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■ Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/26・2020/09/18 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。
また、現在リニューアル中で、構成が錯綜しています。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

※文中、”資料A”は、「武田史跡めぐり」/山梨日日新聞社刊をさします。

信玄公ゆかりの寺社
Vol.1~5でご紹介した以外の、信玄公ゆかりの寺社をご紹介します。

■【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】
まずは、Vol.5でご紹介した「信玄公の戦勝祈願依頼文」の祈願先11箇寺のうち、不動明王と毘沙門天以外を御本尊とする寺院をご紹介します。

■ 金剛山 慈眼寺



笛吹市資料
笛吹市一宮町末木336
真言宗智山派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第38番、甲斐八十八ヶ所霊場第17番
朱印尊格:本尊 千手観音 印判
札番:甲斐百八霊場第38番印判
・中央に御本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印と中央に「本尊 千手観音」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第三八番」の札所印。左下には山号・寺号の印判が捺されています。

慈眼寺の開山は明確でなく、文明年間(1469年~1486年)に宥日によって中興されたと伝わります。
明治年間に醍醐報恩院末から真言宗智山派智積院に替わっているようです。(資料A)

寺伝には、「武田氏の祈願所として発展し、七堂伽藍があったが、天正十年(1582年)、織田信長勢により焼失」とあるようです。
本堂左手の光明真言の碑は特異なものらしく、真言宗の名刹としての歴史を感じさせます。

信玄公の信仰篤く、信玄公が川中島の戦いに携行された毘沙門天が残されています。(資料A)

当寺には、信玄公の薬師如来への信仰を物語る縁起が伝わります。

慈眼寺の薬師如来縁起(信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏)
ながくなりますが貴重な文献なので、引用させていただきます。
「甲斐國八代郡自然出現薬師瑠璃光如来縁起夫出現薬師如来といつハ往昔文治年中(1185-1160A.D.)宥日上人と云者菩提の嘉苗を植て六十余州を巡礼する時甲州八代の郡両木八幡宮に通夜す。夢中に神龍現て宥日上人に告て誼く『爰に大石あり。其中に薬師瑠璃光如来います。是を以て汝に附属す』といひ訖て夢覚ぬ。上人希有の想をなし、看に大石あり。『定て此石中に在ん。云何してかこれを得ん』と思議する時、此大石自両に分て佛像忽顕現す。光明十方を照し、異香四方に薫じ、魔宮震動して天花雨の降が如し。上人魂を失ふの信を生じ、皮を剥の誠を致して恭敬供養し、礼拝懺悔す。(略)建久五年(1194A.D.)、武田太郎信義改て堂を建て奥院と号し、如来を安置し奉て国家の繁栄を誓ふ。」
「其後永禄十三年(1570A.D.)武田信玄公川中島に於て越後の兼信と相戦う時、身方 軍兵己に敗績せんとす。是故に玄公智謀尽て佛力を頼み、法印宥空を招き、薬師の法を修せしむ。嗟呼尊哉奇哉八万の夜叉、軍兵の心中に入て猛虎の勢を生じ、十二神将大将の前後を囲で飛龍の駕に似たり。敵陣これを見て忽懼震戦き、旗を捨て逃走り、弦を絶て平降す。是則薬師如来十二神将八万夜叉等の擁護する所以なり。
「これに依て信玄公、 如来の威光を尊び、 夜叉の冥護を仰ぎ、更に十四問四面の金堂を建て如来を尊重し給て、五百石の福田を附除して供養料とす。しかのみならず、軍中著 用の錦七条の袈裟、且つ具足箱、毘沙門の像等数多宥空法印に施与す。其後、元亀二年(1571A.D.)国中一派の僧侶を集め、 薬師如来の秘法を修せしめて、国泰民安、武運長久を祈る。」

十二神将は薬師如来を守護する神将で、各神将がそれぞれ七千、計八万四千の眷属夜叉を率いるとされています。
↑の縁起からすると、薬師如来の御利益とともに、十二神将の守護も祈願していたものとみられます。

一間一戸入母屋造の流麗な鐘楼門は国の指定重要文化財。
大寺であったことを伝える広い山内に入母屋造茅葺のどっしりとした本堂と庫裡は、地方寺院の伽藍構成をよく伝える例として国の重要文化財に指定されています。

星曼荼羅・梵字法帖などの貴重な寺宝や、信玄公の戦勝祈願依頼文などが遺されています。
戦勝祈願依頼文は、「信州長沼馬上の廻文」ともいわれ、信州長沼の地で信玄公が馬上でしたためたものと伝わります。

甲斐百八霊場第38番の札所で、快く御朱印を授与いただきました。

■ 高橋山 放光寺

【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 参道

【写真 上(左)】 大黒天
【写真 下(右)】 弁財天

【写真 上(左)】 本堂前の門
【写真 下(右)】 本堂

【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂と庫裡(客殿)

【写真 上(左)】 庫裡玄関
【写真 下(右)】 愛染明王堂
公式Web
甲州市藤木2438
真言宗智山派 御本尊:金剛界大日如来
札所:甲斐百八霊場第8番、甲斐八十八ヶ所霊場第72番、甲州東郡七福神(大黒天)


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:大日如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第8番
・中央に三寶印と金剛界大日如来の種子「バン」の種子と「大日如来」の揮毫。
右下に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔甲州東郡七福神(大黒天)の御朱印〕
朱印尊格:大黒天 書置(筆書)
札番:甲州東郡七福神第5番
・中央に札所本尊大黒天の持物「打ち出の小槌」の印判と「大黒天」の種子「マ」と「大黒天」の揮毫。
右下に「甲州東郡七福神第五番霊場」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔天弓愛染明王の御朱印〕
朱印尊格:大黒天 書置(筆書)
札番:甲州東郡七福神第5番
・中央上に愛染明王の種子「ウン」の揮毫。「ウン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「天弓愛染」の揮毫。右に「縁むすび」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
愛染明王の御朱印は、山梨ではめずらしいものです。

放光寺は元暦元年(1184年)源平合戦で大きな功績をあげた安田義定公が「一ノ谷の戦い」の戦勝を記念して創立したと伝わる、甲斐を代表する名刹です。

寺伝には、「塩山の北方大菩薩の山麓、高橋荘(現在の一ノ瀬高橋)にあった法光山高橋寺を安田氏の館(山梨市小原)に近い牧荘(塩山市藤木)に移し高橋山多聞院法光寺と改め天台宗寺院として大規模に伽藍を建立し安田一門の菩提寺としました。南北朝期になって真言宗に改宗されました。のちに真言宗七談林にも加えられ真言宗の教えを広める根本道場になりました」とあります。(放光寺資料)

すこしく話が逸れますが、義定公は甲斐源氏の興亡において大きな役割を担った武将なので、事跡について簡単にまとめてみます。

義定公は、甲斐源氏の祖とされる源義光(新羅三郎)公の孫源清光公の子(清光の父義清の子説もあり)という名流で、現在の山梨市を中心とした峡東一帯に勢力を張りました。
平家追討の令旨に応じて挙兵し、「富士川の戦い」などでの戦功により遠江国守護に任じられました。(『吾妻鏡』)

寿永二年(1183年)、義定公も平家追討使として東海道から上洛。大内裏守護として京中を守護し、同年8月には従五位下遠江守に叙任しました。

「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」と歴戦。とくに「一ノ谷の戦い」では、義経の搦め手軍を率いて奮戦、平経正、平師盛、平教経を討ち取ったと伝わります。
建久二年(1191年)の鶴岡八幡宮法会では、頼朝公御供の筆頭に義定の名がみられ、頼朝公配下のなかでも高い地位を占めていたことがわかります。

建久四年(1193年)、義定公の子、安田義資が罪を得て斬られ、義定公の所領も没収。
翌建久五年(1194年)には義定公みずからが謀反の疑いをうけ、放光寺にて自刃されたと伝わります。

この当時の甲斐源氏には、武田信義、安田義定、一条忠頼らの有力武将がおり、「富士川の戦い」の主力は甲斐源氏であったとみられています。
しかし、義定公は謀反の疑いで自刃、一条忠頼も鎌倉にて酒宴の最中に暗殺、武田信義公の子逸見有義は頼朝公から疎まれ、同じく信義公の子板垣兼信は違勅の罪を問われて配流されるなど、次々と失脚していきました。

当時の甲斐源氏は頼朝公も御せないほどの勢力があり、武士の頭領としての地位を確立するために、頼朝公が甲斐源氏の力を削いでいったという見方が有力です。

以降、甲斐源氏では、武田氏宗家となった信光公の流れと信義公の弟加賀美遠光公から小笠原氏、南部氏が出て、以降勢力をはりました。
小笠原氏、南部氏は江戸時代も大名家として存続しています。(大和郡山藩の柳沢氏、新発田藩主の溝口氏、松前藩主の松前(蠣崎)氏なども甲斐源氏の末裔を称しています。)

義定公は文化に造詣が深く、多くの仏像を勧請され、いまも「木像大日如来」「木像不動明王」など名作とされる仏像が放光寺に残されています。
「天弓愛染明王」は日本最古の天弓愛染明王としてとみに有名です。
また、開基堂に御座す毘沙門天は、義定公ゆかりのお像と伝わります。

信玄公との関係についても寺伝があります。
「武田信玄の時代には、武田家の祈願所となっております。元亀三年三方原の戦いのおり、武田氏は遠州鎌田山医王寺に伝わった大般若経六百巻(南北朝時代の写経)を甲州に移し、当山に奉納しております。」((放光寺資料)
永禄十一年の「信玄公の戦勝祈願依頼文」には「法光寺」とありますが、これは当寺のことかと思われます。

天正十年(1582年)、織田勢の甲州攻めの兵火にかかり堂塔伽藍は焼失しましたが、その後、慶長年間(1599年~1614年)、寛文年間(1661年~1662年)に堂宇が再建されて現存します。

山内はさほど広くはないですが、梅の木が多く、名刹らしい落ちつきがあります。

山門は、駐車場から寺を背に参道を下っていったところにあるので、気づきにくいです。
すこぶる個性的な意匠で、脚数すらわかりませんでした。
扁額もめずらしい梵字のものです。

「高橋山」の扁額が掲げられた仁王門は、入母屋銅板葺桁行三間一戸の単層門、左右に金剛力士像が安置されています。

参道右手に甲州東郡七福神の大黒天と鐘楼、右手の放生池、太鼓橋のさきに弁財天が祀られています。
大黒天は大岩に刻まれた露仏とお堂のなかにも御座します。
公式Webによると、大岩の露仏は、当山鎮守開運大黒天の奥の院本尊で、もともとは北方鍜冶屋橋のたもと笛吹川の東岸に祀られていましたが、橋の改修工事に伴い移座されたようです。
毎年4月29日の大黒天会式では柴燈護摩火渡修行が催され、賑わいをみせるそうです。

本堂前の門も本瓦葺の堂々たるもの。
門をくぐると、桁行九間入母屋銅板葺の本堂と豪壮な庫裏の唐破風が力強い対比をみせています。

有名な「天弓愛染明王」は本堂左手おくのお堂に御座し、間近で拝むことができます。

拝観は有料ですが、仏像群がすばらしくご説明もいただけるので拝観をおすすめします。
拝観前に御朱印帳をお預けすれば、拝観後に揮毫の御朱印を拝受できます。(大黒天は原則書置のようです。)

【 善光寺 】

■ 定額山 浄智院 善光寺(甲斐善光寺/甲州善光寺)



公式Web
甲府市善光寺3-36-1
浄土宗 御本尊:善光寺如来
札所:甲斐百八霊場第1番、甲斐八十八ヶ所霊場第67番、府内観音札所第7番
朱印尊格:善光寺如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第1番印判

信玄公の戦のなかでもとくに名高いのが、信州・川中島周辺で上杉謙信公(長尾景虎)との間で数次にわたり展開された”川中島の戦い”です。
信玄公は第三次の戦いの後の永禄元年(1558年)、善光寺が兵火にかかるのを恐れて、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)と数々の寺宝を甲府に移し、信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人を開基として堂塔を建立されました。

江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所でもあり、現在に至るまで甲府を代表する仏閣として広く参詣客を集めています。

〔境内由来書より(抜粋)〕
「定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が 永禄年中 川中島の合戦の折 信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ 本尊阿弥陀如来その他 諸仏 寺宝 大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し 大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え 信濃善光寺開基本田善光公追慕の地 ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである」

現在の御本尊は、かつての善光寺の本尊の御前立像とされ、秘仏でしたが平成9年からは7年毎に御開帳されています。
公式Webでは現在の御本尊について「当山の御本尊は、建久六年(1195)尾張の僧定尊が、秘仏である信濃善光寺の前立仏として造立したものです。定尊は、如来の夢の告げを得て勧進に行脚し、四万八千余人もの寄進を得たといわれます。
本像は、いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として著名です。」と解説されています。

甲斐善光寺でも「お戒壇廻り」を体験することができます。(有料)

