海に吹く風

海の大好きな私
ここで皆さんとお話しましょう

日々思うこと、短歌についても書いていきます

満州

2015-10-08 16:05:11 | 短歌



「アカシアの大連」という本ありき戦後生まれの我も読みたり
 
思い出を人は語れど中国の大連はすでに故郷にあらず

李香蘭と呼ばれし人は語りたり中国人として生きし日々

清朝の夢をつないで傀儡師の糸引くままに踊る皇帝

玉座には蟋蟀飼ひしちさき箱ラストエンペラーの夢は消え去り
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『歴史ヒストリア』

2015-10-08 13:43:07 | 日記



昨夜の『歴史ヒストリア』「満州のプリンセス愛の往復書簡」は愛新覚羅溥傑とその妻嵯峨浩の物語。
私は満州の歴史には興味を持っていて(溥儀とか山口淑子とか川島芳子とか女性週刊誌的興味が多いが・・)このお二人のことも何回もドキュメンタリーやドラマなどで見て知っている。
それでもやっぱり泣いてしまった。

日本が作った傀儡国家の満州国の皇帝溥儀の弟の溥傑と日本の華族の令嬢の縁組はもちろん政略結婚である、
溥傑の日本留学もある意味人質のようなものかも知れない。
その溥傑を日本女性と結婚させ日本との関係を密にし、子供のできない溥儀の次の皇帝として二人の間に生まれた男の子をという目論見もあったのではないか。
しかし溥傑と言う人は真面目て高潔な人格で心優しく家族愛の深い人だった。
政略結婚だったが二人は仲睦まじかった。
新婚時代の二人の写真はとても幸せそうだ。
溥傑が曲げた腕に浩が手を回し二人はよく散歩に出かけた。

しかし二人が満州にわたってからは苦難の連続だった。
日本が戦争に負けて二人は離れ離れになった。
浩は次女を抱え八路軍に捕えられ各地を転々と連行された。
その後国民党軍に捕えられ上海まで行きそこでやっと最後の引き上げ船に乗って日本へ帰った。
溥傑は逃亡しようとして溥儀とともにソ連軍に捕まりやがて中華人民共和国に引き渡された。
その後は矯正収容所に入れられた。

中国と日本に別れ二人は長く会うことはできなかった。
その途中で文通が許されたのは中国語を勉強した長女慧生が周恩来に直訴の手紙を送ったからである。
その慧生は19歳でかなり年配の人ならだれでも知っている天城山心中で亡くなった。
相手の男性の無理心中と言われているが。。
二人は1960の恩赦によって・・16年振りの再会だった。。
その後二人は文化大革命の時期も乗り越えずっと北京で暮らした。
晩年に北京の町を新婚の時と同じように腕を組んで歩く写真が残っている。
ちょっと太った浩さんは半歩下がって溥傑に体重を預けるように前かがみになっている。
美しい写真だなと思った。

浩さんは1987に死去した。臨終の時溥傑は「浩さん、浩さん」とあたりもはばからず号泣しなきがらに追いすがったという。
その時の様子を次女の嫮生はこう語る
「母はとても苦労したけれどその時の様子を見て、女としてここまで愛されて本当に幸せだったなと思いました」
浩さんの人生はこの言葉に尽きると思う。
歴史に翻弄されながら素晴らしく美しく強い夫婦だったと思う。

番組では最近発見されたという文通が許されてから解放されるまでの往復書簡55通に一番焦点を当てて、往復書簡が夫婦の絆をつないでいたと言っていたが、もし文通が許されていなくても二人の絆は揺るがないものだったと思う。
また発見と言ってもこれは今まで知られていなかったのが見つかったというより遺族が保管していたものが今になって公になっただけだろう。
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2015-10-08 13:38:56 | 短歌


蝉たちのあおむけの死の道端に転がり夏は去りゆく気配
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