしょうか。
そりゃあ男性からみたら重すぎるどころか、「わしゃ食い扶持と子種のためだけの存在か!?」と思っても仕方ないかと思います。
それにしても、そのようなロコツな「重い」を、伝える方も伝える方だと思いました。
もう少しオブラートにくるめばいいのに。
かの方の潜在意識は、
歯に衣を着せずモノをいうことにより、自ら敵を作り、攻撃させることで、オノレを抹殺したいのかもしれぬとさえ深読みしてしまう今日この頃でございます。
究極の自己愛を謳っていたかの方の、オノレをはかなむ魂は、おもいのほか深いのではないでしょうか・・・