アントンK「趣味の履歴簿」

趣味としている音楽・鉄道を中心に気ままに綴る独断と偏見のブログです。

上岡流ブルックナーへの本音

2018-10-30 17:00:00 | 音楽/芸術

今月はブルックナーの演奏会に恵まれた贅沢な10月だった。先のブロムシュテットによるブルックナーの第9番、そして今回は上岡敏之と新日本フィルによるやはり第9番を連日。これだけ第9を立て続けに聴いた経験はあっただろうか。かつて20年以上遡れば、まだ全国あちらこちらでブルックナーの演奏会があり、集中的に聴いたことはあるかもしれないが、調べないとはっきりわかっていない。マーラーを含めて、一時期のブームというような現象は無くなってしまったが、それでも年に数回の演奏会を目掛けて日々を過ごす有難みは、今のアントンKには外せない事案なのだ。

さて、今回サントリーホールとみなとみらいホールで連日同一プログラムを聴いてきたが、ブルックナーの第9番に声楽曲の「デ・デウム」が続けて演奏された。ここには指揮者上岡氏の強い希望があり、休憩を挟まず続けて演奏されるというもの。実際に、アダージョが終わって、ソロ歌手が登場後、そのまま演奏された。このスタイルは、かつてアントンKにも経験があり、朝比奈隆も東京でこの2曲を演奏したし、ケント・ナガノが来日公演でやっていたと思うが、中々実演されない「テ・デウム」を聴けるとなれば、無条件で聴きたくなるというもの。フィナーレの代わりに演奏するという意味の有り無しにかかわらず、素直に喜びたいところだ。

実際に鑑賞してみての印象は、どうしてもアントンKには、この2曲は別物として感じてしまう。交響曲第9番はやはり第3楽章のアダージョで彼岸に導かれるイメージが強く残り、あの第7のテーマので終結するのがベストに思えてならないのだ。

肝心の演奏は、今までの上岡氏のブルックナーの総決算とでもいうべき、彼の独自性を推し進めたものだった。ブルックナーの霧は極端に小さく、ホール全体に透き通った空気感を味わえたが、逆に緊張をあおられ、息を止めて気絶しそうになる。大きく楽曲が膨れ上がり、fffで主題を提示する場面は、金管楽器群の誇張は皆無で、弦楽器主体の影で鳴っている響きだった。そして二日間ともに、全休符は、通常よりかなり長めに取られていたように思う。かなり残響を意識したのか、その「間」にどこか指揮者の祈りを感じずにはいられなかった。もちろん指揮者の上岡氏は、いつもの通り暗譜で挑んでいるが、オケに対する要求がさらに綿密に構成されており、今までの第9とはかなり違った印象を持った。おそらくここまで譜面を読み返し、熟慮した解釈は聴いたことがないと断言できる。

ブルックナーの音楽は、自分の色を出したり、何かうまく演奏してやろうと解釈すると、どんどん本質から遠ざかってしまうと聞かされてきた。その一番の例が、カラヤンのブルックナーだと思うが、今回の演奏を聴いて、指揮者上岡氏は、どこかアプローチを難しく考え過ぎ、譜面と向き合うときに解釈し過ぎてしまったのではないかと自分勝手に考えている。かつて経験のない響きの世界や、神への信仰心は多々感じ取れたが、もっと素朴で単純なブルックナーの響きは聴こえなかったように思う。オーケストラは、指揮者上岡氏に食らいついて、どのパートも満足できただけに残念。他の作曲家とは同様に語れないのがブルックナーということなのか、今は考えさせられて悶々としている。

2018年10月27日 ジェイド 新日本フィルハーモニー交響楽団 第596回定期演奏会

2018年10月28日 特別演奏会サファイア

ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調 (ハース/オーレル版)

ブルックナー テ・デウム  ハ長調

指揮   上岡 敏之

ソプラノ 山口 清子

アルト  清水 華澄

テノール 与儀 巧

バス   原田 圭

合唱   新国立劇場合唱団

合唱指揮 冨平 恭平

コンマス 崔 文洙 

 



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