私は歌評が大の苦手だ。
歌を読んで歌集を読んで感じることはあるのだがそれを評論として書く能力に欠けている。
多分私の頭は本当の意味で文学的ではない。
江戸雪についてコメントで触れたので記事に。
歌評はできないので『駒鳥』の帯の文章をそのまま拝借する。
『何からも決して逃げない江戸雪の言葉が開く世界は希望に似て温かく、どこかひんやりとかがやいている』
雷をはらむ夏空したしみてわれは合歓まであるくつもりだ
「いいえ」云い死ぬためにわれは弾痕を持たない空をだきしめている
戻らない鳥を待つごと手のひらを広げてわれは明日を信ず
結論を導くために潮騒も言葉もいらぬ とにかく歩こう
コスモスにさしかかるころ気付きたり私の体泣いているのだ
思いつくまま何首か選んでみた。
『駒鳥』で目に付くのはとにかく「われ」が入った歌が多いことだ。
主語を入れなければ短歌は一人称が主語である。
だからわざわざ「われ」を入れる歌は少ない。
それはよほど必然性がある時だけだ。
江戸雪の歌に「われ」が多いのははっきりと物事を詠っているからだろう。
きっぱりと言い切っている歌が多い。
「何からも決して逃げない江戸雪の言葉」とはこういうことだろう。
その代わり情感や叙情に訴える歌はないように思える。
引用した最後の歌・・・普通ならもっとしっとりとした悲しみの歌になるところがこういう題材でもからっとしてる。
だから共感してこの歌に心が動かされるという歌がない。
これはけなしているのではなく歌の傾向として言っている。
そういう意味で江戸雪は私の好きな歌人ではない。
それでも歌集を読んでいて感じるのは、「希望に似て温かく」強い言い切り方に励まされて元気になれる。
しかし、まったく湿っぽくないから「どこかひんやりとかがやいている」のだろう。
現実の江戸雪はどんな人だろう?
やっぱりすごくきっぱりとして理性的な人だろうか?
歌を読んで歌集を読んで感じることはあるのだがそれを評論として書く能力に欠けている。
多分私の頭は本当の意味で文学的ではない。
江戸雪についてコメントで触れたので記事に。
歌評はできないので『駒鳥』の帯の文章をそのまま拝借する。
『何からも決して逃げない江戸雪の言葉が開く世界は希望に似て温かく、どこかひんやりとかがやいている』
雷をはらむ夏空したしみてわれは合歓まであるくつもりだ
「いいえ」云い死ぬためにわれは弾痕を持たない空をだきしめている
戻らない鳥を待つごと手のひらを広げてわれは明日を信ず
結論を導くために潮騒も言葉もいらぬ とにかく歩こう
コスモスにさしかかるころ気付きたり私の体泣いているのだ
思いつくまま何首か選んでみた。
『駒鳥』で目に付くのはとにかく「われ」が入った歌が多いことだ。
主語を入れなければ短歌は一人称が主語である。
だからわざわざ「われ」を入れる歌は少ない。
それはよほど必然性がある時だけだ。
江戸雪の歌に「われ」が多いのははっきりと物事を詠っているからだろう。
きっぱりと言い切っている歌が多い。
「何からも決して逃げない江戸雪の言葉」とはこういうことだろう。
その代わり情感や叙情に訴える歌はないように思える。
引用した最後の歌・・・普通ならもっとしっとりとした悲しみの歌になるところがこういう題材でもからっとしてる。
だから共感してこの歌に心が動かされるという歌がない。
これはけなしているのではなく歌の傾向として言っている。
そういう意味で江戸雪は私の好きな歌人ではない。
それでも歌集を読んでいて感じるのは、「希望に似て温かく」強い言い切り方に励まされて元気になれる。
しかし、まったく湿っぽくないから「どこかひんやりとかがやいている」のだろう。
現実の江戸雪はどんな人だろう?
やっぱりすごくきっぱりとして理性的な人だろうか?