風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

毒書日記Poisonous Literature Diary/「エマニエル夫人」<その2>

2006-09-10 23:59:45 | シネマに溺れる
E_arsan_1 映画『エマニエル夫人』(以下『エマニエル』と表記)の原作者、エマニエル・アルサンは女性の年齢をばらすのは気がひけるが、御歳66歳でいらっしゃる。しかし原作本『エマニエル』がはじめてフランスで出版された1967年当時は27歳だった(1963年出版説もある。ならば23歳で『エマニエル』を書いたことになるが……)。

 エマニエル・アルサンの経歴には不思議な色香というか官能が匂いたつようなものがある。そこにはエロチシズム文学の最高峰のひとつを築いた作品『エマニエル』に結実したようなエロチシズムの遍歴が実際にあったのではないかと憶測させるような色香である。

 本名は明かされていないが、エマニエル・アルサンは外交官夫人であるのは間違いないようである。バンコクで生まれた彼女は16歳にしてフランス人外交官の「幼な妻」となる。ちなみにその年齢での結婚はタイでは珍しいことではない。女性も高学歴化してキャリアになり晩婚になってきたとは言っても、地方では早く結婚する傾向にあるのは変わらない(法的には満17歳以上であれば結婚できる)。
 そして、結婚したのち28歳の時に、ロバート・ワイズの『砲艦サンパブロ』に出演、女優としてスクリーンデビューをしている。女優としての名前は、マラヤット・アンドリアンである。小柄だかふくよかな肉体、そして長い黒髪をもつ、エキゾチックな東洋人女性の色香を放つなかなか素敵な方である。そして、もともと映画の脚本を書いていた彼女は後に、習得したフランス語で一遍のエロチック文学を書き、フランスで出版する。『エマニエル』である。
 この本は映画化の話題も加味して数百万部を売りあげる! その映画も世界中に女性を巻き込んだ「性の革命」を引き起こしたが、小説は当初フランスでも物議をかもしたようである。
 1975年に自作の小説を自ら脚本化し、メガホンをとって(名義貸し?)ヌード出演までしてしまう『卒業生』(アニー・ベル主演)という映画もある。現在は、おそらくパリの上流階級の社交界で静かに余生を楽しんでいるのではないかと思われる。

 このエロチシズム小説『エマニエル』は長い間、A・ピエール・ド・マンディアルグが匿名で書いたのではないかというウワサがまことしやかに囁かれていた。ある意味、A・ピエール・ド・マンディアルグのような世界観がうかがえる箇所があるからだ。もちろん、その上当のマンディアルグが序文を書いていると言うのもウワサを増幅させただろう。
 また高名な作家が別名を名義としてポルノグラフィを発表すると言うのは、日本では永井荷風くらいしか思いつかないがフランスではありふれたことだった。バタイユの『眼球譚』が、まさしくそうであったように……。

 『エマニエル』の中の設定で、エマニエルはパリから夫の赴任先であるバンコクへロンドン経由で飛行機で行く、というのは冒頭のシーンである。エマニエルは新婚の貞淑な若妻だった。エマニエルは英語を理解せず、のっけから言語的コミュニケーションの不可能な隔絶された状況に陥るのだ。ただひとり金髪のスチュアーデスだけがフランス語を喋る。キャビンの閉塞的な状況の中で、性幻想にとらわれたエマニエルは視姦からはじまるふたりの見知らぬ男と交わる。そのふたりめの男はまるでギリシャ神話に登場する英雄のようで、エマニエルはみつけたとたん自ら手をひいて化粧室に導いてゆく。そして、その飛行機「飛翔する一角獣(リコンヌ・アンボレ)」号はベイルートでトランジットしたのち、バンコク経由で東京へ向かう飛行機であることが明かされるこの初めの章は「飛翔する一角獣」と名付けられている。そして、この章のエピグラフはオヴィデウスの『愛の術』である。

 訳者(阿倍達文)は残念なことに古典文学にはあまり詳しくはないようだ。これはアルス・アマトリア『愛の技法』と訳されているローマの詩人オウィディウスの作品である。オウィディウスはギリシャ・ローマ神話に題材をとった散文詩『変身(転身)物語』を残したアウグストゥスと同時代の職能詩人だった。

 エマニエル・アルサンはその処女作『エマニエル』を、おそらくギリシャ・ローマの神々に愛され、持て遊ばされ神々との交わり、その愛の中で植物や、動物に変身してしまうオウィディウスの『変身物語』を念頭においてこの物語をはじめた。それは、貞淑な若妻エマニエルの性の変身の物語なのだ。そして、その変身はアルス・アマトリア=愛の技法を通じての変身なのだ。この時、エマニエルの中で愛は性と同義になり、肉体はその女性-性の肯定となる。

 つつしみ深い16歳の東洋の少女が、フランス人外交官と結婚し、やがてみずからも身体をはった女優となり、のちにヌードまでも映画の中で公開するほどにまでなる。それ自体が、「転身」であり「変身物語」ではないか!
 つまり、『エマニエル』が書かれることによってエマニエル・アルサンというエロチシズム小説の作家が生まれたように……。

 そして、『エマニエル』の中でマリオが導くそのエロチシズムの哲学は、いわば20世紀の『愛の技法(アルス・アマトリア)』を打ち立てようと意図したものだろうし、だからこそその哲学は古典的に思えるほど反自然的なのだ。

 「この自然に対する夢の勝利であるエロチシズムとは、不可能なるものを否認するがゆえに、詩的な精神の最高の住人なのだ……エロチシズムは人間そのものであり、エロチシズムにとって不可能なものは何もないのです」

 (写真は『エマニエル』の作者エマニエル・アルサンのヌード)