ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

「結論ありき」のやり方が当たり前だった、ずっと。

2010年03月10日 11時59分20秒 | 考えるねーさん
そんなことは知っている。


すでに裏では結論が出ていてそれに合わせて強引に表の事を進めるやり方だ。

仕掛け人達は「それで出る結果を抱えて動く」のではなくて、見込みの状態で、力も充分に備わってなかろうが、時間差で全てを巻き込みつつ「結論ありき」で強引に持っていく。


その為に一応「議論の場」を設ける。

その為に一応「作りの会議」を設ける。

その為に一応「作りの情報」を流す。


これはたいてい公平に声がかかったり、公平に情報が流れる。
平等は人間全部を同じ環境下で生活できるように整えでもしない限り、有り得ないし、これはなしえないことだし、なしえようとしたら昔からの秩序を捩曲げたりして神様の逆鱗に触れることだし、ひとまず公平に行う。


まぁとにかく、「裏ではすでに結論が出ている」から、議論したところで、相当の話術とか、相当の逆裏計算でもしなけりゃ、こういう人らに勝つ勝ち目はない。


裏の結論に合わせた作りの情報も、まぁそれは周到に理論武装してあるから、ちょっとやそっとじゃ「ウソ」は見抜けない。


世間じゃ「これはウソじゃないのよー」ということになっているようだけど、理論武装ってのは「ウソはウソ」だ。


で、「裏の結論出し」に参加させてもらえなかった人達にどうしても歪みはくる。

力の不足は何かで一時的に帳尻を合わせ、不具合はうやむやに揉み消すか、理論武装で隠蔽したりする。


裏の結論がわかっていてやっていたとしても、「ごまかし」や「隠蔽」が行き着けば、その人らすら、精神的に擦り切れてくる。


そうやって起こった歪みの中で、何も知らない人らにまた不満が募ったり、猜疑心が沸く。


「どうしてこうなんだ。こうなったんだ。」という不満や疑問が、かなりの時間が経過してから噴出することになる。

例えば「結果ありきの進め方」であれは、「どうしてこうなんだ。」という疑問はその時にうわーっと噴出するだけ。
タイムラグによって全体がゆっくり死んでいくような事態は引き起こさない。


結論だけ出して進めたことの結果というのは、相当の時間がかかって結果として現れるから、そういうタイムラグを利用して、仕掛け人達はゲームに興じてるかの如く「いちぬけた」とすり抜けていく。


くら替えしたり擦り抜けずにそこに居続けるか、くら替えしたり擦り抜けずにまた別の仕掛けに興じてる仕掛人達とはわけが違う。
こういう人は「結果をわかっていて仕掛けている」ということだ。
「結論ありき」ではないのだ。

人と人の間に立つこと

2010年03月10日 11時35分33秒 | 考えるねーさん
この役割が子供の時からなんだか多いオバチャマですが、「人繋ぎの役割は未年生まれの宿命」みたいなので(統計学でいけば)、面倒臭くても諦めはついてる。(かなー(笑))


例えば、Aさんに、

「Bさんと会わせて欲しい」

と、お願いされたとする。


AさんもBさんもオバチャマが親しくしている人だ。

AさんはBさんを充分良く知らないけど、何か興味なり親しくしたいと感じて、オバチャマに頼んでくるわけだ。


Bさんの傾向やら状況をある程度把握しているオバチャマは、

「うーん、もしかしたら会わない可能性ありだなぁ…」

という答えを弾き出す。


オバチャマはその時点でAさんに、

「ちょっと無理だと思います…。」

とか、

はたまた作りのウソまでついて、

「(確認もせず)確認したんですが長期出張するそうで…」

とか、

そういうことは言わないことにしている。


「AさんとBさんがどうするかの問題」だから、仮にBさんに咎められようが、オバチャマ判断ってのは先にしないことにしてる。


ひとまずBさんにダメ元で、

「Aさんが会いたいそうなんですが、ご都合いかがですか?」

と尋ねることにしている。


AさんもBさんもオバチャマにとって敵ではない訳で、「オバチャマの一存で判断してその出会いの場を整理することではない」と解釈している。
オバチャマが主体で何かことを動かしてるとか、そういった中の話でもない限り、オバチャマは中立に立つ。

