実にユニークかつ有意義な展覧会を見てきた。この国が1960年代の高度成長期に置き去りにし、忘れ去ってしまったもの――それらが、まるで怨嗟(えんさ)のうなりをあげてここに現れたかと思うほどで、そのおよそ50年以上前のこの国の忘れ去られた「現実」が、単なる情報としてのイメージや、写真や絵画としてではないナマナマしい人間の肉体を持ったものとして迫ってくるようにさえ感じた。まして、そこはおもにボクにとっても懐かしい九州なのである。
ナマナマしい人間の肉体は、その掘り出すものが「黒いダイヤ」と当時呼ばれたように自らも、黒々と全身を光らせる逞しい炭坑夫であり、かっては乳房をおおうこともなく男たちと同じように「後山」として坑内に入って行った女たちの姿である。
展覧会の名前は『‘文化’資源としての<炭坑>展』(於目黒区美術館:12月27日まで)と言うやや固いネーミングがついている。実に多様で、雑多なコレクションで<炭坑>にまつわる絵画や、写真や、図版がほとんど網羅されているのではないかと思わせるほど、ポスターから、サークル村のガリ版刷り機関誌までがある。
色々な切り口で鑑賞することが可能だろう。しかし、そこに流れているものは1950年代までの日本にはごくありふれた風景であり、私たちの原風景でありながら、それらを打ち捨てて顧みなかった私たちを打擲(ちょうちゃく)する空気(アウラ)であることには注意しよう。
目黒美術館で見ることができるのは、先の展覧会テーマのパート1とパート2である。パート1が、「<ヤマ>の美術・写真・グラフィック」ということで、ネーミングには色気も何もない、そのままである。パート2は、川俣正によるインスタレーションだが、ナマナマしい肉体を忘れた現代美術というものが、いかに空虚なものかということをまるで比較展示してくれているようなものである。ちなみに川俣正はこの企画展に一枚かんでいるようだから、「‘文化’資源」という妙チクリンな概念もそこから来ているのかもしれない。
ボクが関心を持ったのは、今回膨大な全貌をはじめて原画でみることが出来た山本作兵衛の「炭坑画」。サークル村機関誌の表紙絵を描いた版画家の千田梅二。そしてひとが生活する生きている軍艦島の写真を撮った奈良原一高や大橋弘(「橋」は本当は外字ゆえ入力できません)などの写真だった。底辺ルポルタージュ作家の上野英信が絵を描いていたことも今回初めて知ったことだった。ボクは、芸術じゃない、いわば紙芝居のような絵解きの記録である山本作兵衛の「炭坑画」の方が、「‘文化’資源」よりシックリくる。それに、今回1点だけだったが、福岡県田川出身の立石大河(タイガー立石)の絵画が展示されてあったのもうれしかった。
不思議なことにエネルギー革命があって、石炭が石油に変わってから後も「コンビナート絵画」とか、「石油画」というものがない。「萌え」としてのコンビナートや工場の写真はあっても、文化はない。それは不思議なことだが、とりも直さず石油はこの国では生産されなかったということが大きいのだろうか?
我が国におけるこのような豊富な遺産である「炭坑画」が、打ち捨てられた背景には、実は豊かな産炭国だった自前のエネルギー資源をいとも簡単に捨て去った効率優先のエネルギー政策が関与しているのではないかと疑念している。
(写真)山本作兵衛の「炭坑画」から。「低層 先山後山」(1973年)。
ナマナマしい人間の肉体は、その掘り出すものが「黒いダイヤ」と当時呼ばれたように自らも、黒々と全身を光らせる逞しい炭坑夫であり、かっては乳房をおおうこともなく男たちと同じように「後山」として坑内に入って行った女たちの姿である。
展覧会の名前は『‘文化’資源としての<炭坑>展』(於目黒区美術館:12月27日まで)と言うやや固いネーミングがついている。実に多様で、雑多なコレクションで<炭坑>にまつわる絵画や、写真や、図版がほとんど網羅されているのではないかと思わせるほど、ポスターから、サークル村のガリ版刷り機関誌までがある。
色々な切り口で鑑賞することが可能だろう。しかし、そこに流れているものは1950年代までの日本にはごくありふれた風景であり、私たちの原風景でありながら、それらを打ち捨てて顧みなかった私たちを打擲(ちょうちゃく)する空気(アウラ)であることには注意しよう。
目黒美術館で見ることができるのは、先の展覧会テーマのパート1とパート2である。パート1が、「<ヤマ>の美術・写真・グラフィック」ということで、ネーミングには色気も何もない、そのままである。パート2は、川俣正によるインスタレーションだが、ナマナマしい肉体を忘れた現代美術というものが、いかに空虚なものかということをまるで比較展示してくれているようなものである。ちなみに川俣正はこの企画展に一枚かんでいるようだから、「‘文化’資源」という妙チクリンな概念もそこから来ているのかもしれない。
ボクが関心を持ったのは、今回膨大な全貌をはじめて原画でみることが出来た山本作兵衛の「炭坑画」。サークル村機関誌の表紙絵を描いた版画家の千田梅二。そしてひとが生活する生きている軍艦島の写真を撮った奈良原一高や大橋弘(「橋」は本当は外字ゆえ入力できません)などの写真だった。底辺ルポルタージュ作家の上野英信が絵を描いていたことも今回初めて知ったことだった。ボクは、芸術じゃない、いわば紙芝居のような絵解きの記録である山本作兵衛の「炭坑画」の方が、「‘文化’資源」よりシックリくる。それに、今回1点だけだったが、福岡県田川出身の立石大河(タイガー立石)の絵画が展示されてあったのもうれしかった。
不思議なことにエネルギー革命があって、石炭が石油に変わってから後も「コンビナート絵画」とか、「石油画」というものがない。「萌え」としてのコンビナートや工場の写真はあっても、文化はない。それは不思議なことだが、とりも直さず石油はこの国では生産されなかったということが大きいのだろうか?
我が国におけるこのような豊富な遺産である「炭坑画」が、打ち捨てられた背景には、実は豊かな産炭国だった自前のエネルギー資源をいとも簡単に捨て去った効率優先のエネルギー政策が関与しているのではないかと疑念している。
(写真)山本作兵衛の「炭坑画」から。「低層 先山後山」(1973年)。
炭鉱展、とても良かったです。みんなに見てもらいたい。20年ぐらい前の目黒美術館の記憶しかないまま、会場に入ったので、個人的な時間がとてもクリアに層をなして体にしみこんできました。
ぼくは炭鉱とのかかわりは皆無に等しいですが、写真家という職業柄、土門の写真は記憶に焼きついているはずなのですが、どうもふたたび見ると印象が新たになった。
鉱脈を掘り当ててゆく。
ということが今後も大きな課題になってゆくのでしょう。
なるほど「‘文化’資源」と言うのは鉱山、鉱脈のようなものなのですね。
そこで、写真家というひとたちは「鉱脈」と言う言葉を好んで使いますね。
この比喩はどこから来ているのでしょう?
下手をすると土門拳?
1960年に出版された写真集『筑豊のこどもたち』は、写真家志望の学生のモチーフを土門拳がパクったために、土門は出版を急いだらしいという逸話があります。
掘らなければならない「鉱脈」も、手柄を急がねばならないらしい。
朝日新聞12月12日夕刊で、森山大道が「自分の鉱脈を発見できた」という一文を書いていました。
写真家は炭坑夫でもあるらしい(笑)。