京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

2019年12月02日 | KIMURAの読書ノート
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』レイディみかこ 著 新潮社 2019年6月

2019年ノンフィクション本大賞受賞作品。著者はイギリスで保育士の資格を取り、当時底辺託児所と自身が勝手に呼んでいた保育園に勤務。息子もそこの託児所に預けての勤務となるが、小学校は市のランキングでもトップクラスの私立のカトリック系小学校に入学させる。しかし、中学校になる段階で見学した「元底辺中学校」を選択。その中学校生活の1年半を綴った成長記録。

本書は「成長記録」としているものの、大きくはイギリスの教育制度、社会制度を息子の中学生活を通して語ったものである。驚くほど、日本と似ている部分もあったり、まったく逆のこと然りでページをめくるごとに新鮮な刺激を受ける。

日本と状況が同じだとひしひしと感じた点は、貧富の拡大が子ども達にしわ寄せとなっているという点であろう。息子が通う学校の先生はこのように話している。「私たちだって、できれば教育に専念したい。子どもたちに試験でいい成績をおさめて、成功してほしいし、階級を上って行ってほしい。だけど、彼らにはその前段階である衣食住が整っていない。福祉課の手が回らないというのなら、少なくとも日中は生徒を預かっている学校がやるしかないじゃない(p106)」。著者はこの言葉に対して、次のように付け加えている。「この国の緊縮財政は教育者をソーシャルワーカーにしてしまった(p108)」。この2人の台詞は決してイギリス国内だけのことではない。日本国内でも同じように対応している学校の教師はたくさんいる。これを対岸の火事として流してしまうのか、自分の周囲でも起こっていると感じ取れるかは読み手にかかってくるが、少なからず著者と息子の親子の現実的なやり取りを見ていると、自分達家族の周囲でも起こっている出来事の一つとして捉えることができる。

逆に日本と大きく異なる点をあえて一つ取り上げるとしたら、「性教育」について。今日本でも小学生の時から段階を追って、男女同じ教室で「性教育」の授業を受けることが一般的になってきたが、その内容はようやく「子どもが生まれてくること」についてである。しかしながら、イギリスにおいては、すでにその先を進んでいる。少なからず著者の息子はこの授業で「FGM(女性器切除)」について学んでいた。それはイギリスにはおいては移民が多く、夏休みにこっそり母国に我が子を連れて帰りそれが行われているという現実もあるため、予防の一環として授業に取り入れられているという側面があるようでもある。しかし、それをそれだけで終わりにせずに、そこから発展して「人権」とは「子どもの権利」とはということを学んでいる。しかし、それは決して美談では済まない。この知識が逆にこのような文化を持つ国の出身者たちをつい穿った目で見てしまう現実もイギリスにはある。それでも著者は「この国の教育はあえて波風を立ててでも少数の少女たちを保護することを選ぶ(p139)」と断言する。
 
本書はこのような内容を織り込みながらも親子の活き活きとした会話。そして息子の徐々に進化していく発言が何よりも魅力的である。決して順風満帆な子育てではないことも本書を手にすると一目瞭然であり、どこに住んでいようと子育ては紆余曲折であることが逆にホッとさせてくれる1冊となっている。

=====  文責  木村綾子


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