まずは、スケールの大きな山門に圧倒されます。
稀少な五間三戸の楼門で入母屋造銅板葺。外周の擬宝珠高欄が装飾性を高めています。

参道正面に威風を放つ本堂。
金堂とも呼ばれ、屋根の形が東西棟と南北棟でT字(撞木形)を形成する構造(撞木造)で、善光寺特有の様式とされます。
桁行じつに十一間。向拝三間。撞木造で奥行きがあり梁間も七間となっています。
一層唐破風、二層千鳥破風のように見えますが、実は仏殿ではけっこうめずらしい妻入りで、東日本では最大級の木造建築物とされています。
各種の組物、蟇股、木鼻彫刻、連子窓、三花懸魚などを配し、朱塗りの色調と相まってスケール感と装飾性を兼ね備えたつくりとなっています。

ともに宝暦四年(1754年)に焼失し、現在の山門は明和四年(1767年)、本堂は天明五年(1785年)の再建上棟と伝わります。


【写真 上(左)】 鳴き龍(授与所でいただいた絵ハガキより)
【写真 下(右)】 鳴き龍の御朱印
御朱印は本堂内の授与所で拝受できます。
見本が出ているのは「善光寺如来」の御朱印だけですが、金堂中陣天井の「鳴き龍」の御朱印も授与されており、申告すると奥から書置の御朱印をお出しいただけます。

オリジナル御朱印帳も頒布されています。
山梨県内では稀少な浄土宗寺院のオリジナル御朱印帳で、寺紋である丸に立葵と武田菱が表裏に配された渋いデザインですが、縦16cm×横11cmの小サイズがいささか残念です。

■ 塩山 向嶽寺
臨黄ネット



甲州市上於曽2026
臨済宗向嶽寺派本山 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:甲斐百八霊場第12番、甲斐八十八ヶ所霊場第74番
朱印尊格:観音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第12番印判
・中央に三寶印と札所本尊「観音菩薩」の揮毫。
右下に「甲斐百八霊場第十二番」の札所印。左上に「𥂁山」山号印と寺号の揮毫があります。御本尊は釈迦牟尼佛ですが、札所本尊は観音菩薩となっているようです。

臨済宗向嶽寺派本山の格式を有する名刹で、開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。
各地を遍され、永和四年(1378年)高森(塩山市竹森)の険しい地に庵居された禅師のもとを訪れる僧俗は引きも切らず、武田信成公は塩山の地を寄進し庵を建て、禅師を迎え入れて向嶽庵と称しました。
禅師はこの庵で僧俗の教化に努められ入寂されました。

以降も武田家歴代の帰依を受け、天文十六年(1547年)6月、信玄公は朝廷へ働きかけ、抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号を賜り、向嶽寺の寺号を定めたとされます。

境内掲示の沿革に「明治五年(1782年)に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、同四一年管長を置いて名実ともに別派独立の大本山となった。」とあるので、臨済宗のなかで一派をなしたのは明治になってからとみられますが、南禅寺からの別派独立ですから、寺格はすこぶる高いものと思われます。

向嶽寺は、甲府盆地の東北部にこんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
山号の「塩山」は「塩の山(志ほの山)」とも呼ばれ、この北側の山です。

山梨市の笛吹川沿いにある「差出の磯(さしでの磯)」とともに、古くから和歌に詠まれた景勝地です。
「志ほの山」は「さしでの磯」の枕詞で、さらに千鳥や八千代にかかっていくことが多いようです。

- 志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく -
(古今和歌集)

国宝の「絹本著色達磨図」は「八方にらみの達磨」「朱達磨」とも呼ばれ、わが国の達磨図の最高傑作として知られています。(現在は東京国立博物館に寄託)
室町時代建造の中門(総門)や漆喰製瓦屋根の「塩築地」など、貴重な建築物が残っています。
修復なった池泉式庭園も国の名勝に指定されています。

臨済禅の名刹らしく、整った山内には凜とした空気がただよいます。
敷居が高い感じですが、甲斐百八霊場の札所であり、御朱印は快く授与いただけました。

■ 妙亀山 広厳院
公式Web



笛吹市一宮町金沢227-1
曹洞宗 御本尊:聖観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第35番、甲斐八十八ヶ所霊場第16番
朱印尊格:南無釋迦牟尼佛 印判
札番:甲斐百八霊場第35番印判
・中央に三寶印と御本尊「南無釋迦牟尼佛」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第三五番」の札所印。左下に山号・寺号の印が捺されています。
御本尊は聖観世音菩薩ですが、朱印尊格は釈迦牟尼佛となっています。禅宗寺院の御朱印では、御本尊ではなく、宗派本尊の「南無釈迦牟尼佛」で授与される例がときどきみられます。

小田原最乗寺十四世の雲岫宗竜大和尚を開祖、塩田長者降矢対馬守を開基とし、寛正元年(1460年)に開山の曹洞宗の名刹。
甲斐四群(山梨、八代、都留、巨摩)の中央に位置するため、「中山」とも称されます。

寺伝によると、甲斐国守護武田信昌公が文明十九年(1487年)に寺領を寄進して以来、信縄公、信虎公、信玄公、勝頼公と武田家五代の庇護を受けたとされます。

信玄公は、弘治二年(1556年)に祖母崇昌院殿(信縄公妻)の菩提を弔うため寺領十貫文を寄進され、崇昌院殿を開基に準じたと伝わります。
信玄公と曹洞宗のつながりを示す寺院です。

甲府の大泉寺とともに甲斐曹洞宗の大元としての格式があり、県内八百三十寺の末寺を総括、最盛期には八十人の僧を擁する大寺であったと伝わります。

端正な鐘楼、質素な本堂、吊り下がる魚板など、禅寺らしい趣にあふれています。
御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 調御山 佛陀寺



笛吹市石和町市部864
臨済宗妙心寺派 御本尊:千手観世音菩薩
札所:石和温泉郷七福神(福禄寿)
朱印尊格:南無千手観音 直書(筆書)
・中央に三寶印と御本尊「南無千手観音」の揮毫。
右上に不明な印。左に「甲州石和宿 佛陀寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
※石和温泉郷七福神(福禄寿)の御朱印も授与されています。

文永六年(1269年)、わが国の普化宗の開祖法燈円明国師が、亀山天皇の勅令によって建立された禅寺。
天文年間(1540年代)、信玄公が恵林寺から歓堂宗活禅師を請じて臨済宗妙心寺派に改め、寺運はとみに栄えたと伝わります。(境内掲出の寺伝より)

御本尊千手観世音菩薩は行基の作、「調御山」の山号扁額は亀山天皇の御宸筆であると伝えられています。
境内には、幕末の侠客、竹居の安五郎こと吃安の墓があります。

普化宗は禅宗の一派で、建長六年(1249年)南宋に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目張参の4人の弟子を伴い帰国して伝来しました。
江戸時代には虚無僧の宗派として位置づけられ、幕府とも結びついたとされますが、明治に入り政府により解体され廃宗となったとされます。(戦後再興。尺八(虚鐸)文化の源流ともみなされている。)

信玄公の臨済宗妙心寺派や恵林寺への帰依を物語る寺院です。

こじんまりとした寺院ですが、石和温泉郷七福神(福禄寿)の札所を務められており、快く御朱印を授与いただけました。

■ 岩泉山 寂静院 光福寺
浄土宗寺院紹介Navi


甲府市横根町1110
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第2番、甲斐国三十三番観音札所第21番、第22番


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無阿弥陀佛 印判
札番:甲斐百八霊場第2番印判
・中央に御本尊阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座)と三寶印と「南無阿弥陀佛」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第二番」の札所印。左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所(第21番)の御朱印〕
朱印尊格:十一面観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第21番
・中央に札所本尊十一面観世音菩薩の種子「キャ」の御寶印と三寶印と「十一面観世音菩薩」の印判。
右に「甲斐 第二十一番」の札所印。左には山号・寺号の印と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所(第22番)の御朱印〕
朱印尊格:聖観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第22番
・中央に札所本尊聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印と三寶印と「聖観世音菩薩」の印判。
右に「甲斐 第二十二番」の札所印。左には山号・寺号の印と寺院印が捺されています。

甲斐源氏の祖、新羅三郎義光公が「後三年の役」で奥州で戦死した人々を弔うため、嘉保二年(1095年)、空源法印を開山として建立された寺院で、当初は寂静院ないし横根寺と称しました。
天文十六年(1547年)、信玄公が権少僧都円全を中興開山として再興されました。

慶長十年(1605年)、鎌倉から萬誉助往和尚を迎えて翌十一年知恩院直末に編入、寺号を光福寺と改め浄土宗に改宗しています。
甲斐百八霊場の札所であり、山内2つの観音堂は甲斐国三十三番観音札所に定められています。

■ 護国山 国分寺



笛吹市一宮町国分197-1
臨済宗妙心寺派 御本尊:薬師如来・阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第37番、甲斐八十八ヶ所霊場第17番
朱印尊格:薬師如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第37番印判
・中央に三寶印と札所本尊「薬師如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第三七番」の札所印。左に甲斐國分寺の揮毫と寺院印が捺されています。

笛吹市一宮周辺は、甲斐の国でも早くから拓けた一帯とされており、国分寺も聖武天皇の御代(701年~756年)にこの地に建立されました。

例にもれず甲斐の国分寺も戦国時代までには荒廃してしまいましたが、信玄公が寺領を寄進し復興を手掛けられ、勝頼公の時代に臨済宗に改宗されたと伝わります。

当寺は旧国分寺跡地上にありましたが、旧国分寺跡が国の史跡に指定されたため、現在地にしています。

奈良時代の作と伝わる薬師如来像は、33年に一度の御開帳です。

■ 柏尾山 大善寺
※ 現在、整理中です。

■ 龍湖山 方外院


公式Web
身延町瀬戸135
曹洞宗 御本尊:如意輪観世音菩薩
札所:甲斐百八霊場第98番、甲斐国三十三番観音札所第27番


〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:如意輪観世音菩薩 印判
札番:甲斐百八霊場第98番
・中央に札所本尊如意輪観世音菩薩の種子「キリク」の御寶印と「如意輪観世音菩薩」の印判。
右上に「甲斐百八霊場第九八番」の札所印と御詠歌の印。左下には山号・院号の印判と寺院印が捺されています。


〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:如意輪観世音菩薩 印判
札番:甲斐国三十三番観音札所第27番
・中央に如意輪観世音菩薩の種子「キリク」の御寶印と「如意輪観世音菩薩」の印判。
右上に「甲斐國廿七番」の札所印と御詠歌の印。左下には山号・院号の印判と寺院印が捺されています。

信玄公と観世音菩薩のゆかりを示す伝承は多くはありませんが、身延の方外院には御本尊如意輪観世音菩薩と信玄公の逸話が伝わっています。

方外院は貞治元年(1362年)、現・身延町の名刹で、南明寺の三世・梅林禅芳禅師によって本栖湖の湖畔に開創されました。山号「龍湖山」は本栖湖に由来するものです。

信玄公の治世、方外院は本栖湖畔(本栖村赤坂)にありました。
信玄公が三河に向けて軍勢を進める途中、寺のそばを通ると雷雨が激しくなり軍を進めることができなくなりました。
淡い火影を見つけてたどり着いたお堂には、微笑みをたたえた如意輪観音菩薩が御座されていました。
信玄公が観音様に祈願するとたちまち雷雨は収まり、軍は無事に三河へ向かうことができました。
信玄公はこの仏恩に謝するため、本栖の地頭・渡辺囚獄に命じてこの観音様を手厚く保護させました。

武田家滅亡の混乱のなか、この観音様も所在を転々とされましたが、慶長二年(1597年)下部・瀬戸の住民が観音様をお迎えしました。
子授けの霊験あらたかで「瀬戸の観音さま」として崇められ、甲斐三十三観音霊場の札所でもあったことから、多くの参拝者を集めます。
行基菩薩の御作とも伝わるこの観音様は、寄せ木法の技法や納衣の曲線などから、平安末期の作(南北朝との説もあり)とみられています。
秘仏ですが、毎年3月18日の御縁日には御開帳されます。

また、身延町資料身延の民話には「方外院本尊の如意輪観世音像は行基の作で、人肌と同じ体温があるという。仏門に入った武田信玄が寺に参詣しその話を聞き、須弥壇に上がって厨子の扉に手をかけようとした瞬間壇下へ投げ落された。信玄は額づいて無礼を詫び、武田菱の使用を許可し御朱印地七石を賜った。(下部町誌)」との逸話があります。

常葉川(本栖みち)沿いの古関集落から、常葉川支流の反木川を少し遡った山ぶかいところにあります。

寺号標には「龍湖山方外院瀬戸観音寺」とあり、 甲斐百八霊場、甲斐国観音霊場の札番が刻まれています。
四脚単層銅板葺で大棟に武田菱三連を置いた山門。すぐおくには三間一戸八脚の楼門で、こちらは大棟に「龍湖山」の山号を置いています。
楼門右横には立派な鐘楼が置かれ、本堂に至る前から豪壮な伽藍配置です。

向拝のない簡素な本堂ですが、山号扁額には青龍を配して存在感を放っています。
正面硝子戸には武田菱、壁面には「一見観音衆罪即滅」というありがたいお言葉が掲げられています。

硝子戸を開くと新たな展開が・・・。
堂内じたいは禅宗様の飾り気のすくないつくりですが、いくつか掲げられた派手やかな「瀬戸観音」の奉納提灯と、なにより正面上部に掲げられた絵馬が強く目を惹きます。

