山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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白山城②

2018-07-29 22:05:55 | 山城ー甲斐
主郭部に入ります。

坂虎口を登り

再度、大手虎口を見下ろしています。

帯曲輪が北回り

帯曲輪の南回り

大手を登ると

虎口と正面から敵を迎えた曲輪、左に入れば二の丸

二の丸虎口

二の丸、奥には本丸の城壁

二の丸の西側には空堀と二の丸南西曲輪

宮坂氏はこの曲輪を2’としています。右手奥には土橋、本丸へ通じています。

縄張り図は「甲斐の山城と館」上巻

次回 南西尾根から三の丸

白山城の築城と利用
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する[5]。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられている[6]。後に青木氏から別れた山寺氏が領したという[7]。
一方で中世期の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世期の地誌類や家譜などに見られる。寛永20年(1643年)『寛永諸家系図伝』、寛政3年(1791年)『寛政重修諸家譜』所載の青木・山寺両氏の家譜においては戦国期に武川衆の青木・山寺両氏が武田氏から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では「鍋山八幡」を源為朝伝説に付会した説を取り、これは白山神社・為朝神社に比定される可能性が考えられている。
戦国期の天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、武田勝頼は新府城を退去して家臣・小山田信茂の郡内領へ逃れる途中に、田野(甲州市大和町)において滅亡した。同年6月、本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、甲斐では三河国の徳川家康が新府城を本陣に七里岩台上に布陣し、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙した。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、諏訪口の監視を行った。白山城は天正壬午の乱において修築されていると考えられている。
江戸時代初期の寛文年間(1661年-1673年)廃城となった。




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