足利庄
清和源氏義家流の四男義国は「源氏の棟梁」として後継を期待されたが、気性が激しく源氏の後継者から外されたものの卓越した才覚でもって下野国に一大勢力を築き「足利庄の祖」と言われています、平安時代には義兼が鎌倉幕府創設に尽力し有力御家人としての地位を確立、鎌倉期になると尊氏が後醍醐天皇の討幕運動に参加、室町期には将軍となりました。
鍐阿寺(ばんなじ)
足利氏2代義兼が建久7年(1196)邸宅内に持仏堂を建て、本尊として大日如来を祭ったのが始まりと言われ、3代義氏が堂塔伽藍(がらん) を建立し足利一門の氏寺となりました。
周囲に土塁と堀をめぐらした40,000㎡にのぼる広大な寺域は鎌倉時代の武家屋敷の面影を色濃く残しています。
大正11年3月に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定され、城郭としても「日本名城100選」に選ばれているそうです
足利尊氏像 域内は国指定の史跡(重文)となっている
堀と土塁をめぐらした構造は武家屋敷の造り
太鼓橋と楼門、門は室町期、橋は江戸時代の作
楼門を入ると正面に本堂が見えます 本堂
樹齢550年の大銀杏の樹、奥は多宝塔
永享4年(1432)に創建された東門、鎌倉時代の武家造りの風格が感じられる
足利学校
日本で最も古い学校、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。
足利学校の創建については諸説ありますが歴史として明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領上杉憲実が書籍(国宝)を寄進し、鎌倉の円覚寺から僧快元を招聘し初代の庠主(校長)となって以降です。
足利学校は、応仁の乱以後も、引き続く戦乱の中でも学問の灯を絶やすことなくともし続けて、学徒三千といわれるほどに隆盛を極め、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介しています。
しかしながら教育の中心が「儒学」中心であった為、江戸期に入り「朱子学」が官学化され「昌平坂学問所」が隆盛を極めて以降、足利学校の学問は時代遅れとなり衰退をやむなくされ、学校としての役割は明治5年に幕をおろしました。
現在の施設は平成2年に復元されたものです。
堀に囲まれた学校
儒学の祖「孔子像」 学校入口
孔子廟
儒教の祖、孔子
園内なる「南庭園」
学舎 庫裡