風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

池袋モンパルナス探訪ツアー報告(2)

2008-09-24 22:15:46 | アングラな場所/アングラなひと
Mine_atorie 「さくらが丘パルテノン」には画家たちが当時から通った「不動湯」という銭湯がある。昔ながらの高い煙突が「さくらが丘パルテノン」越しに見える。「不動湯」は、「さくらが丘パルテノン」に隣接しているのだ。そして、その一帯の迷路のような小道はここに70戸のアトリエが建ちならんでいた往時を思い起こさせるにぴったりである。路地の入り込み具合は、きっとそこにアトリエがひしめいて建っていただろうことを想像させてくれる。
 ちなみに今回のツアーでこの「不動湯」さんが、昭和元年営業開始からの83年におよぶその長い歴史にピリオドを打って廃業することを店頭のはり紙で知ってしまった。近い内に入浴しにこなければなるまい。

 池袋モンパルナスに住む画家たちの中では、当時からいちはやく名が知れていた大家である熊谷守一私邸跡に建っているコンクリート打ちっぱなしの熊谷美術館(ここは数年前から豊島区立になった)にちょっと立ち寄って、「つつじが丘アトリエ村」へゆく。
 「つつじが丘アトリエ村」にはすぐ手前の角地に北海道にある間宮林蔵像などでも知られる峯孝のアトリエが作品展示館として一般公開されている。武蔵野美術大学の彫刻の教授もなさっていた方の残されたアトリエである。
 ツアー参加の13号倉庫さんが、たまたま前日に間宮林蔵の像の写真を見たとかで、その偶然にしきりとうなずいている。たしかに、写真を見たその像の作者のアトリエに導かれようとは、ユメにも思わなかっただろう。ボクにとってもシンクロは起こった。24日まで国分寺で個展をやっていたYUCOの武蔵美時代の彫刻の指導教官が、峰孝氏だったことが分かったばかりだ。

 そして、今回ツアーの終着点にしようと思っていた旧平和小学校の教室を活用している「アトリエ村資料室」へ。ここでローテーション当番で「池袋モンパルナスの会」の事務局の方とはじめてお目にかかる。「資料室」と「池袋モンパルナスの会」(以下「会」)との関係をよく知らなかったボクは、いろいろ教えてもらう。「池袋モンパルナスの会」の出来た経緯などだ。ボクはその場で会の末席をあたためさせてもらうことにした。

 要町通りを越えれば、一番最初にできたアトリエ村である「すずめが丘アトリエ村」および靉光などが住んだ「培風寮」跡があるのだが、今回は省略した。「培風寮」は、異色のミステリー作家である大泉黒石も住んだことでボクにとっては江戸川乱歩の「幻影城」(蔵を利用して書庫になっている)とともに格別なところでもあるのだが……。
 また、下落合に瀟洒なアトリエを建てた佐伯祐三のアトリエも訪ねたいところであるが、それはまた別の機会に………(アトリエは公園の中に現存する)。

 こうして、池袋西口まで再び歩いてツアーは解散した。

 ちなみに、ボクは8月の後半に佐伯祐三のアトリエを訪ね、絵の具がなくなると「さくらが丘パルテノン」などに住む友人を頼ってフラリとやって来たという流浪の画家長谷川利行の不忍池のほとりの石碑にも、ツアーの翌々日の23日「フェルメール展」の帰りに立ち寄ってきたばかりである。

(おわり)



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2 コメント

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行けなくて残念・・・ (bambi)
2008-09-24 23:45:03
行けなくて残念・・・
ミキさんと、新宿のネオンの海で水没してました(笑)
故 長沢節氏は、戦中に「そんなガリガリの絵を描くな!」と」言われたそうな。
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bambiの先生でもある長沢節の住んだ一帯(さくらが... (フーゲツのJUN)
2008-09-25 08:30:10
bambiの先生でもある長沢節の住んだ一帯(さくらが丘パルテノン)には、一緒に行きたかったですよ。
節先生の思い出など聞きながら巡りたかった。
二丁目は楽しかったですか?
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