別にBさんに「面倒臭いヤツだなぁ…」と思われても、それはそれで仕方がなく、また、べつにそう思われることを「どうのこうの…」と思わない。
「ったく、ちっちぇえなぁ。」くらいか。(ウハハハ…)


いくらその時のBさんの傾向やら状況をある程度察していたとしても、オバチャマの役割はBさんに、

「いかがですか?」

と、問い合わせるしか出来ないのだ。


とにかくAさんはオバチャマに興味があるんでなくて、オバチャマと繋がっている先のBさんに興味を抱いている訳だ。
だから「オバチャマが断ることはない」と判断している。


Bさんは会いたくなけりゃ「悪い、忙しいから時間がないって言って欲しい。」と言ってくれりゃ済む話な訳だ。


これはオバチャマの独特?のさじ加減で、先方から先に具体的な用件内容の提示がない時は、特別な指示(「この期間は全て未然に断ってくれ」とか、「こういう案件は未然に断ってくれ」とか。)が発令されていない以上、「会いたいとのことなのですが…」で様子を伺うことにしている。


会う前に案外内容を気にする人なら「どんな件なんだろう?」と問うてきますし。


「確認しておいたほうがよろしいですか?」と聞いて、「確認してくれ。」と言われれば確認するし、「いや、確認はいいよ。」ならばそれまでですから…。


子供の頃から「あっち顔出し」「こっち顔出し」だと、「どっちの味方なの?信用なくなるぞ?」的に問い詰めてくる風な人が必ずいて、あれがどーにもこーにも「信用ってわかってないんじゃないの?子供っぽくて馬鹿みたーい。(あー、やだやだ。)」と本気で嫌気がさすオバチャマは自然と離れるしかなくなるし、こういう人らだといくら仲間に迎えてくれようが「信用する対象にはなかなかならない」のであーる。

だって、潜在意識として実はまるで信用してないから問い詰める風になってしまってるんだから。


しん‐よう【信用】
1 確かなものと信じて受け入れること。
2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。



誰かは言った。

世の中の人は人を信用することを諦めちゃってる人がほとんどだから、
無理強いはやめた方がいいよ。


と。


実は「無理強いされている」という「強迫観念があるだけ」で、
なんてことはなく「ゴメンね。」と断ればいいだけの話しで、
断りベタの気質から信用することが面倒になってるってだけの話しで、
単に「断ればいいだけ」の話しで、「断られたら後は無理強いしない」ってことの話しかと思うんだよね。






再現性のない偶発的な不具合

2010年03月10日 11時06分17秒 | 観察屋ねーさん
日米摩擦じゃぁないさねぇ?トヨタの問題。


ものづくりしてる会社が「偶発的不具合」を単に突かれてるって話でしょう。
先方の突き方やら実験報告内容の信憑性はひとまず別として、単に、「不具合が突かれている」、と。


「故障云々の話」じゃなく「偶発的不具合の話」。


偶発的な不具合だから発生する条件がなかなか特定しきれないんですや。
再現性のある不具合ならば条件は特定できても、偶発性だから厄介。


でもなぜか時たま何かの条件で起こるんですや。
アレルゲンが特定出来ないアトピーとか自己免疫疾患の病気に似てるような。


電子制御部分ときてますから、なおのこと。
その「もの」はスピードも出て下手すれば人の命まで奪われる凶器になるもの。


こういう件って下手に理詰めでずっと反撃してくと墓穴掘ったり、かえって関係悪化するかと思うんだけど、いかがなもんでしょうかぁ。心配ですわ。


オバチャマが作って納めたデータベースは、ある一社についてはいまだに偶発的不具合を起こす時があるんだが、その都度処置やら改善をして、様子をみさせて貰ってます。


「そんな不具合が起こることは有り得ません。」と実験して、仮にそこで再発がなく問題がないことが実証されても、人の使い方、パソコンの状況、データが行き交う状態(ネットワークに負荷がかかるとか。ネットワーク構築はこちらは踏み込めない(別管理されている)会社のものだったりするし。)、変わりますんでね。


