『童話作家のおかしな毎日』
富安陽子 著 偕成社 2018年
著者は、現在関西在住で日本の風土の根底にある神話や伝承を今の世界に違和感なく融合させながら作品を紡ぐ私の好きな児童文学作家の一人である。本書は彼女自身だけでなく、家族を含めた親戚のことも綴りながら、富安家のルーツまで掘り下げたエッセイである。
彼女のルーツの起点は九州にあり、その後対馬に移動。そして著者の曽祖父母を対馬に残したまま祖父母は東京に移っている。そこには少し闇の部分があるようであるが、著者は分かる範囲で本書に記している。それでも著者自身が自分のルーツが、謎が謎のままで自分の中でくすぶりつづけているとし、わずか100年前の身内の出来事を知るというのは案外難しいことなのだと、漠然とだが感じた。と同時にかなり暗部な出来事が身内の中であったとしても、100年も経てば、どこか他人事のような、ドラマの中の一コマという感覚になってしまっているというのも読者としては面白く感じた。もしかして、自分のルーツにもこのような部分というのはあるのではないかと空想を掻き立ててくれる。自身のルーツ探しに謎が残ったままの著者であったが、それでも、結果として自分が今ここにいるという確かなつながりがあるということには変わりないと結論づけている。そして、そのつながりとは地方の妖怪話を含めた伝承であり、著者は幼い頃、親戚からそれらを聴くことより、それが作品の母体となっている。何が功を奏するのか分からないものである。
それでも、彼女のルーツの軸となるのは「やはり」というのは少し違うのかもしれないが、「戦争」であった。このエッセイのいちばん最初に書かれたものは、著者の両親の出会いについてであり、彼女はこのように記している。「戦争が母の未来を大きく変えてしまった(p9)」。しかし、最後にはこのように締められてもいる。「思えば母の人生はずいぶんとドラマチックだ(p11)」。そう、もし「戦争」がなければ、現在児童文学作家としてほぼ頂点を極めている(と私が勝手に思っている)「富安陽子」はここに存在しなかったのである。
100年前のルーツの「つながり」どころではない。と、「戦争」を肯定してしまうような書き方になってしまったが、現実はそう甘くはない。これ以降の「戦争」について綴られている項目は、やはり心を締め付けられるものである。著者の父はこの戦争で2人の兄を亡くしているし、父自身も海軍兵学校に入学している。そこで終戦を迎えることができたが、兄が戦争で失ったことにより、父の姉は弟(著者の父)も失うのではないかという危機感を抱き、当時住まいのあった東京から海軍兵学校(広島)まで、弟に会いに行っている。今の時代のように新幹線や飛行機があるわけではなく、更に戦争ですでに焼け野原になっている地域も多い場所をかいくぐりながらの若い女性一人の移動はかなり危険なものであったと想像する。そこまで追い立ててしまう「戦争」というものを著者の伯母の行動だけからも改めて考えさせられる。そして、その部分はぜひ本書を手にして彼女の記す文章で読んでほしい。より「戦争」を身近に感じることができると思う。
彼女のルーツの一つのピースが欠けても今の「富安陽子」は存在しなかったことがとても分かりやすく示されたエッセイであった。しかし、彼女は本書の中でこのように語気を強めて綴っている部分がある。
「あと一日、あと一週間早く戦争が終わっていたら……、原爆が落ちていなければ、いまこの世界に存在しているはずの人たちの数はどれほどだろうか。これから生まれるはずだった人の数は?とりかえすことのできない無限大の不在(p130」
このエッセイの裏にはこの無限大の不在の人たちがいること。本書を読みながらしみじみと感じてほしい。
======文責 木村綾子