禅寺で観音霊場を兼ねる場合、御本尊は釈迦牟尼佛で別に観音堂があって、観音霊場の札所本尊はそちらに御座し、本堂はシックで観音堂は華やかな例が多いです。
しかし、こちらは御本尊が観音様で札所本尊も兼ねられるため、このような本堂と観音堂が混在するような雰囲気になっているのかと思います。

絵馬は著名なものです。
横19.42メートル、縦2.24メートルにも及ぶ大額で、「方外院千匹馬の大額」と称され、町の有形文化財に指定されています。
総桐材造の額に馬千匹が描かれ、前方の馬には着色が施されて華麗な印象な額です。

安政の飢饉の折、御本尊の信仰篤い老翁に「馬の霊が飢えて稲を食する故、各地より一人一匹の馬を奉納せよ」との霊夢がくだり、馬の奉納にかえて馬の大額を奉納したところ、翌年より豊作となったと伝わります。

絵馬は茨城県出身の渡辺天麗の作で、額に記された奉納者は甲府在住の者までに及び、広範囲に信仰を集めていたことがわかります。

■ 海雲山 寿徳寺




山中湖村平野147
臨済宗妙心寺派 御本尊:地蔵菩薩
札所:郡内三十三番観音霊場第10番



〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:南無開運地蔵尊 直書(筆書)
・中央に三寶印と御本尊「南無開運地蔵尊」の揮毫。
右上に開運地蔵尊の御影印。左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


〔郡内三十三番観音霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無聖観世音菩薩 直書(筆書)
札番:郡内三十三番観音霊場第10番印判
・中央に三寶印と札所本尊「南無聖観世音菩薩」の揮毫。
左上に「観音霊場郡内第十番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
※郡内三十三番観音霊場第11番山中観音堂の御朱印も、こちらで拝受できます。

山中湖畔にある寺院。郡内三十三番観音霊場の巡拝で伺いましたが、境内の由緒書によると信玄公とのゆかりが深いようです。

境内の由緒書から引用します。
「往古は真言宗にして、弘法大師・空海上人諸国遍歴の砌り、富士の霊山に祈願修法せし折り、営みし草庵を平野坊と称したのが起源と伝えられる。文応元年(1260年)鎌倉五山第一建長興国禅寺より高僧美山玄誉禅師来り山紫水明のこの地に禅寺を建立し、海雲山寿徳寺を開山した。永禄四年(1561年)武田信玄公により、当寺を甲斐・駿河・相模の三国境に位置した要の地であるため国境祈願所と定められ甲州金三十枚の寄進を受ける。本尊地蔵菩薩は信玄公奉納と伝えられ通称、開運地蔵尊と云われています。国境にあるため数度の戦乱には常に兵舎の要に供せられ、特に小田原城に北条氏政攻略のときには後陣を置いたとされている。」

信玄公は、甲相駿三国同盟、甲相同盟など今川氏や北条氏と同盟を結んでいる時期が長く、駿河や相模への侵攻はさほど多くはありません。

信濃侵攻を終えた信玄公は永禄十一年(1568年)から駿河今川領への侵攻を開始し(江尻・駿府方面)、永禄十二年に第二次侵攻(富士郡・伊豆方面)、第三次侵攻(小田原攻め)を経て永禄十三年(1570年)には早くも駿河を完全制圧しました。

その侵攻ルートは、駿河方面へは主に富士川沿いの駿州往還(甲州往還)ないし東河内路、相模方面へは甲州街道ないし丹沢越えで、甲斐と駿河を接する旧鎌倉往還の籠坂峠越えのルートは採られていないようです。
ただし、信虎公の時代には今川氏とのあいだで、籠坂峠を介した戦闘がいくつか記録されています。

強豪今川氏の駿河との国境だけに、国境警備はことに厳重だったと思われ、上記の寺伝にも「小田原城に北条氏政攻略のときには後陣を置いた」とされています。
また、武田家印判状なども所蔵されてます。

富士東麓に寺社は多くなく、しかも信玄公とのゆかりが伝わる寿徳寺の存在は貴重です。

山中湖の湖尻、平野はこれまで何度となく通過していますが、この地にこのような由緒をもつ名刹があるとは知りませんでした。
郡内三十三番観音霊場の札所ですが、この霊場の知名度は高いとはいえず、山中湖で御朱印をいただけるということもほとんど知られていないかと。

禅宗の名刹らしく整った境内。
国際的なプリマドンナとして有名だった三浦環の墓所もあります。

郡内三十三番観音霊場の御朱印授与は札所ごとにまちまちですが、こちらは快く授与いただけました。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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■ Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

2020/11/26 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

2020/04/30 UP
つづきです。

〔 信玄公の信仰 〕
つぎに信玄公が信仰されていた尊格という視点から、まとめてみたいと思います。
『甲陽軍鑑』には神社仏閣、尊格についての記述が数多くありますが、まだ読破していないので、現時点で情報がとれている寺院についてのみです。
わかり次第、追記します。

【 山梨岡神社 】

■ 山梨岡神社



山梨県神社庁資料
笛吹市春日居町鎮目1096
御祭神:大山祇神、高龗神、別雷神
旧社格:式内社(小)論社、郷社
授与所:境内社務所(TELにてお伺い)
御朱印揮毫:山梨岡神社

山梨岡神社は古代に創建され、式内社論社に比定される甲斐国有数の古社です。
御祭神は、大山祇神、高龗神、別雷神の三柱で、当初は背後の御室山そのものが神として崇められていたともみられます。

山梨県神社庁資料には「人皇十代崇神天皇の御代、国内に疫病の流行や災害が多発し、これを憂ひた天皇の勅命により背後の御室山中腹に創祀される。後十三代成務天皇の御代に麓の山梨の群生林を切り開いて現在地に遷座され山梨岡神社と号す。」とあり、「山梨」の地名発祥の地と伝えられます。
旧社地には御室山古墳があります。
御室山で行われる山焼き「笈形焼」は、日本有数の規模をもつそうです。

「古くは山梨明神・山梨権現・日光権現とも称せられ武田家累代の祈願所として篤く崇敬された。」「古来より伝はる太々神楽は、武田信玄公出陣の際戦勝を祈願して奉納された神楽として伝へられてゐる。」(山梨県神社庁資料)とあり、武田家や信玄公の尊崇の篤さがうかがわれます。

武田軍出陣の際に戦勝祈願の社参がなされたという記録が複数あり、躑躅ヶ崎館の氏神とする史料もあるようです。
笛吹市の資料にも「武田家累代の氏神として崇拝され、武田信玄が出陣のたびに、戦勝祈願をしたといわれています。」とあります。

当社には、「虁(き)ノ神」という神獣の像が祀られています。
「状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。」(『山海経』)
虁ノ神は、雷神、水神、魔除けの神として信仰を受け、徳川将軍家から夔ノ神の神札が大奥や御三家、旗本らに差し出されたという記録があり、夔ノ神信仰が広まったとみられています。

また、「山梨(やまなしの)岡」は、古来名所歌枕として知られ、
- 甲斐かねに咲にけらしな足引きの やまなし岡の山奈しの花 - 能因法師
という歌が残っています。

上の由緒を裏付けるように、信玄公ゆかりの宝物や行事がいまも残ります。
「武田家より譲り受けた『社参状』は、諏訪大社上社の神主あてに武田信玄が出した文書です。『穴山梅雪等が宝鈴を鳴らすために諏訪神社上社を訪れる』といった内容が書かれています。」「社参状とともに武田信玄から譲り受けた『椀』2個も保管されています。椀には武田菱(武田家の家紋)等が描かれています。」「『禁制を書いた板』には御室山でかってに木を切ったりする事を禁止すると書かれています。」(以上、笛吹市資料より)

また、当社に伝わる「太々神楽」(だいだいかぐら)二十四種の舞のうち、二十番目の「四剣の舞」は”信玄公出陣の神楽”とも称され、信玄公が戦さの勝利を願い奉納させた神楽だといわれています。(笛吹市資料)

国道140号からおくまった御室山の山裾に鎮座します。
参道右手に天然記念物「山梨岡神社のフジ」の藤棚。
参道橋を渡ると空気が変わり、式内社(論社)ならではの神さびた雰囲気が漂っています。

正面に桁行五間入母屋造桟瓦葺の拝殿、右手に神楽殿、その裏手には御室山信仰を思わせる一画があります。
本殿は室町時代末の建立とそれ国の重要文化財に指定されています。桁行二間の隅木入春日造杮葺、片流れ向拝付とのことです。

御朱印は境内社務所に連絡先が書いてあったので、TELするとご神職においでいただけ授与いただけました。
ご多忙のところ、ありがとうございました。

【 八幡神 (八幡大菩薩)】
八幡神は、源義家公が石清水八幡宮で元服して自らを八幡太郎と称されたことから清和源氏の崇敬が厚く、甲斐源氏の多くも氏神として祀りました。
Vol.1でご紹介した武田八幡宮や(甲斐國総社/宮前)八幡神社はその好例ですが、山梨市に鎮座される大井俣窪八幡神社もまた、武田家とのゆかりが深いお社です。

【 (大井俣)窪八幡神社 】
山梨県神社庁資料
 
 
 
公式Web
山梨市北654
御祭神:誉田別尊(中殿)、足仲彦尊(北殿)、息長足姫尊國魂大神命(南殿)
旧社格:式内社(小)論社、県社
元別当:八幡山 神宮寺(山梨市北)
授与所:境内社務所(不定期、事前問合せがベター)
朱印揮毫:大井俣神社 窪八幡宮 直書(筆書)〔令和元年5月拝受〕
朱印揮毫:大井俣 窪八幡神社 直書(筆書)〔平成28年9月拝受〕

社伝によると、清和天皇の勅願により貞観元年(859年)、宇佐神宮の八幡三神を音取川(今の笛吹川)の中島(大井俣)の地へ勧請、水害により現社地に遷座されました。
甲斐源氏、ことに本流武田家代々の氏神として崇敬され社殿が整えられました。

信虎公、信玄公の崇敬も篤く、信虎公は天文八年(1539年)の厄年に鳥居を寄進し、その際には信玄公が当社に代参されています。
天文十四年(1545年)には直筆とされる歌仙絵(板絵著色三十六歌仙図)を奉納、翌天文十五年には三条夫人も社参されています。
本殿の金箔は弘治三年(1557年)の川中島合戦に際して信玄公が捺させたものと伝わり、木造狛犬六駆、鐘楼も信玄公の寄進・再建によるものとされています。

当社は文化財の宝庫として知られています。
一の鳥居(室町後期、木造両部鳥居、重文、現存する国内最古の木造鳥居)
神門(室町後期、四脚門切妻造檜皮葺、重文)
摂社若宮八幡神社本殿(室町中期、三間社流造檜皮葺、重文)
拝殿(室町後期、桁行十一間切妻造檜皮葺、重文)
本殿(室町後期、桁行十一間流造檜皮葺、重文)
とくに本殿は三間社流造の三社を間に一間をおいて横に連結した形状で、わが国に現存する最大の流造本殿とみられているそうです。

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八幡神が武田軍の軍陣で祈願された例として、「三方ヶ原の戦い」前の信玄公自作とされる歌が知られています。
元亀三年(1572年)秋、西上の軍を起こした信玄公は伊那口から徳川領の遠江に侵入し、徳川方の本多・内藤偵察隊を「一言坂の戦い」で一蹴。
つづいて要衝・二俣城を落とし、家康公が拠る浜松城を素通りして西上をつづけるかの動きをとりました。

『甲陽軍鑑』によると、二俣城進発の際、信玄公はつぎのような歌を八幡神に捧げたとされています。
- ただたのめたのむ八幡の神風に 浜松が松は倒れざらめや -

武田軍の浜松城攻めを想定していた家康公は、城の目の前を敵軍が通過するという事態に直面しました。
浜松城籠城を唱えた家臣もいましたが、家康公は「たとへば人あってわが城内を踏通らむに、咎めであるべきや、いかに武田か猛勢なればとて、城下を蹂躙しておし行くを、居ながら傍観すべき理なし、弓箭の恥辱これに過ぎじ、後日に至り、彼は敵に枕上を踏越されしに、起きもあがらでありし臆病者よと、世にも人にも嘲られむこそ、後代までの恥辱なれ、勝敗は天にあり、兎にも角にも戦をせではあるべからず」との名言を発し、出撃を命じたと伝わります。(→東照宮御実紀附録巻二(国会図書館資料のP.28))

三方ヶ原の台地にのぼった武田軍は、徳川・織田連合軍の進撃を察知すると、やにわに軍の向きを変え、悠々と魚鱗の陣を敷いて徳川・織田連合軍を迎え撃ったとされます。
連合軍は武田軍に撃破され、浜松城に退いたというのが、家康公の数少ない敗戦といわれる「三方ヶ原の戦い」です。
「徳川家康三方ヶ原戦役画像(「顰(しかみ)像」)」(徳川美術館所蔵)は、家康公が三方ヶ原の敗戦直後に自戒のため描かせたとする伝承があります。
「慢心を戒めるために敗戦時の自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」という人生訓は、この絵とともに後世に広く伝えられ、信玄公の戦さの強さもまた、人口に膾炙することとなりました。