一時解消したと思うとまた忘れた頃に指摘されるんですや。


他人の動作や使用環境を日々ずっと監視できるわけもなく(したくもなく)、こちらがいくら「不具合なし」を証明できたとしても無駄なんだよなー。


オバチャマの反省点としては、「先方の使い勝手の要望を最初の時点で何がなんでも却下するか、何がなんでも代替え案のほうを通すようにすればよかったんだよなぁ。」ってことです。

ただ「その機能をなぜ却下したほうがいいのか。」の裏付け説明は当時出来なかったし(理屈上は「問題無い」となってる(このソフトを使用する上での説明))、先方からも「一番お願いしたいところだから。」と懇願され、こちらも「確かにその機能がなけりゃ使い勝手が悪いよなぁ。」と思うようなことで、押し切られた(ならばやってあげよう)風なところがある。


まぁだけどその偶発的不具合が発生した時の対処方法だけは、先方でわかっていてやってくれているので、「会社対会社」、「担当者対担当者」の関係構築で、不具合問題もへんな喧嘩にならず、救われてるなー。


あぁ昨日も「先日の処置虚しくまた再発してます…でもひとまず大丈夫です。(ここがスゴイ(笑))」との報告。


頭が痛い…。(笑)

躾だけじゃ育たないヨナー

2010年03月10日 10時36分41秒 | 考えるねーさん
し‐つけ【仕付け】
礼儀作法をその人の身につくように教え込むこと。また、その礼儀作法。

れい‐ぎ【礼儀】
人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。



躾に(あんまりにも)がんじがらめで厳しい中で管理されてしまうと、「人の顔色」とか、「人のご機嫌を伺う」癖がつきすぎて、そのまま大人になってしまうと、妙な嫌らしさが漂って(妙な嫌らしさというのはご機嫌を損ねないような計算づくの会話とか、わざと裏をついて相手をさかなでては様子を伺うような会話とか…)、そういうのが「感に堪えない人」ってのはいて、その度になんとも言い難いような(口に入れたけどなんか飲み込めない、いまさら吐き出すのも行儀が悪いしな…みたいな。)モヤモヤを蓄積させていることだろうと思う。


躾って確かに大事だけれど、躾だけの管理下に置かれてしまうと、いろいろとあれこれ考えなくなってしまう。
「躾を聞いてその通りにやる」だけの毎日、それが躾。

あれやこれや考えさせられるような場面からは遠ざかるはずなんだ。
それすら躾。


それを「新しい情報」やら「文学」やら「芸術」に触れたところで、それは単に躾けの上で「勉強してるだけ」になってしまうから、そのことに触れてあれやこれや考えて思考を深めているのとはちと違うかと思う。

躾を守ることだけが優先されるから、いまでいえば「ルールを守ることだけに頭の中は躍起になってる」のとまるで同じになってしまう。


あたしゃ思うが、せいぜい成人になったら「躾の呪縛」から突き放して(相手が躾の厳しさに嫌気がさして離れていくのと違う)、本人自身が自分で体験して(傷ついても)揉まれないと、人はやっぱり育ちはしないんだよなぁ…とつくづく思う。


そういう段階になった時はもう「躾」ってことじゃなく、「マナーを学ばせる」とか、「その時必要な勉強を援助してやる」とか、そういうことになるんだと思う。


成人になった大人に「躾」を厳しくしてるだけでは、その大人はずっと「成人になりきれない」ってことになるから、人を育てる役割(親であったり、上司であったり)っていうのは、境目に気をつけてないとマズイんだと思う。



実は厳しい躾を守るように調教しちゃうのが一番楽チンだし、それだけ守るほうがやっぱり楽チンなんですよね。


「これで成り立っているからいいじゃん」と言えばそうでしょうけど、ずっと監視して管理されて…なんですよね。心の自由なし。


そんな中いくらやっても調教されない相手を掴んでしまった場合、その相手は「躾を守る段階はもういい、ひとまず自分でやらせてくれ。」のタイプ、諦めをつけるしかないですねー。(諦めちゃうのとは違う)


自分で実感しながら育っていきたいらしいですから、本人の意思を尊重して自由にやらせてやるしかないですや。
良い種だったら、それでも立派に育つと思うので。