京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『ツベルクリンムーチョ』

2021年02月03日 | KIMURAの読書ノート


『ツベルクリンムーチョ』
森博嗣 著 講談社 2020年12月
 
1996年のデビュー以来数々の作品をこの世に生み出し、その作品は「理系ミステリー」と評される著者のエッセイ。彼のエッセイは無秩序に、かつ抽象的なことを思いついたまま書き連ねるというのが基本姿勢であったのだが、今回初の「時事ネタ」について言及しており、これが話題を呼んでいる。それがまさに世界中を現在震撼させている「新型コロナウイルス」のことである。しかしながら、彼の言葉を借りると、「森博嗣は何年も以前から人に会わない生活をしているので、影響はまったくといって良いほどない。だから、完全に『他人事』である。不謹慎だが、そのとおりなのだからしかたがない。ご容赦いただきたい(p2)」。それでも、彼が時事ネタを扱うこと、人と距離を置いた生活をしていることで見えてくる「コロナ騒動」は興味深い。ちなみに、このエッセイは2020年6月に書かれたもので、その時点での彼から見たコロナに関する考察である。
 
最初の緊急事態宣言では学校は休校になり、社会人も在宅ワークをすることを推奨され、一般的にはこれらのことに関して抵抗感があったように思える。が、著者はなぜ学校や会社に行く必要があるのかと語る。人が集う土地や建物にかかる費用よりも通信環境を整えるほうが費用も抑えられるのではないかと述べる。そして「『つながろう!』をスローガンにした社会モデルが、もう古い、と僕は思う。今回の騒動は、そのことに気づく良い機会となったのでは?(p23)」と締めている。また、役所の仕事の本質は「前例重視」で、本格的な「改革」が行われておらず、とりわけITに弱く、ここ30年程のツケが回ってきたと指摘し、「それでも、未だ『技術の日本』を信じる人がいたりする、実に老いた国なのだ(p25)」と、バッサリ切り捨てる。そして、「最近の日本の体たらくにも、気づかない振りをしつつ、自分たちを変えようとはしなかった。こうして、日本はジリ貧になっていく。今がその途上である(p29)」と追い打ちをたてる。また、日本の医療については、今回のコロナ感染拡大以前から医療崩壊していたのではないかと語っている。そもそも救急車のたらい回しは日常茶飯事であり、診察の予約をしても1~2時間待たされていたのが常、これは変ではないかと問いかける。もちろん、日本の体制だけでなく、国民の行動についても意見している。例えば、中止となった春の高校野球。これに対して「開催してほしい」という1万人の署名が高野連に届いたことを取り上げ、そもそも中止になった理由は感染の拡大の危険性や予防を行う対策にお金や人員を投入できないというものなのに、感情的な「好きだ」とか「したい」で署名を集めるのはおかしいと叱責する。

 彼が指摘する内容を読んでいて分かるのは、今回コロナ感染拡大という特殊なことで起こったことではなく、もともと日本が持っていた問題点や課題がただ明確に露呈しただけというものである。著者は各種メディアに出演して声高に意見を述べるタイプでないだけでなく、そもそも人里離れたところでひっそりと生活している人間である。そのため、彼の意見が国民全体の目に触れることはない。だからこそ、今回彼のエッセイが「時事ネタ」を扱ったという以上に日本の根幹的な問題を指摘したという点においてちょっとした話題になったのであろう。このエッセイを読んで、もう一度メディアで報道される内容を耳にすると違った角度からそれを読み取れるようになるかもしれない。
          文責 木村綾子

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