信玄公ゆかりの八幡神社は県内外にまだまだ事例があると思いますので、わかり次第追記します。

【 諏訪明神 】
信玄公の諏訪明神信仰をもっともよく示すのは、武田家の重宝であり信玄軍の軍旗である「諏訪神号旗」(御旗)でしょう。
「諏訪神号旗」は、「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられたとされ、「諏訪法性旗」「諏訪明神旗」「諏訪梵字旗」と呼称される3種の旗の総称です。
なかでも「諏訪法性旗」は信玄公直筆と伝わります。
現在、「諏訪神号旗」甲州市塩山の雲峰寺、恵林寺などに所蔵されており、詳細は各々の記事をご参照願います。

側室とされた諏訪御料人は、諏訪大社上社の大祝、諏訪頼重公の息女であり、諏訪御料人が産んだ世継ぎの勝頼公もこの血筋を継いで、武田家の家督相続以前は諏訪四郎勝頼と称されました。
信玄公と諏訪大社大祝家はこのような結びつきもあります。

Web上では、信玄公が諏訪大社上社に度々戦勝祈願をしたという記事が複数みつかりますが、いまのところ史料が見当たらないので、確認できたら追記します。
(諏訪大社の御朱印は、別編の「武田勝頼公編」でのご紹介を考えているので、ここではふれません。)

2019年5月、長野県立歴史館は永禄十年(1567年)、信玄公が諏訪大社内にあった寺院に宛てて新たな寄付を約束した公的な文書(朱印状)の入手を公表しています。
寺院名の確認ができないのですが、この寺院が諏訪大社と深い関係にあるとすると、信玄公のお諏訪様信仰を間接的に裏付けるものになるかと思います。

■ 白華山 慈雲寺
公式Web
 
 
長野県諏訪郡下諏訪町東町中606
臨済宗妙心寺派 御本尊:千手千眼観世音菩薩
札所:伊那諏訪八十八ヶ所第18番、諏訪郡百番霊場西21番
朱印尊格:圓通閣 書置(筆書)
札番:なし
・中央に御本尊、千手千眼観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「圓通閣」の揮毫。
右上に扁額にちなむ?印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

正安二年(1300年)、諏訪大社下社大祝金刺満貞の願意を受けて、来朝僧一山一寧国師により開山された下諏訪の名刹で、「下社春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺」という説もあります。
寺伝によると、天文六年(1537年)の火災の折、当時の住職天桂玄長禅師は甲斐の恵林寺住職も兼務され信玄公の帰依を受けており、その縁により信玄公の支援復興がなされたため、信玄公が当寺の中興開基とされています。

また、信玄公が川中島合戦に向かう際に当寺を訪れ、矢を除ける念力のある石「矢除石」の御札を授かったという伝承もあります。
信玄公と諏訪大社との間接的なつながりを示す寺院とみられます。

■ 南宮大神社
山梨県神社庁資料
 
 
韮崎市大草町上條東割790
御祭神:大己貴命、事代主命、建御名方命、金山彦命
旧社格:郷社
授与所:若宮八幡宮社務所(韮崎市若宮1-4-14)
朱印揮毫:南宮大神社 直書(筆書)

韮崎市大草町鎮座の南宮大神社も信玄公ゆかりの神社とされています。
現地掲示の由緒書によると「諏訪明神すなわち建御名方命を主祭神とし、大己貴命・事代主命・金山彦命を配祀する」「社記によれば、新羅三郎義光が甲斐任国の時崇敬して社壇を造営したといい、武田太郎信義、その嫡男一条次郎忠頼も篤く崇敬し、武田一条氏が武川地方に封ぜられると、当社を産土神として崇敬し、その支族の武川衆諸氏も協力して当社に奉仕した史料を伝えている。また武田信玄は当社の禰宜(神主)に対し、 府中八幡宮に二日二晩参篭し、武田家武運長久と領内安穏の祈祷をすることを命じた。」

府中八幡宮は甲斐の総社的な神社で、こちらへの参篭依頼は直接的に諏訪信仰を示すかどうかは微妙ですが、信玄公と韮崎の諏訪系神社の交渉を示すものではあると思います。

■ 諏訪南宮大神社
山梨県神社庁資料
笛吹市境川町寺尾4023
御祭神:建御名方命、金山彦命
旧社格:村社
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は非授与の模様です。

山梨県神社庁の資料によると、治承年間(1177年~1181年)に沙弥厳尊が創建、その後曽根氏が代々造営し、天正年間までは二社別殿にて近在第一の社として栄えました。
天正以後に古宮の地より現社地に遷られました。

曽根氏は清和源氏・源清光公の子である曾禰(曽根)禅師厳尊を祖とし八代郡曾禰に拠った名族で、曽根内匠(昌世)は信玄公の側近、奥近習六人衆に数えられていますが、その嫡子・曽根周防守は永禄八年(1565年)の義信事件に加担した科で断罪されています。
曽根内匠(昌世)は武田家滅亡後も存命し、武田遺臣が家康公に提出した「天正壬午甲信諸士起請文」のまとめ役を果たしたとみられています。

武田家の信仰篤く、本殿扉には武田逍遙軒信網自筆寄進の松杉桜菊其外四季の草花を配した本殿扉絵があります。
信玄公の川中島戦祈願状一章は、本殿扉絵とともに市の文化財に指定されています。

■ 松原諏方神社
公式Web
長野県小海町大字豊里4319
御祭神:建御名方命、事代主命、下照比売命
旧社格:郷社
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

天智天皇600年代の御宇の創立と伝わる中信・松原湖の古社で、上社と下社からなります。
信玄公の崇敬篤く、何度も信玄直筆の祈願文が届き祈願し出陣したと伝わります。
上社境内には、国の重要文化財「野ざらしの鐘」(県下最古)があり、「武田信昌(信玄公の曽祖父)が佐久地方に侵入した際の落合慈壽寺からの戦利品で、松原諏方神社に奉納した物です。」(社伝より)

■ 船形神社
山梨県神社庁資料
北杜市高根町長沢2606
御祭神:建御名方命
旧社格:郷社
※未参拝です。参拝次第、追記します。
北杜市高根町には当社と小池の船形神社があり、小池の船形神社は本務社の諏訪神社(北杜市高根町蔵原1844 )で拝受できるようですが(要事前連絡)、当社については御朱印情報は得られていません。

北杜市高根町あたりは、武田軍が信濃侵攻の折に通過したエリアですが、高根町長沢には信玄公が武運長久を祈願し神領二石八斗を寄進したという(山梨県神社庁資料)、船形神社が鎮座しています。
御祭神は建御名方命、以前は諏訪明神と呼ばれたとあり、この寄進も信玄公の諏訪明神への信仰を物語るものとみられています。

■【 浅間神社 】

■ 冨士御室浅間神社
公式Web
 
 
 
 
富士河口湖町勝山3951(里宮)
御祭神:木花開耶姫命
旧社格::県社 別表神社
授与所:里宮境内社務所
朱印揮毫:里宮:冨士御室 直書(筆書)
朱印揮毫:二合目本宮:北口二合目本宮 直書(筆書)

文武天皇三年(699年)藤原義忠により霊山富士二合目に奉斉され、富士山最古の社と伝わります。富士噴火のため焼失し、その後しばしば再興・増設されました。
天徳二年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖南岸に里宮が創建され、中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展したとされます。

戦国期には武田家三代に渡り崇敬を受け、信玄公直筆の安産祈願文をはじめ多くの宝物がいまも所蔵されています。
信玄公直筆の安産祈願文は、信玄公が武田・北条・今川の三国同盟のため北条氏政に嫁がせた長女黄梅院の安産を願って、弘治三年(1557年)当社に奉納された願文です。
また、富士河口湖指定文化財の武田不動明王(木像)は、信玄公の目刻と伝わります。

黄梅院は母を三条夫人とし、天文二三年(1554年)12歳で北条氏康公の嫡男・氏政公に嫁ぎ、氏政公との間に北条家五代目当主、氏直公をもうけています。
永禄十一年(1568年)12月、信玄公の駿河侵攻を受けて三国同盟は破綻し、黄梅院は甲斐に送り返されました。
甲斐では甲府の大泉寺住職の安之玄穏を導師に出家したともいわれ、永禄十二年(1569年)6月17日、27歳で逝去されました。

信玄公は巨摩郡竜地(現・甲斐市龍地)に黄梅院の菩提寺黄梅院を建立して葬され、墓碑が現存しています。
夫の氏政公は武田氏と再び同盟した後の元亀二年(1571年)、箱根早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬したと伝わります。

■ 北口本宮冨士浅間神社
公式Web
 
  
 


 
【写真 上(左)】 信玄公再建と伝わる「東宮本殿」
【写真 下(右)】 冨士登山道吉田口(北口)

 
【写真 上(左)】 諏訪神社
【写真 下(右)】 諏訪神社の御朱印

富士吉田市上吉田5558
御祭神:木花開耶姫命、彦火瓊瓊杵命、大山祇神
旧社格::県社 別表神社
授与所:境内社務所
朱印揮毫:北口本宮冨士浅間神社  北口本宮 直書(筆書)
朱印揮毫:諏訪神社:諏訪 直書(筆書)

景行天皇四0年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りして創建と伝わります。
天応元年(781年)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦七年(788年)、大塚丘の北方に社殿を建立。これが現社地で、浅間大神をお遷しし大塚丘には日本武尊をお祀りしました。

平安期以降、山岳信仰が広まり、各地で修験道が盛んになるにつれ当地でも富士講が組織されました。
大宝元年(701年)、初めての富士登山者は修験道の開祖とされる役小角(神変大菩薩)とされ、富士講の開祖とされる藤原角行師は天正五年(1577年)に登山されています。

貞応二年(1233年)北条義時公が造営し、永禄四年(1561年)に信玄公が再建されたという社殿「東宮本殿」が現存します。
信玄公は当社に安産や病気平癒を祈願するなど崇敬篤く、川中島の合戦の際には「東宮本殿」を再建され戦勝を祈願したと伝わります。

境内社の諏訪神社は「勧請された年代が明らかになっていない大変古いお社であり、この地域の元々の土地神とされています。当社周辺地域の字(あざ)名も「諏訪の森」と呼ばれており、さらに当社の祭典「吉田の火祭り」は諏訪神社の例祭でもあります。」(公式Webより)
こちらの諏訪神社と信玄公とのゆかりは、現在のところ情報がとれておりません。

信玄公は、調略活動に「透波」や「三ツ者」といった”忍びの者”を使いましたが、領内の山岳信仰の拠点の山伏や御師も登用したとされます。
吉田エリアの浅間神社は「富士御師」を組織していたので、単なる信玄公の祈願信仰の対象のみならず、調略活動とも切り離せないものだったかも知れません。

※甲斐国一宮 浅間神社については、Vol.2でご紹介しています。

■【 飯縄大権現 】

飯縄大権現とは、信濃国上水内郡の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰の本尊で、神仏習合の尊格です。
戦勝の神として、足利義満公、細川政元公、上杉謙信公、武田信玄公など中世のそうそうたる武将に深く信仰されました。

飯縄山に本拠する修験は「飯縄修験」と呼ばれ、「千日太夫」と称する行者が代々その長を務めました。
信玄公の時代の「千日太夫」は、信玄公により安曇郡から移された仁科氏が務めていたとされます。

仁科氏は、信濃国安曇郡の名族で、さまざまな流れが伝わっています。
戦国期の当主で森城主、仁科盛能(道外)は信濃守護・小笠原長時と縁戚関係にあり、当初は小笠原氏や村上氏と連携して武田に抗していました。
天文十七年(1548年)の塩尻峠の戦い(信玄公と小笠原長時の戦い)の前に戦線離脱して小笠原氏と袂を分かち、天文十九年(1550年)(天文二二年とも)に仁科上野介を介して武田氏に臣従しています。(『高白斎記』)

以降、仁科氏は武田方に帰属しましたが、永禄四年(1561年)第四次川中島の戦いの折の一族の内紛などで上杉氏についたとする説もあります。
このあたりの動静は不詳のようですが、仁科盛能(道外)、盛政と家督は嗣がれ、盛政の代で仁科氏嫡流は断絶したという説があります。

信玄公は、この仁科氏の名跡を自らの五男に継がせました(仁科五郎盛信)。
なお、「仁科氏系譜」によると、仁科盛政の子、盛孝と盛清は信玄公の許しを経て「千日太夫」の養嗣となり、天正六年(1578年)に勝頼公から「仁科勘十郎」を世襲名として与えられ、神官として明治維新まで存続したとされます。

すこしく話がとびますが、仁科五郎盛信は、武田家の戦いを語るうえで欠かせない人物なのでご紹介します。
仁科五郎盛信は、弘治三年(1557年)、母を油川夫人とし信玄公五男として生まれました。
油川氏は武田氏一門で、油川夫人は油川信守の息女とされます。
信玄公の側室として嫁し、盛信のほか葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)をもうけました。

永禄四年(1561年)、信玄公の意向を受けて仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継いで、勝頼公の時代も仁科一族を率いて信越国境を守りました。
勝頼公と織田・徳川勢力との対立が激化すると、居城の安曇・森城のほかに伊那の高遠城主を兼任しました。
天正十年(1582年)2月、織田軍による甲州征伐が始まり、盛信が守る高遠城は織田勢五万の大軍に包囲されました。
攻将、織田信忠は盛信に降伏を勧告しましたが、盛信はこれを拒否。高遠城は織田軍の猛攻を受け、盛信は奮闘の後、自刃したと伝わります。

