ウヰスキーのある風景

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May live.

2016-12-06 | 雑記
『ゼイリブ』という映画がある。

この映画はデーヴィッド・アイクが著作で奨めている映画で、その内容については耳にしている方もいるだろうが、簡単に。

主人公がとあるメガネを偶然手に入れ、それを通して世の中を見てみたら、映画のキャスターやコメンテーターが異形の怪物に見えたり(本来の姿である)、単なる広告だと思っていたものには、おどろおどろしいメッセージが書き込まれている。
なんでそういうのが普段見えないのかというと、電波塔から本来の姿を見えなくする電波が発せられていて、一般人は知らず知らずのうちに化け物の言うとおりにされていた、という内容である。


このノリに近く、なおかつそのままな答えを流しているシナリオを昔見たものである。



カプコンのアクションゲームに、『デビルメイクライ』というシリーズがある。悪魔も泣き出す、という意味である。

ナンバリングタイトルとしては4まであるのだが、ナンバーがついていない別内容の五本目の作品がある。出たのはもう数年前だが。

『DmCデビルメイクライ』というのがそうで、頭のアルファベットはデビルメイクライの略称から来ているから、デビルメイクライデビルメイクライ、と読む、わけではないが、そうなってしまいそうなタイトルである。



リブート作品という位置づけだそうで、簡単に言えば一作目を作り直したというところである。設定は踏襲されているが、色々と違っている。


元のシリーズの主人公は、オカルト専門の何でも屋で、普通の仕事は請け負わないが、悪魔だとか化け物といった内容ならば進んで引き受ける凄腕の掃除屋である。
名前はダンテ、という。
正体は、悪魔と人間のハーフで、人間の母親を殺した悪魔に復讐を誓っているがゆえの上記の仕事態度である。
悪魔の息子でダンテとは面白いなぁ、と昔、思ったものである。


『DmC』のほうはというと、天使と悪魔のハーフで、ゲーム内でも「ネフィリム」と言っているが、本義的にはネフィリムは元のシリーズのほうが近かろう。

やっていることは元と大して変わらないが、悪魔が見えるし襲ってくるしで暇つぶしに倒していた、という感じだったか。


どちらのシリーズにも双子の兄がいる。元のほうは敵対していて、偉大な悪魔の力を持っていた父親の偉業を引き継ごうとする兄をダンテは力ずくで止める、というのがあったが、『DmC』でもほとんど似た内容として登場する。

最初は本来の目的を隠していて、手ごまにしていた人間の女性にも本意は知られていなかったのだが、本来の目的をダンテに教えたら反目されて、敢え無く倒される。

悪魔の力で人間を支配する、というのが目的で、悪魔に支配されている人間を解放する、というのがダンテの目的になっていたので、殺し合いに発展というわけだ。

倒して成り代わるつもりだったので、ダンテと過程は同じにはなる。


元の一作目のシナリオは、母親に似た美女がダンテの事務所に乗り込んできて、「母親を殺した悪魔の場所を知っている」と伝えられ、その案内についていく。

実はその悪魔の使いで、ダンテを殺そうと誘い出したのだが、その親玉悪魔はダンテの心に惹かれて改心した手下とダンテによって倒される。

奇妙な孤島内の古城やら施設を巡って手下の悪魔を倒していく、という流れのものだった。


『DmC』のほうはというと、上の流れのオマージュともいうべきだろうか、やはりダンテの下に女性がやってくる。

詳しい内容は忘れてしまったのだが、上と同じ感じか、「あなたの兄さんに頼まれて」とでもいったところだったと思う。

この女性は魔法使いで(ダンテの兄に仕込まれた)、普通の世界と、ゲーム内で「リンボ」と呼ばれる世界を行き来できる人間である。辺獄と当てられている。

ダンテをリンボに送り込んだりしていたかは忘れたが、精神体だけでリンボに乗り込んでサポートしてくれる。


そして、ダンテは兄のバージルに会って、「悪魔が人間を支配している、その悪魔は我々の母親を殺した奴だ」と打ち明けられ、協力して倒しに行く、というのが途中までの流れである。



長々書いたが、Wiki見たほうが早いのは言うまでもない。もしくは動画でシナリオ部分を見るというのもある。抜粋だけのがあったかは探していないが、あると思われる。

細かいところはいつものうろ覚えである。ご承知のほどを。


さて、ここからが元のシリーズとかなり趣を変える。


何せ、出てくる舞台がまんま陰謀論の世界だからである。主人公の元々の能力の描写かは忘れたが、『ゼイリブ』のように、隠された異常な事態を目の当たりにする、というのもある。

実に具体的で、とある飲料会社は悪魔の体液を仕込んで人間を中毒状態にしているだとか、テレビ会社の有名コメンテーターも人間ではなく、人を洗脳する番組だか電波を流しているだとか。

