ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

躾だけじゃ育たないヨナー

2010年03月10日 10時36分41秒 | 考えるねーさん
し‐つけ【仕付け】
礼儀作法をその人の身につくように教え込むこと。また、その礼儀作法。

れい‐ぎ【礼儀】
人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。



躾に(あんまりにも)がんじがらめで厳しい中で管理されてしまうと、「人の顔色」とか、「人のご機嫌を伺う」癖がつきすぎて、そのまま大人になってしまうと、妙な嫌らしさが漂って(妙な嫌らしさというのはご機嫌を損ねないような計算づくの会話とか、わざと裏をついて相手をさかなでては様子を伺うような会話とか…)、そういうのが「感に堪えない人」ってのはいて、その度になんとも言い難いような(口に入れたけどなんか飲み込めない、いまさら吐き出すのも行儀が悪いしな…みたいな。)モヤモヤを蓄積させていることだろうと思う。


躾って確かに大事だけれど、躾だけの管理下に置かれてしまうと、いろいろとあれこれ考えなくなってしまう。
「躾を聞いてその通りにやる」だけの毎日、それが躾。

あれやこれや考えさせられるような場面からは遠ざかるはずなんだ。
それすら躾。


それを「新しい情報」やら「文学」やら「芸術」に触れたところで、それは単に躾けの上で「勉強してるだけ」になってしまうから、そのことに触れてあれやこれや考えて思考を深めているのとはちと違うかと思う。

躾を守ることだけが優先されるから、いまでいえば「ルールを守ることだけに頭の中は躍起になってる」のとまるで同じになってしまう。


あたしゃ思うが、せいぜい成人になったら「躾の呪縛」から突き放して(相手が躾の厳しさに嫌気がさして離れていくのと違う)、本人自身が自分で体験して(傷ついても)揉まれないと、人はやっぱり育ちはしないんだよなぁ…とつくづく思う。


そういう段階になった時はもう「躾」ってことじゃなく、「マナーを学ばせる」とか、「その時必要な勉強を援助してやる」とか、そういうことになるんだと思う。


成人になった大人に「躾」を厳しくしてるだけでは、その大人はずっと「成人になりきれない」ってことになるから、人を育てる役割(親であったり、上司であったり)っていうのは、境目に気をつけてないとマズイんだと思う。



実は厳しい躾を守るように調教しちゃうのが一番楽チンだし、それだけ守るほうがやっぱり楽チンなんですよね。


「これで成り立っているからいいじゃん」と言えばそうでしょうけど、ずっと監視して管理されて…なんですよね。心の自由なし。


そんな中いくらやっても調教されない相手を掴んでしまった場合、その相手は「躾を守る段階はもういい、ひとまず自分でやらせてくれ。」のタイプ、諦めをつけるしかないですねー。(諦めちゃうのとは違う)


自分で実感しながら育っていきたいらしいですから、本人の意思を尊重して自由にやらせてやるしかないですや。
良い種だったら、それでも立派に育つと思うので。
この記事についてブログを書く
« ひな型的技術にパコパコあて... | トップ | 再現性のない偶発的な不具合 »