享年26。墓所は高遠の桂泉院、高遠城鎮護の寺としても伝わる古刹です。

武田家の終焉に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続くなか、高遠城において最後まで奮戦、討死した盛信の戦いは、武田武士の気概を示すものとしていまに伝えられています。

信玄公の飯縄信仰を伝える史跡として、長野市富田の飯縄神社(皇足穂命神社)があります。
全国に祭祀されている飯縄神社の惣社で、奥宮は飯縄山頂上に鎮座します。

公式Webに詳しい由緒書が掲載されていますので、武田家関連の箇所を抜粋引用します。
「飯縄大明神は代々千日大夫と通称した修験者によって奉仕されていました。戦国争乱中の武将からも厚く信仰され、弘治三年(1557年)芋井の葛山城(長野市)を攻略した武田晴信(信玄)は、飯縄大明神の神官千日大夫に対し安堵状を与え、武田家の武運長久を祈らせました。また功績によって、元亀元年(1570年)には、芋井を中心に沢山の所領を寄進しております。また伝承では元亀頃飯縄神社里宮を荒安村に造営したといわれています。天正八年(1580年)閏三月、武田勝頼は千日大夫あての朱印状をもって、里宮の造営と遷宮を行っております。このようにして飯縄大明神の里宮が荒安村にでき、千日大夫もまた居を据え、門前百姓も定まりました。」

■ 飯縄神社(皇足穂命神社)
公式Web
長野県長野市富田380
御祭神:大己貴命、事代主命、建御名方命、金山彦命
旧社格:式内社(小) 郷社 
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は奥宮のものも授与されているようですが、期間限定とのWeb情報があります。

■ 金剛山 普門寺
公式Web
相模原市緑区中沢200
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:武相卯歳四十八観音霊場第25番
※授与されている御朱印は武相卯歳四十八観音霊場第25番のみとのこと。(御開帳時以外も授与。)


〔武相卯歳四十八観音霊場の御朱印(専用納経帳)〕
朱印尊格:聖観世音菩薩
札番:武相卯歳四十八観音霊場第25
・見開き綴じ込みのタイプです。右が御朱印、左が札所案内です。
中央上に聖観世音菩薩の種子「サ」の種子と「聖観世音菩薩」の揮毫。
右上に「武相第二十三番」の札所印。左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

相模原市中沢の普門寺も信玄公の飯縄信仰を伝える宝物を所蔵しています。
普門寺は天平年間(729〜748年)、行基により創立されたと伝わる古刹で、「額に武田菱の紋所を掲げ、信玄公に篤く尊信せられ、当山の栄隆を計らんがため信州飯綱山より持ち来たりて奉祀せらるると伝えられる『飯縄大権現』の尊像」(寺伝より)がお祀りされています。

地元中沢村の鎮守神の別頭寺院として、「中沢の普門寺」と称され親しまれてきたとのことです。


【写真 上(左)】 飯縄大権現堂の参道
【写真 下(右)】 飯縄大権現堂からの眺め

飯縄大権現堂は、観音堂左手奥の石段百四十七段を登った高みにあり、津久井湖方面の眺望が見事です。
このあたりは、甲斐の郡内から流れ下る相模川(桂川)が相模原に入るところで、戦略的にも要衝であった感じがします。


【写真 上(左)】 飯縄大権現堂
【写真 下(右)】 飯縄大権現堂の向拝部

御神木のスダジイなど、うっそうと繁る木立のもと、桁行四問、梁間三問の拝殿、一間四面の本殿からなる権現造銅板葺のお社が鎮座します。
拝殿の軒は深く、向拝柱は軒下に収まっています。
向拝脇の軒下には奉納された天狗と烏天狗のお面が掛けられ、正面桟唐戸の上には扁額(解読できず)が掲げられています。

飯縄大権現の尊像は、火焔を背負い白狐に乗られる飯縄大権現のお姿ですが、不動明王の顔立ちをされ、額には武田菱の紋所を掲げられています。
信玄公が信州飯綱山よりに持ち来たりて奉祀せらるると伝わり、信玄公の尊信篤かった尊像と伝わります。

戦の神、農業の神、繭の神として信仰され、一月十四日の例祭日には繭玉が奉納され、今日でも諸願成就の神様として信仰されています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 仁王門

普門寺は、相模原の西端、津久井湖の北側の複雑な地形の場所にあります。
山門から観音堂、本堂にかけては南傾の明るい境内です。

参道は玉垣に囲まれ、親柱は寺号標と「武相卯歳観音霊場 第二十五番目札所」の札所碑を兼ねています。
参道石段正面の仁王門は三百年前頃の造営で、三門一戸八脚の単層門で山号「金剛山」の扁額。
照りの強い堂々たる屋根の大棟には金色の武田菱が輝いています。
両脇間に御座す二体の仁王さまは、運派系の仏師、全慶の作といわれる力感あるお姿です。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 改修中の観音堂

仁王門の正面に観音堂、右手に本堂がありますが、観音堂は参拝時大がかりな改修中で仮囲いが組まれ、そばには近寄れませんでした。
掲示によると「本事業は2023年4月に行われる『第23回武相卯歳観音御開扉』に合わせた整備完了を目指します。」とのこと。

観音堂は市の登録有形文化財で、桁行三間、梁間四間(手前一間外陣、奥三間内陣)の宝形造で、見るからに観音堂の佇まい。
向拝は流れ向拝のように見えますが、一文字葺き簑甲と思われる端部の仕上げが印象に残ります。
水引虹梁両端に彫刻の木鼻と上に斗栱、中備に板蟇股、身舎斗間には間斗束らしきものが見えます。

観音堂御本尊の木造の聖観世音菩薩立像は、行基の作とも伝えられ、市の指定有形文化財です。
神奈川県に残るすぐれた藤原彫刻の一つともいわれ、「武相卯歳四十八観音霊場第25番」の札所本尊です。原則として卯歳の総開帳以外は秘仏とされているようです。

観音堂右手の本堂は桁行七間の寄棟造(入母屋造平入?)で、宝形造の観音堂とバランスのとれた対比を見せています。
御本尊の不動明王は江戸時代の作と伝えられ、背後山上の飯縄大権現の本地仏です。

庫裡玄関には武相観音霊場の汎用御朱印帳用の書置が用意されていましたが、わたしは専用納経帳で拝受しているので、奥から専用用紙のものをお出しいただきました。
なお、授与されている御朱印は、武相卯歳四十八観音霊場第25番のみとのことです。

■ 加賀美山 法善護国寺
公式Web
 
 
 
南アルプス市加賀美3509
高野山真言宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:甲斐百八霊場第88番、甲斐八十八ヶ所霊場第88番
朱印尊格:阿弥陀如来 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第88番印判
・中央に御本尊、阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「阿弥陀如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第八八番」の札所印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

若草町加賀美(現・南アルプス市加賀美)にある法善護国寺(法善寺)は武田八幡宮の元別当寺で、武田氏の始祖、武田信義公の弟加賀美遠光公の館跡とされ、甲斐源氏(信濃源氏)とのゆかり深い高野山真言宗の古刹です。
弘法大師霊場の甲斐八十八ヶ所霊場では第88番の結願所となっており、甲斐国内の真言宗で重要な地位を占めていたことが。

こちらには寺宝として信玄公の祈願文が所蔵されています。
これは元亀三年(1572年)4月の祈願文で、「今年一年間は越軍(上杉謙信軍)が、信濃、上野の二国に兵を動かすことのないように」という祈願で、本願成就の暁には「法華経百部の読経をもって飯縄大権現に献じます」と結ばれているそうです。

元亀三年は信玄公が西上の兵をあげられた年です。
過ぎる元亀二年(1571年)10月、信玄公は北条氏政公と和睦し、武田・北条の同盟が復活しました。
西上にあたっての信玄公の懸念は上杉の動き(出兵中に背後をつかれること)だけになり、そのような状況を受けての願文とみられています。
「本願成就」は「上洛」をさし、これを「信玄公上洛の願文」とみる説もあります。

大寺の風格をもち、本堂、不動明王殿のほか諸堂を擁します。
甲斐百八霊場第88番の札所で、御朱印は雰囲気のある庫裡で快く授与いただけました。

■【 戸隠大権現 】

■ 戸隠神社
公式Web
長野県長野市戸隠3690
御祭神:天手力雄命
旧社格:旧国幣小社 
※以前参拝していますが、御朱印は未拝受です。参拝次第、追記します。

御神体を戸隠山とされると伝わる北信の古社。
ふるくから霊場として全国に知られ、平安末期末期の『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とあります。
中世以降は、密教と神道の神仏習合の戸隠山 勧修院 顕光寺として隆盛、多くの修験者や参詣者を集めました。

戦国期には武田、上杉両軍の戦の影響が大きく、混乱を招いたと伝わります。
明治の神仏分離により、戸隠山 顕光寺は寺を分離して神社となりいまに至ります。

当社には信玄公直筆とされる「奉納祈願文(武田晴信願状)」が宝物として所蔵されています。
これは永禄元年(1558年)に奉納された「信濃一円の掌握と上杉の滅亡を戸隠中院大権現に祈願した願状」とされます。

■【 愛宕権現 】
愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号で、イザナミを垂迹神、(勝軍)地蔵菩薩を本地仏とします。
明治の神仏分離前は、軍神、塞神、天狗信仰が習合した複雑な尊格で、戦国時代にはことに(本地?)将軍地蔵菩薩が軍神とされ信仰されていたようです。

愛宕権現の総本社、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社(江戸期以前は白雲寺)はその若宮に火の神であるカグツチ(迦遇槌命、火之迦具土神)を祀り、火伏せ・防火の神として尊崇を集め、全国の愛宕権現も火伏せ・防火の神として祀られる例が多いです。

愛宕町の愛宕神社は明治以前には「愛宕権現(社)」「愛宕勝軍(大)権現」「愛宕勝軍地蔵権現」などと呼ばれていました。
創祀年代は不明ですが、信玄公の命令により、古府中の聖道小道路に躑躅ヶ崎館の鬼門守護のため祀り、相模国愛宕山から地蔵菩薩を招来して安置したことが始まりと伝えられています。(現地看板、山梨県神社庁史料)
なお、甲府の北に連なる山々は「愛宕山」と通称されますが、この愛宕山と愛宕神社の関連は定かではありません。

甲府五山の円光院には信玄公が信仰された「勝軍地蔵尊像」が奉安されており、信玄公の勝軍地蔵尊像信仰を示すものとされます。
躑躅ヶ崎館の鬼門守護とあわせ、信玄公の軍神としての信仰も受けていたことが伺われます。

■ 愛宕神社
山梨県神社庁資料
 
 
 
甲府市愛宕町134
御祭神:火之迦具土神、建御名方神、日本武尊
旧社格:村社
授与所:境内下社務所
朱印揮毫:令和 愛宕神社 直書(筆書) ※改元記念の御朱印

■【 三宝荒神 】

■ 真如山 良林寺 華光院
 
 
甲府市元紺屋町33
真言宗智山派 御本尊:三宝大荒神
札所:山の手七福神めぐり(毘沙門天)
〔御本尊の御朱印〕
朱印尊格:本尊 三寶大荒神 直書(筆書)
・中央に種子の御寶印(火焔宝珠)。三寶荒神の種子は「バン」とみられますが、この御朱印の種子は「バン」ではありません。「バン」の荘厳体の「バーンク」にも見えますが、定かではありません。中央に「本尊 三寶大荒神」の揮毫。右上と中央の印判は不詳。左には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。
令和に入って3日目の拝受だったので、「奉祝」「天皇陛下御代替」の揮毫があります。
左上の「甲州修験道場」の印判は、修験寺としての歴史を示すものです。

〔山の手七福神めぐり(毘沙門天)の御朱印〕
・中央に種子の御寶印(火焔宝珠)。毘沙門天の種子は「ベイ」で、この御朱印の種子は「ベイ」のようにも見えますが、定かではありません。中央に「毘沙門天」の揮毫。左上に「甲府山の手七福神」の印判。左下には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。

由緒によると御本尊は弘法大師のお作と伝わる三宝荒神で、大永年中(1521年~1528年)に信虎公が荒神堂を建て、堂守に山伏を置いたのがはじまりとされています。
後に信玄公が現在地へ移され荒神堂と別当寺を建立、紀州根来寺の弘尊法印を別当寺住職に招いて祈願所とされたといいます。

三宝荒神は、火伏せの神、かまどの神として広く信仰される尊格で、仏教では守護神、護法神とされています。

神仏習合、山岳信仰、民間信仰の流れのなかでも広く信仰をあつめる尊格ということもあってか、すこぶる複雑な性格をもたれる尊格といわれます。
仏教では文殊菩薩、不動明王、歓喜天と同体(本地)とされる説があるので、(垂迹)神として祭祀されることがあります。

信玄公は荒神堂と別当寺を建立されたとありますから、神社(荒神堂)で三宝荒神を祀り、別に別当寺があったとみられますが、現在は華光院の御本尊が三宝荒神となっており、廃仏毀釈の折になにかしらの経緯があったのかもしれません。

