風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

夏の終焉・幼年期の終わり

2006-09-02 23:57:35 | コラムなこむら返し
Crazy_fruit きょう突然、夏が終わった、と感じた。昨夜、自分が主催するイベント(E.G.P.P.)が、終わった事にも関連するかもしれないし、そこで読んだ今回のテーマ(「セプテンバー・ソング」)の自分のポエムにナーバスにさせられたのかもしれない。
 だいたい、自分の十代の思い出を材料にポエトリーなんか書くもんじゃない。どこか、ヌーヴェルバーグ風の脚色をしてみたくなる(笑)。御存知だろうが、フランスのヌーヴェルバーグ(それ自体、「新しい波」という意味)に影響を与えたのは日本映画だった。

 1956年いまや小皇帝と呼ばわれて久しい東京都知事(もう、やめて欲しい!)石原慎太郎が芥川賞を受賞した数ケ月後に、石原の脚本、石原弟つまり裕次郎のデビュー作である(とはいえ、端役で主演は長門裕之、南田洋子)『太陽の季節』からはじまるいわゆる太陽族映画の1本に中平康監督の『狂った果実』(1956年)という奇跡のような作品がある。中平康監督は、1964年には小悪魔のような加賀まりこを得て、『月曜日のユカ』という傑作も生み出した監督だ。

 太陽族ブームはこの映像作品を生み出しただけでも肯定してもいいと、思う位(とはいえ、「族」としての実体は何もないのは同じ)素晴らしい作品だが、この『狂った果実』はフランスでも上映されたらしくフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールらを熱狂させた。そこから生み出されたのが、ヌーヴェル・バーグであり、アラン・レネ、ルイ・マルなどが結集した。ヌーヴェル・バーグはいわば、フランスの「太陽族映画」だったのであり、パトリシア・ハイスミスの原作を映画化したルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』(1960年)などにも「太陽族映画」は影響を与えているだろう。

 ところが、話はそれでは終わらない。50年代の終わりから、60年代の初めにかけて上映されていったそのフランス映画の「新しい波(ヌーヴェル・バーグ)」は、ふたたび日本で上映され若い監督たちに影響を与える。当時、日本映画界は台頭するテレビへの対抗もあって五社(六社)協定というもので、ガンジガラメに縛られていた。そんな中、松竹で撮った大島渚監督の『日本の夜と霧』という作品が、会社の自主規制によって上映が打ち切られるという事件があった、この事件をきっかけに松竹から大島渚、篠田正浩、吉田喜重らが飛び出し、それぞれ「独立プロダクション」を作って映画を作り出したのである。後にATG(アートシアター・ギルド)の創設にもつながるこの監督たちの作品は松竹ヌーヴェル・バーグと呼ばれた。

 60年安保闘争をはさんで「太陽族映画」はフランス経由でひとまわりし、政治意識と表現性を鋭くつきつける日本映画に変身する。

 大島渚が松竹時代に監督したたとえば、『青春残酷物語』(1960年)も「太陽族映画」の影響を受けている事が見て取れる。とりわけ、中平の『狂った果実』の影響だ。

 そして、この大島の作品は違うジャンルに奇妙な形での影響を与えるのだ。そう、永島慎二の貸本漫画時代の作品『黄色い涙シリーズ/漫画家残酷物語』(月刊貸本誌『刑事』に主として連載)である。この作品に1960年代の初め頃、日暮里の夜店通りの貸本屋さんで、出会ったボクは多大な影響を受ける。当時、ボクが漫画家、劇画家になりたくてたまらなかった頃だ。

 こうして、赤い半月が地平ちかくにかかる今日、ボクは夏の終わりを感じながら、つらつら自分の少年時代にまで遡り、一遍の自分の会心作とはいえない詩作品から、喚起された思いを反芻していたのだった。

 幼年期の終わり。さなぎが成虫になるように、ボクは自分がぬぎ捨ててきたものを反芻しているような気分になった。さて、ボクは蛾になったのだろうか? 美しい蝶になったのだろうか?

 せめて、銀粉を撒き散らしてほのむらに飛び込む青い蛾であってほしいものだ!