その悪魔たちは、ダンテ、バージル両名の母親を殺した悪魔の配下である。

そしてその仇の親玉悪魔の人間社会の仕事が、なんと、銀行家である。

大資本を使って上記の悪魔会社を大会社に仕立て上げ、人間を支配下に置いている、というわけだ。


かつてこの流れを見聞した時(実際に公式サイトの敵紹介でも上のテレビだとか飲料会社の件もそのまま書かれている)、これは「人を欺くためのものではないのか?」という疑問が沸き起こったものである。

とはいえ、シナリオをまったくのオリジナルで書けるのかどうか、というと、先日から言っている魔力が云々とか言う怪しげ(に聞こえる)な観点を抜きにしても、出来ない。

できる筈だ!人は努力してなんでもできる!というのは結構。だが、それは吹き込まれた常識ではないのか?という点を指摘しておく。だから諦めろ、ではないが、気合で知りもしないことを話すことはできない。

キリスト教の悪魔憑きの話や、日本でも狐憑きの記録にもあるように、知るはずもない事柄や言語を話す、というのがあるが、こういうのは「人間の常識として既定されているもの」の範疇から外れる。

だから、気合だけでできるものではない、ということである。

大なり小なり、「神憑ったもの」というのは、文字通り何かが憑いたといわざるを得ないというわけだ。

神憑った気合ならばできるであろうが、誰も彼もがそんなものを発揮するわけでもなかろう。

人間の努力だと思ったら人間の力じゃなかったといえる。得るための努力、というのはあるだろうとしても。


話が逸れた上に繰言になるが、そういう神憑りになれる方法を秘匿したところで保存されている内容が娯楽のシナリオとして提供されている、というのが先日紹介したブログの話である。

後はたまに書いているが、ジョージ・オーウェルの『1984年』とフェビアン協会の関係の件である。これはアイクの著作にもあった話かなと思うが、そこは忘れてしまった。



話を戻すとして。

『DmC』のシナリオが神憑ったものであるッ!というつもりではないが、不完全に本当のことをいう陰謀論者以上には本質をついているといえよう。


悪魔抜きにしても、毒入り飲料だとか、プログラムの内容が問題ではなく存在自体が精神に変容をもたらすテレビだとか、銀行の立ち位置だとか。

ある程度聞いたことがある人ならピンと来る内容である。

知らない人でも、昔見た映画でこういうノリがあったな、などとなってもおかしくない内容であろう。



陰謀論で言うのは、毒入り飲料の成分だったり、テレビのプログラムやテレビ画面を見ている精神状態のことや、銀行が人を圧迫している、という点までである。


先日のコメント返しにも書いたが、あちらの解釈とは違うだろうがそのコメントの言葉を引き継いで、「社会」を動かしているのは「世界」である、とした。


好んで使う例え話をまた書く。

数学にはユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学というのがある。

1+1=2、ピタゴラスの定理は真なり、というのが、義務教育で習う内容だが、これがユークリッド幾何学である。

非ユークリッド幾何学というのは、上の定理はまったく当てはまらない。そんなものにはならないと答える。

じゃあデタラメなのか?というとそういうわけではなく、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学の内側にあるものである。


現代は、いわば不完全なユークリッド幾何学のみで全て(非ユークリッド幾何学のあるなしを別としても)を判断できるとやっているのである。


上の例えから書くならば、「社会」は「世界」に内包されている箱庭の如きものでしかないので、「社会」の見方でもって「世界」を判断するのは間違いでしかないとなる。


「世界」と「社会」を一緒くたになどされてはいないのである。
内包されているものだから共通点はあり、そこからでもある程度は見えるが、平均すればどこまでいってもユークリッド幾何学の、つまりは「社会」の範疇なのである。
わざとか知らずか、「ユークリッド幾何学」で踊り、踊らされているのが現状である。
陰謀論が、という言い方は意味がない。先日宣言したが、「現代文明はオカルトである」からだ。


娯楽と侮るなかれ。下手な陰謀論の言説を聞くくらいなら、今回紹介した『ゼイリブ』と『DmC』のシナリオを見るほうがためになる。




「この世を魂の牢獄だと感じたものは脱獄を試みるだろう」と、先日購入した、W・E・バトラー著の『魔術入門』にあった言である。

魔術や魔法というのは、ゲームや漫画であるように火や氷を放ったりするのが目的ではない。これはよくあるイメージというやつである。

仏教の説話にも、ある程度の法力を持ちえた者の例えで、魔法のような描写をしている。

これは例えであり、真の狙いは意識の変革にあるのだよ、とは昔、教えられたものである。まあ、Sなんとかでね。


そしてバトラーも魔術の定義をこう書いている。

「思うままに意識の中に変革を引き起こす技術」と。


「魂の牢獄」とやらを脱獄できるかどうかはやってみないことには始まらないが、その前に、ここが「魂の牢獄」であるということが意識になければ無意味である。


余計なお世話というやつだろうが、あなたの意識の中に変革を引き起こせたのなら、書いてきたことは無駄ではなかろうと思うしだいである。


では、よき終末を。


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