信玄公は調略の名手であり、もっとも忍者を活用した戦国武将として知られています。
武田家の忍者(忍びの者)は、「透波」(すっぱ)と呼ばれ、天文十九年(1550年)の村上義清との戦さ「砥石崩れ」で透波を統括していた板垣信方と甘利虎泰の両名将を失ってのちに「三ツ者」(みツもの)として再編成されたといわれます。
間見、見方、目付の三つの任務を果たしたため「三ツ者」と呼んだとされます。

忍びの者は、各地を移動する僧侶や修験者に身を変えて(あるいは修験者・山伏を雇い入れて)活動したとされ、「透波」や「三ツ者」も例外ではなかったようです。
修験者や山伏は、山岳信仰や神仏習合と密接にかかわりますから、上で述べた、飯縄、戸隠、愛宕、そして三宝荒神などの尊格と信玄公の関係は、単なる祈願信仰の対象だけでなく、調略活動とも切り離せないものだったかも知れません。

まぁ、「透波」や「三ツ者」の詳細はほとんど残されていないので(残された時点で失格でしょう)、その裏付けは難しいのですが・・・。(『甲陽軍艦』には、「三ツ者」は信玄公の家臣である「諸国御使者衆」の配下にあったという記載があります。)

修験寺らしく、4月の第2日曜日には山伏による火渡り祈願が行われています。
太子堂は聖徳太子の像を祀ったもので、柳沢吉里が大和郡山に転封となったとき甲府城内より移したものです。現在は堂内に毘沙門天も祀られています。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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■ Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印 

2020/11/26・2020/09/08 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

「武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印」の第1編は武田信玄公です。
信玄公ゆかりの寺社は検索するとたくさん出てきます。
なので数回にわけてまとめてみます。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

武田信玄公は、甲斐国守護武田家第18代武田信虎公の嫡男で、甲斐(州)武田家第19代の当主です。
戦国時代最強の武将とも目され、越後国の上杉謙信公(長尾景虎)との川中島の戦いはつとに知られています。

本国甲斐に加え、信濃、駿河、西上野、遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領し、西上を企図されたもののその途上で病没されました。大正四年、贈従三位。
諱は晴信、通称は太郎。「信玄」は出家後の法名で、正式には「徳栄軒信玄」と伝わります。

甲斐武田氏は、清和源氏(→武田氏系図)義光流、代々甲斐国守護をつとめた名族で、発祥の地は北巨勢郡武田村とされています。(常陸国説もあり)

■ 武田八幡宮





公式Web
韮崎市神山町北宮地1185
御祭神:誉田別命、息長足姫命、足仲津彦命、武田武大神
旧社格:県社
元別当:法善護国寺(南アルプス市加賀美)
授与所:参道左手社務所(原則書置)
朱印揮毫:武田八幡宮 書置(筆書)

この地には武田八幡宮が鎮座します。旧社格は県社と格式の高い神社です。
社伝には「弘仁十三年およそ千二百年前の八二二年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社」とあり、甲斐武田家の初代当主、武田信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇を受けました。
信虎公、信玄公による社殿再建の記録も残されています。

また、別当寺の法善護国寺(南アルプス市加賀美)は甲斐源氏の一族、加賀美氏の館跡とされ、武田氏歴代の祈願所として信玄公の帰依も篤かったと伝わります。(→ Vol.4で後述します)

真新しい社号標には大きな武田菱。
参道正面、石垣の上に石鳥居が据えられているめずらしい社頭。石垣横の階段を昇っての参拝となります。

県指定文化財の鳥居は高さ2.48メートルとさほど高さはない石造台輪鳥居ですが、転び(傾斜)をもつ太い柱は胴張り(中央部のふくらみ)もあって、特異な存在感を放っています。

踊り場の神楽殿を回り込み、もうひと昇りすると拝殿です。
そのおくの本殿は天文十年(1541年)、武田家当主となった信玄公が再建されたもの。
三間流造檜皮葺の風格あるつくりで、国の重要文化財に指定されています。
南側の若宮八幡神社の神殿は県文化財に指定されています。

御朱印は参道登り口向かって左手の社務所に書置が用意されていますが、用意分が捌けていることもあり、拝受はタイミング次第かもしれません。

■ 為朝神社


(一社)韮崎市観光協会Web
韮崎市神山町北宮地
御祭神:源為朝公
※御朱印は授与されていないとみられます。

武田八幡の本殿向かって左手の山道を数分辿ると(熊除けフェンスの脇を進みます。けっこう恐い(笑))、左手(武田八幡からみると南側)に為朝神社が鎮座しています。
剛勇無双を謳われた鎮西八郎源為朝公を祀った神社で、八幡太郎義家公の流れの為朝公を祀るお社が、新羅三郎義光公流の甲斐源氏武田氏発祥の地に祀られているのは、なんとなく不思議な感じもします。

韮崎市設置の現地案内板から抜粋引用してみます。
「為朝神社は、鎮西八郎源為朝を祀った神社で、元暦元年(1185年)に武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った。文化十三年(1816年)源氏の直系深沢文兵衛源直房等が、その衰退を憂い、昔日の面影を再興したものである。古来、疱瘡除けの神として四方民の信仰厚く(以下略)」
これだけでは、信義公がこの地に為朝公をお祀りした理由がよくわかりません。

Web検索してみると、韮崎市観光協会の資料に「源為朝は保元元年(1156年)に伊豆大島に島流しをされましたが、その後に鬼二匹を従え武田信義のもとに身を寄せ『武田為朝』を名乗ったという伝説があります。」とありました。

二匹の鬼さんについてはさらにもっと詳しい逸話もみつかりましたが(→https://design-archive.pref.yamanashi.jp/oldtale/10487.html)、利用規定がうるさそうなので引用もリンクもやめときます。(それにしても公的なコンテンツの利用って、どうしてこんなに煩雑なんだろう。しかも書いてある意味よくわかんないし・・・。これじゃふつうの人は面倒くさくて利用しないと思う。)

また、こちらの資料には、「『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に『鍋山八幡』の存在を記している。『裏見寒話』では『鍋山八幡』を源為朝伝説に付会した説を取り、これは白山神社・為朝神社に比定される可能性が考えられている。」と記されています。(『裏見寒話』は、甲府勤番士・野田市左衛門成方が著したとされる甲斐国見聞記)

『甲斐国志』によると、武田八幡の南側にあった白山城は、武田信義公が居館武田館の要害として山手に築城し、『寛政重修諸家譜』によれば、「白山城」は青木氏(のちに山寺氏)が領有し、八代信種が「鍋山砦」を守備したとあり、位置関係から「白山城」=「鍋山砦」とする説があります。
また、白山城の名は、山中に鎮座する白山権現に由来するとされています。
白山城背後の尾根には烽火(狼煙)台がふたつあり、信玄公の狼煙台探索の関係で訪れる人もいそうです。

青木氏は武川衆、八代信種は浅利信種をさすと思われます。
上記の為朝神社再興の深沢氏ですが、Wikipediaによると三流(諏訪氏族、清和源氏佐竹氏族、清和源氏秋山氏族)あるとされ、「源氏の直系」および位置関係から清和源氏秋山氏族が考えられます。
しかしこの流れの深沢氏の本拠は峡東で、深沢氏の城館とされた深沢城(館)は御殿場市にありました。
八代信種にしても本拠は八代郡(峡東)で、どうしてこの地に係わりがあるのかは不明です。(武川郷は武田郷のすぐ北なので、武川衆の青木氏による守護は自然です。)

片側に千鳥破風の向拝を配した均整のとれた拝殿。蟇股の龍の彫刻も勢いがあります。
向拝のある向かって左が拝殿、右の社殿には異様に迫力のある為朝公像が鎮座しています。
武田神社とはやや異なる空気が流れ、一足伸ばして参拝するのもよろしいかと。(ただし熊に注意。)

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甲斐武田氏の流れはいくつかあり、複数の本拠地が伝わりますが、嫡流とされる第5代(7代、2代とも)当主、武田信光公は甲斐国唯一の御厨である石禾御厨(いさわのみくりや)に拠られたとされます。

当地(石和郷)にはもともと景行天皇の弟君 稚城瓊入彦命が行宮を建てられ、命に随行してこの地を治めた和邇臣氏が一族の始祖、天足彦国押人命と稚城瓊入彦命を一族の氏神として合祀したお社がありました。
信光公は鎌倉の鶴岡八幡宮をこのお社に勧請合祀され「国衙八幡宮」(現在の石和八幡宮)と称し、代々武田家の氏神として崇敬されました。

■ 石和八幡神社(石和八幡宮、国衙八幡宮)



山梨県神社庁資料
笛吹市石和町市部1094
御祭神:応神天皇、比売大神、神功皇后、天足彦国押人命、稚城瓊入彦命
旧社格:村社
授与所:境内社務所
朱印揮毫:石和八幡宮 直書(筆書)

山梨県神社庁の資料には、「建久三年(1192年)、石和五郎信光(武田信光)が鎌倉幕府創建における功績により甲斐國河東半國の守護職となり、石和に政庁として居館を構へた際、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀し甲斐源氏の氏神として国衙八幡宮と改め、後に石和八幡宮と称した。」「以後武田氏を宗家とする甲斐源氏一門の崇敬厚く、正治二年(1200年)より永正十六年(1519年)に武田信虎が甲府躑躅ヶ崎に居館を移すまでの約三二〇年間、弓馬に秀で将軍や執権北条氏の指南役を務めた武田信光の武技に因み甲斐源氏一門の射法相伝の儀式は全て当社にて行はれたと伝へられ、現在例大祭に合はせて流鏑馬神事が奉納されてゐる。」とあります。

■ 建久三年(1192年)、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀した折、将軍源頼朝公より当宮に贈られたと伝わる一首(境内掲示)
- うつしては 同じ宮居の神垣に 汲みてあふかむ 美たらしの水 -

石和市街のほぼ中心にあり、温泉街からも近く駅からも歩ける距離です。
石和の日帰りできる温泉はかなり制覇しており、再三訪れているのですがこちらは初めての参拝となります。

国道411号に面した社頭。石造参道橋に朱塗りの立派な両部鳥居。鳥居扁額の「八幡宮」の「八」の字は八幡神の神使である鳩がかたちどられています。
そのおくに二つめの参道橋と随神門。随神門は現存する唯一の往年の建築物で、切妻鉄板葺三間一戸で八脚単層、左右に随身像を安置しています。

社殿は朱塗りの真新しいもの。本殿、幣殿、拝殿ともに平成18年に不慮の火災により焼失、平成21年に再建されました。

御朱印は拝殿向かって左手の社務所にて拝受できますが、一度お参りしたときはご不在で、二度目の参拝で拝受できました。事前TEL確認がベターかもしれません。

■ (甲斐國総社/宮前)八幡神社


山梨県神社庁資料
甲府市宮前町6147
御祭神:誉田別命、息長帯姫命、姫大神
旧社格:県社・(甲斐國総社)
授与所:愛宕神社社務所(甲府市愛宕町134)
朱印揮毫:八幡神社 直書(筆書)
※御朱印は愛宕神社(甲府市愛宕町134)にて拝受できます。

永正十六年(1519年)、信虎公が古府中(甲府)に館を移された際、氏神も隣地(甲府市峯本)に遷座され、信玄公の治世に甲斐国内の惣社となりました。
(山梨県神社庁資料には「府中八幡として永禄三年神家五ヶ条の条目を賜はり、甲斐国九筋百六十四社の神主をして二日二夜ずつ二人交替に社詰参籠して国家安泰を祈願する番帳を賜る。」とあります。)

文禄四年(1595年)、浅野長政が甲府城を築城する際、現在の宮前町(旧古府中町)へ奉遷し、以降も甲斐国総社として崇敬されたと伝わります。
明治には、県内県社の第一号に列せられています。

南向きの明るい境内。社頭に真新しい石灯籠と石造の明神鳥居。社号標には「甲斐総社 八幡神社」とあります。
狛犬一対、灯籠一対。向拝前には立派なしめ縄。武田菱つきの拝殿幕が張られることもあるようです。
左手に少し離れて朱塗りの神楽殿。
大正九年、協賛者からの寄附により社殿等を再建したものの、昭和二十年7月の甲府空襲で焼失。現在の社殿は戦後の再建です。(空襲前の写真はこちらに掲載されています。)

〔 夢見山伝説 〕
夢見山はここから離れていますが、なぜか境内に説明板がありました。信玄公ゆかりの内容なので抜粋引用します。
「武田信虎公が夢見山に登ったとき、急に眠くなり石を枕に寝入ってしまった。すると夢に1人の男が現われ『今、甲斐国主として誕生した男児は、曽我五郎の生まれかわりである』と告げた。ほどなく生まれた若君(後の信玄公)を勝千代と名付けた。
勝千代の右手は握ったままで、心配した信虎が天桂和尚に相談すると、和尚も同じ夢を見たといい、夢の男は『その子の右手には金龍の目貫一片がある。城東の池で洗えば右手は開く」と告げたという。信玄公の右手を池で洗うと手は開き中から目貫が出てきたという。」

目貫とは、刀の柄を刀身につける釘で、生まれながらにして武具を手にされていた信玄公の戦の強さを物語るものといえるかもしれません。

■ (峯本鎮座)八幡神社


山梨県神社庁資料
甲府市古府中町1529
御祭神:誉田別神、媛神(宗像三女神)、息長帯姫神(誉田別神の母)
旧社格:村社
※御朱印は授与されていないようです。

山梨県神社庁資料によると、永正十六年(1519年)信虎公が躑躅ヶ崎に館を築造された時、城中守護神として勧請し、文禄年間(1593年~1596年)の甲府城築城の際に八幡山の南麓に移転しました。
当時の峯本組の住民等が旧社地に同神を祀って村の鎮護氏神とし、「古八幡」と敬称したと伝わります。

武田神社の南西にある相川小学校の体育館そば、峰本自治会館の棟つづきのお社に鎮座しています。
峰本自治会館玄関前に「峰本古八幡神社」の社号板とその横に由来書があるものの、奥まった立地で鳥居もないので、知らない人間はまず気づかないかと思います。

由来書に創祀・来歴が詳細に記されているので一部引用してみます。
「ここ峰本自治会館奥、棟続きのお社に祀る『峰本古八幡神社』は、私たちの産土神・鎮守の神であります。この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して国衙八幡宮と称したのが始まりといわれています。永正十六年(1519年)、武田信虎が府をつつじが崎に築く時、館の西側に移され府中八幡と称されました。(相川小学校校舎の西南部) 武田氏滅亡後、甲府城築城の際、お城鎮守の八幡宮として今の宮前町に移されたのです。当時の村人は、旧社地(古府中村峰本)に社を祀り古八幡神社と敬称し、氏神として尊崇してきました。明治十六年に相川小学校を開校するに当たり、八幡様は校舎の西側に移され、昭和三十一年には相川小学校体育館の建設が社のある『松の間』と称した敷地に決定し、八幡様は体育館南側に遷座することになりました。(以下略)」

自治会館の左脇からおくの本殿横に直接詣でる参道がつけられており、拝殿の扉をくぐって参拝します。
形からすると、めずらしい妻側からの参拝となります。

神前幕には「古八幡神社」の文字と武田菱紋、幕の上には花菱紋が刻されています。
小ぢんまりとしたお社ながら、甲斐源氏の氏神、国衙八幡宮の本流筋である八幡様の尊厳をひしひしと感じます。

■ 御崎神社



山梨県神社庁資料
甲府市美咲2-10-34
御祭神:稚産霊神、保食神、大国主神
旧社格:村社、式内社・宇波刀神社の論社として考える説あり
札所:甲府山の手七福神めぐり(恵比寿神)
授与所:拝殿右手奥の社務所(神職ご自宅)
朱印揮毫:御崎神社 直書(筆書)
朱印揮毫:恵比寿神 直書(筆書)

武田宗家の石和館の守護神、御崎神社は、甲府躑躅ヶ崎館への移転にともない躑躅ヶ崎館三の郭内に遷座され、武田家によって尊崇されたと伝わります。
御崎神社は武田家滅亡後も存続し、文禄三年(1594年)甲府城築城の際に現社地に遷座され、甲府城の守りと甲府北部一帯の氏神と定められて篤く尊崇されています。

山梨県神社庁資料によると由緒は以下のとおりです。
甲斐武田氏が石和へ居を構えた折にその守護神として居館内に祀られ、永正十六年(1520年)、信虎公が石和から躑躅が崎に居を移し築城された際に三の郭内に神殿を建立されて御遷座、武田家代々の尊崇を集めました。
天正三年(1575年)城外の西南、塔岩地内に再建、文禄三年(1594年)甲府城築城の際に現社地に御遷座、甲府城の守りと甲府北部一帯の氏神と定められています。

徳川家康公の甲斐国内巡視の際、当社に参拝の折に御崎大相撲を上覧され、これより御崎大相撲は甲斐国三相撲の一つとして有名になったとされます。

住宅地の道路が社頭で、そこから参道が延びています。
参道途中に小ぶりの鳥居、そのおくに立派な御神門。
境内は社頭からは想像もつかないほど広々としています。
参拝中、住民の方のすがたもちらほら。地域に溶け込んでいる神社のような感じがしました。

甲府山の手七福神めぐり(恵比寿神)の札所で、拝殿向かって左手に恵比寿神像が御座します。時節柄「アマビエ」の画額も。
甲府山の手七福神めぐりは、甲府市が平成31年の開府500年を記念して北部七寺社に七福神をお祀りし開創した出来たての七福神霊場で、各札所のご対応はどちらも親切です。

御朱印は拝殿向かって右手奥の社務所(神職ご自宅)にて快く授与いただけました。

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信玄公は大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎公の嫡長子として生誕されました。
母は信虎公の正室で、西郡の有力国人大井信達の娘・大井夫人。
(信虎公、大井夫人については、別編でまとめてみたいと考えています。)
信玄公生誕の地は、躑躅ヶ崎館の詰城である要害山城、または積翠寺とされます。

■ 万松山 積翠寺



【写真 上(左)】 以前いただいた御朱印
【写真 下(右)】 令和初日の御朱印 
甲府市上積翠寺町984
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第61番
朱印尊格:信玄公誕生寺 書置(筆書)/直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第61番印判

開祖は行基とされ、南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたという古刹で石水寺とも。
大永元年(1521年)10月、駿河国今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に攻め入り、信虎公は甲府近郊の飯田河原の合戦で福島勢を撃退。
この時期、懐妊されていた大井夫人は要害山城に退いていたといわれ、信玄公はここで生誕されたと伝わります。
幼名を”勝千代”と伝える説もあります。

信玄公生誕時にその産湯を汲んだとされる井戸が残っており、山手には産湯天神が祀られています。
頂上の要害山城本丸には、東郷平八郎元帥の揮毫による「武田信玄公誕生之地」の碑が建っています。
本堂裏手には夢窓疎石の作と伝わる庭園が残されています。

〔積翠寺由緒書〕(山内掲出)
当寺は臨済宗妙心寺末にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峰和尚中興開山なり 大永元年(1521年)福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産むこれ即ち信玄なり 境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う 積翠寺庭園は夢窓国師の築庭なり 寺宝に信玄像及び天文十五年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻二卿と拙寺にて催せられし信玄公の和漢联句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す

〔武田信玄和漢連句の説明書〕(山内掲出、抜粋)
天文十五年(1546年)信玄は、後奈良天皇の勅使として甲斐におもむいた三条西大納言実澄・四辻中納言季遠と東光寺鳳栖・宝泉寺湖月らを加えた十数名を当寺に迎え和漢連句を催した。この時の一巻が当寺に寄進され、寺宝として現存している。和漢連句は、五・七・五の和句と呼ばれる和歌と漢句と呼ばれる五言の漢詩を続けた連歌の一首であり、当時流行った知的な遊びであった。信玄が京都文化を積極的に移入したことや、武芸とともに文芸にも関心があっただけでなく和歌や漢詩の優れた作者であったことを示す貴重な資料である。

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信玄公の歌にゆかりの逸話は『甲陽軍艦』品第九「信玄公御歌の會之事」(→国会図書館DC)にも載せられています。
永禄九年(1566年)、一連寺にて武田家の歌会が催される際、京から権大納言今出川(菊亭)晴季公が甲斐に下向されていたものの、信玄公は「われらの相伴に晴季公を招くのは作法に反し、ぶしつけであろう」と、晴季公を招くことを躊躇われました。
当日朝、晴季公が一連寺にあらわれ「御歌の会が催されるのに参上しないのは傍若無人(失礼)であろう。」と急遽歌会に加わられ、信玄公はたいそう喜ばれたといいます。
その際、晴季公に供するお膳について、わざわざ円光院まで使いを出して確認されたとあり、信玄公が細かな心配りをされる武将であった証左ともされています。

このとき信玄公が詠まれた歌は
たちならぶかひこそなけれさくら花 松に千とせの色はならはで

このときの歌会の御相伴衆、御次衆、給仕・配膳役には信廉公、勝頼公、信豊公、河窪信実、穴山信君、一条信龍、長坂長閑、土屋昌次、曽禰昌世、真田昌幸、三枝守友など、錚々たる武将の名がみられ、信玄公のみならず、武田家臣も幅広く歌に親しんでいたことがうかがわれます。

時宗の名刹、稲久山 一連寺は名族一条氏とのゆかりがふかいので、別にご紹介しますが、写真と御朱印だけ上げておきます。

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武田宗家は代々甲斐守護職を継いだとされますが(異説あり)、信玄公の先々代、第17代当主信縄公の治世あたりまでは、下克上の流れを受けて同族の逸見氏、油川氏、守護代の跡部氏などが台頭し勢力を張りました。
有力国人の小山田氏(都留)、大井氏(西郡)、穴山氏(南部)なども独自の勢力を保ち、甲斐国内は一枚岩とはいえない状況でした。
また、隣国の強豪、今川氏は西郡の大井氏を後押しして、度々甲斐国内に攻め入ったという記録があります。
このような混沌とした状況に終止符を打ったのが信虎公で、それを代表する戦いが゛飯田河原の合戦゛といわれます。
信虎公は一万五千の今川勢をわずか二千の武田勢で打ち破ったとされ、以降、和睦もあって今川勢の甲斐侵入を許していません。

信玄公はこの勝ち戦゛飯田河原の合戦゛のさなかに生誕され、数年後には信虎公が他国へ初めて兵を出しているので、まさに武田家に隆盛をもたらした嫡子ということができるかもしれません。

【 武田家と重宝 】
〔 御旗楯無 〕
清和源氏の名族である甲斐武田家には、代々総領に相伝された「御旗楯無」(みはたたてなし)という重宝が伝わります。

「御旗」とは甲斐源氏の祖、新羅三郎源義光公の先代、鎮守府将軍頼義公が天喜四年(1056年)後冷泉天皇から下賜された日章旗(日の丸御旗)で現在、甲州市塩山の名刹、雲峰寺に所蔵されています。
この旗は「現存する最古の日章旗(日の丸の旗)」とみられています。

「楯無」とは、義光公以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された鎧で、小桜のの紋をあしらった小札(こざね)で大袖や草摺が威されているところから「小桜韋威鎧」(こざくらかわおどしよろい)とも称され、現在、甲州市塩山の菅田天神社に所蔵され、国宝に指定されています。(→文化庁国指定文化財データベース
また、源氏八領(清和源氏に代々伝えられたという八種の鎧)のひとつとされています。

ふたつの重宝は武田家内で神格化され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と誓い出陣したと伝わります。
信玄公ゆかりの宝物として、「諏訪神号旗」「信玄公馬印旗」「孫子の旗」もよく知られています。

〔 諏訪神号旗 〕
諏訪神号旗については、「信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏」という貴重な文献があるので、こちらも参照してまとめてみます。

「諏訪神号旗」は、「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられたとされ、「諏訪法性旗」「諏訪明神旗」「諏訪梵字旗」と呼称される3種の旗の総称です。
いずれも信玄公の諏訪明神信仰を物語るものとされ、塩山の裂石山雲峰寺所蔵の諏訪神号旗は信玄公直筆と伝わります。

■ 諏訪法性旗(戦勝記念旗)
黒地に赤字で「南無諏方南宮法性上下大明神」と書かれています。信玄公が戦勝毎に雲峰寺の観音堂に奉納されたものと伝わります。
長さ1.23丈、横幅1.6尺。
13旒。明治維新以前には17旒あったとされています。
塩山の裂石山雲峰寺および恵林寺に所蔵されています。
※恵林寺については後述します。

■ 諏訪明神旗
赤地に金字で「諏方南宮上下大明神」と書かれています。
裂石山雲峰寺および金櫻神社に所蔵されています。

■ 諏訪梵字旗(信玄公の護身旗)
赤地に金字で「諏方南宮上下大明神」と書かれ、周囲に63の黒文字の梵字が配されています。
長さ1丈、横幅1.5尺。
1旒。裂石山雲峰寺に所蔵されています。

〔 信玄公馬印旗 〕
「信玄公馬印旗」は、武田の家紋である「花菱」が縦に3連、赤地に黒で染め抜かれた軍旗で、本陣に在る大将の馬側に立ててその所在を示す目標としたものとされます。
一般に武田家の家紋として知られているのは「武田菱」といわれる割菱紋ですが、「信玄公馬印旗」では花菱紋がつかわれています。

花菱紋は武田家の”控え紋” ”副紋”とされるもので、戦国の武将では軍旗に使用した例も複数みられるようです。
裂石山雲峰寺に所蔵されています。

〔 孫子の旗 〕
「孫子の旗」は、俗に「風林火山」の旗ともいわれ、
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)という孫子の「軍争編」から引かれた文が紺地に金文字であらわされた軍旗で、恵林寺住職快川紹喜の揮毫によるものとされます。
時代劇などでは、武田軍の象徴として必ず出てくるものです。
長さ1.26丈、横幅1.6尺。紺地に金文字で両面打抜き。
6旒。明治維新以前には9旒あったとされています。
裂石山雲峰寺および恵林寺に所蔵されています。

雲峰寺宝物殿で目にしたとき、現物の存在感に圧倒されるとともに、諏訪梵字旗(信玄公の護身旗)の63字の梵字が気になりました。
これについては、「信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏」という文献で検討されていますので、まとめてみます。

筆者のお考え
1.主文の「大明神」は、諏訪神社の主祭神たる建御名方命であることは明か。
2.「南宮」というは正確には「上諏方南宮」であることが明か。そして上諏訪の南方の宮といえば諏訪神社の上社を指すこととなる。(一宮慈眼寺に奉納されている錦七条の袈裟(信玄公が川中島にて着用)の裏に「上諏方南宮法性大明神」の墨書献文があることから)
ただし、上社は彦神(建御名方命)を主祭神とするに対し、下社は姫神たる八坂乃売命を主祭神とするから「南宮」という限り、下社は含まれないし「上下大明神」といえば南宮というのがおかしいのではないか。という疑問も呈されています。
3.「諏方大明神として垂迩された本地の明王は何様であろうか。」と、諏訪大明神の本地に注目され、「それは恐らく毘沙門天王ではなかろうか。」とされ、「諏方大明神の本地身を毘沙門天王と見たとすれば神佛両道の信仰が統一されたことともなる」とされています。
併せて「毘沙門天王は北方守護の武神、財神として民衆の人気を鍾めていたが、(中略)北面分担の毘沙門天王が武人に尊崇されたのも亦自然であつた。」とも言及されています。
4.実際、「左行梵字上から5字は「『毘沙門(天王)の為に(帰命す)』と読まれる」とされ、「下端の4字(3語)は金剛部(又は忿怒部)諸尊の咒の結句にしばしば現れる慣用句であるから、この一咒は毘沙門天王の咒と見て差支ない。」とされています。
5.「第二咒は前述の毘沙門天の咒と見られるが、第一咒はどうであろう? この中に神名らしいものが2字(1語)づつ3度出ている。この語は『Sedhyim』としか読めない。これは『諏方神』という和名をそのまま梵咒に挿入したものかも知れない。そんな例が常用普通真言集などにも見えている。しかし『帰命吉祥天女』と読むのかも知れない。」
6.「若しこの女神(吉祥天女)を指すとなれば、それは諏方明神妃たる八坂刀売命の本地身と見た為と考えられる。」
7.「梵咒の意味は結局よく解らない。(中略)すべてを悟性のみによつて解決するの要はない。諏方大明神の威力を被り、毘沙門天王の法力が通じて、軍兵の志気が揚ればよい訳である。それ故、護身旗の梵咒はそれだけで十分の効果を発揮し得たのである。」と締められています。

いま、Web上で諏訪大明神の本地を調べてみると、建御名方命は普賢菩薩、八坂刀売神は千手観世音菩薩としている資料が多くみつかります。

Vol.4でも触れますが、信玄公は毘沙門天への信仰篤く、軍陣の守り本尊として刀八毘沙門天像を護持されていました。(現・円光院所蔵)

また、信玄公が戦勝祈願依頼文を奉納された11寺のひとつ御坂町の大野寺(現・福光園寺)には、仏師・蓮慶の作と伝わる見事な吉祥天像が祀られています。
吉祥天は毘沙門天の妻とされます。
なので、諏訪大明神の主文字と、その周囲に信玄公の軍陣守り本尊である毘沙門天とその妻の吉祥天の梵字を配して護身旗とした、という考え方もあるかもしれません。

■ 裂石山 雲峰寺





公式Web
甲州市塩山上萩原2678
臨済宗妙心寺派 御本尊:十一面観世音菩薩(裂石観音)
札所:甲斐百八霊場第11番、甲斐国三十三番観音札所第16番、甲斐八十八ヶ所霊場第75番
〔甲斐百八霊場第11番の御朱印〕
朱印尊格:南無佛・十一面観世音菩薩(裂石観音) 直書(筆書)
・中央に御本尊十一面観世音菩薩(裂石観音)の御影印と「南無佛」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第十一番」の札所印。左には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所第16番の御朱印〕
朱印尊格:十一面観音菩薩(裂石観音) 直書(筆書)
・中央に御本尊十一面観世音菩薩の御影印と「十一面観音菩薩」の揮毫。右上に「甲斐観音十六番」の札所印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
寺号の文字は2種で「峯」と「峰」でことなり、これは趣向を凝らすため敢えて変えられたとのことです。

寺伝によると、行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が当山の上にまたたき、山谷大いに震い、高さ十五米余の山中の大石がにわかに真二つとなるや、石の裂け目から萩の大樹が生え、石の上には十一面観世音菩薩が出現されました。
この奇瑞を目の当たりにした行基は、萩の大樹から十一面観世音菩薩の尊像を刻し一庵に奉祀したのが当山の開創とされます。

開創当初は天台宗、のちに禅宗へと転じ、甲斐の鬼門を護る甲斐源氏の武運長久の祈願寺として深く崇敬されました。
室町時代には恵林寺住職の絶海中津が観音堂改修の浄財勧募を行っており、恵林寺とは深い関係にあったものとみられます。

天文年間(1532年~1554年)の火災にて諸堂を焼失、その再興に向けて信虎公が印判状(現存)を与え、紹謹禅師をはじめとする寺僧を励ましたと伝わります。
永禄元年(1558年)、信玄公が武運長久祈願文を納めているので、この頃には再建されていたとみられ、現在の本堂、庫裏、書院、仁王門(いずれも重要文化財)はこの時期の建立と考えられています。

天正十年(1582年)、勝頼公は一族とともに天目山の合戦で敗れ自刃、武田家は滅びましたが、その折、家臣たちが武田家再興を期して重宝をひそかに当山へ納めたといわれています。

参道階段から昇ると、木々が鬱蒼と茂り禅宗の古刹の雰囲気にあふれています。
階段上部、木立の下に古色を帯びた仁王門。一戸三間八脚の単層入母屋造茅葺、仁王像二体を安置し、木鼻・懸魚にも彫刻を備えて古刹の山門にふさわしい佇まい。

本堂は正面四十尺の堂々たる構えで、入母屋造檜皮葺に重厚な唐破風向拝を附設した均整のとれた意匠。
向拝の二重梁正面には上下の蟇股を配し(上:板蟇股、下:本蟇股)、上の板蟇股には武田家の花菱紋が刻されています。
また、拝殿破風上には金色の徳川家三つ葉葵紋が配されています。

本堂向かって右手の庫裡も存在感があります。正面三六尺、単層切妻造茅葺の大建築。
均整のとれた曲線をひく破風と懸魚、桟唐戸上部の二段二連の連子欄間がいいアクセント。
正面梁上中央の板蛙股には、武田家の花菱紋が存在感を放っています。

夕方遅くにお伺いしたのですが、ご住職は快く宝物殿をお開けになられ、御朱印2通の揮毫をいただいたのちは、当山について貴重なご説明をいただきました。ありがとうございました。

境内のエドヒガンザクラは樹齢七百年、「峰のサクラ」と称される古木で、開花の時期(4月下旬)に再訪したいと想います。

■ 菅田天神社



山梨県神社庁資料
甲州市塩山上於曽1054
御祭神:素盞嗚尊、五男三女神、菅原道真公
旧社格:県社
授与所:随神門左手手前の社務所
朱印揮毫:菅田天神社 書置(筆書)

武田家の重宝で国宝の「楯無」(小桜韋威鎧 兜・大袖付)を所蔵する、塩山の格式ある天神社です。

社記によると、承和九年(842年)甲斐国司藤原伊(太)勢雄が勅命により甲斐少目飯高浜成に命じての創建とされます。
寛弘元年(1004年)には菅原道真公を相殿に祀り、以来、菅田天神社と称します。

新羅三朗義光以来甲斐源氏の鎮守とされて篤い尊崇を受け、甲府の鬼門にあたることから鬼門鎮護として、永久年間(1113年~1118年)、武田氏第5代当主信光公が社殿を造営し、陣中の守護たる神器楯無鎧を社殿に納め置き、同族である於曽氏に守護させたと伝わります。

「楯無」は、当地於曽郷に拠った於曽氏によって厚く守護され、武田家は大事あるごとに出納を命じたといいます。
なお、於曽氏は、甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子光経(於曽五郎)、光俊(於曽五郎)の流れとされています。

「新羅三朗義光甲斐守として任国以来武田家の守護神として代々崇あり。(中略)武田陣中守護たる神器楯無鎧の威を恐れ当神社は府の鬼門に当り神徳霊妙なるを以て本社々殿に納め於曽氏をして守護せしめ其崇敬厚く(以下略)」(山梨県神社庁資料より)

〔 境内由緒書より 〕
指定文化財 国宝
昭和二十七年十一月二十二日 指定
工 芸 小桜韋威鎧兜大袖付 一領

一の鳥居は石造の稲荷(台輪)鳥居、二の鳥居は朱塗りの両部鳥居で、そのおくに朱塗りの灯籠とやはり朱塗りの随神門が見えます。
参道の奥行きはさほどではないものの、さすがに旧県社らしい風格を備えています。

随神門は切妻造銅板葺、桁行三間一戸の八脚単層門で木部朱塗り。左右に随身像が安置されています。 
随神門をくぐると左手に新羅宮。石標には「武田の始祖新羅三郎義光之を継承す」とあり、別の石碑には「国寶 小櫻韋威鎧」とあります。

参道橋を渡り階段を昇ると正面に拝殿。向かって右手に神楽殿、境内社。
拝殿は入母屋造正面千鳥破風銅板葺の正面1間向拝付で木部朱塗り。
こちらも社叢の緑に朱塗りが映えています。

拝殿左手前には神札授与所がありますが、通常御朱印は随神門左手前の社務所にて授与されているようです。
お伺いしたときは社務所のベルを押しても応答なしでしたが、しばらく境内を撮影していると、掃除をされている方を見かけたのでお伺いすると、快く書置の御朱印を授与いただけました。

■ 金櫻神社





公式Web
甲府市御岳町2347
御神体:金峰山
御祭神:少名彦命、大己貴命、須佐之男命、日本武尊、櫛稲田媛命
旧社格:式内社(小)論社、県社
授与所:境内授与所、オリジナル御朱印帳は境内売店にて頒布
朱印揮毫:甲斐國御嶽山 直書(筆書)
朱印揮毫:甲州金櫻神社 直置(筆書)

「諏訪神号旗」のひとつ「諏訪明神旗」を所蔵する名勝、昇仙峡の上に鎮座する古社です。

社伝によると、第十代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疫病が蔓延した折、諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をし、甲斐国では金峰山山頂に少彦名命を鎮祭されたのが当社の起源とされます。

その後第十二代景行天皇の時、日本武命が東国巡行の折山頂に須佐之男命と大己貴命を合ネ巳され国土平安を祈願されました。
第二十一代雄略天皇の御代、金峰山より現社地に遷され里宮としての金櫻神社が創立されました。
よって、金峰山山頂に本宮、当社は里宮にあたり、御神体は金峰山とされます。

第四十二代文武天皇の二年(約1270年前)、大和国吉野山金峰山より蔵王権現を勧請して神仏両道の神社となり、日本三御嶽三大霊場としてその信仰は関東一円をはじめ、遠く越後佐渡、信濃、駿河にまで及んだといわれます。

古くから日本における水晶発祥の地として火の玉・水の玉のご神宝と、金の成る木と言われる御神木「鬱金の櫻」は有名で、渓谷美を誇る昇仙峡の遊覧も相まって従前より多くの参拝客を集めています。
社記に「以金為神以櫻為霊」という言葉があり、「金櫻」の社号もここから出たものとみられています。

多くの寄進による荘厳な社殿と中宮には見事な蟇股の牡丹の唐草、本殿の左甚五郎の作と伝わる昇竜・降竜はつとに有名でしたが、残念ながら昭和30年12月の失火によりその多くを失っています。
幸いにも焼失を免れた社宝のうち、能面と大胴は勝頼公よりの奉納、小胴は仁科五郎盛信公の奉納とされています。

諏訪明神旗については、公式Webに下記のような記載があります。
「金櫻神社の宝物として『諏方南宮上下大明神の旗』があります。この度、その旗が絹で作られているためこれ以上痛まないようにと綺麗に表装されました。この旗は武田信玄に由来するものでございます。詳しいことは現在分かりませんが、元々金櫻神社は武田家代々の祈願所だったので、この旗が納められていたと思われます。」

昇仙峡周辺は、御朱印スポットとしても人気のあるところです。(詳細は → こちら
この人気は、水晶の大きな印判を目の前で捺していただける金櫻神社の御朱印が大きく寄与しているのでは。

金櫻神社、夫婦木神社、夫婦木神社姫の宮、黒戸奈神社(黒平町、御朱印は金櫻神社にて)、天台山羅漢寺(御朱印は「食事処一休」(県営グリーンライン駐車場隣)にて)の5寺社の御朱印を拝受できますが、金櫻神社、夫婦木神社、夫婦木神社姫の宮は時季によっては授与待ちがあり、黒戸奈神社は金櫻神社から車でもかなり遠く、天台山羅漢寺は「食事処一休」から遊歩道沿経由で歩けますが、それなりに距離&高低差があるので、全御朱印ゲットを目論む方は時間に余裕をもたれた方がいいかと思います。

【 ご参考/昇仙峡周辺の御朱印 】

【写真 上(左)】 黒戸奈神社(黒平)
【写真 下(右)】 天台山羅漢寺


【写真 上(左)】 夫婦木神社
【写真 下(右)】 夫婦木神社姫の宮

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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