京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『注文をまちがえる料理店』

2018年11月16日 | KIMURAの読書ノート
『注文をまちがえる料理店』
小国士朗 著 あさ出版 2017年

2017年6月3日、4日の2日間、都内で試験的に小さなレストランがオープンしました。コンセプトはタイトルの通り「注文をまちがえる」レストラン。と言っても、わざと間違えることでお客さんに「笑い」を取るレストランではありません。至って真面目に職務にスタッフは取り組みます。しかし、どうしても間違えてしまう状況にスタッフはいます。そこをお客さんが楽しみに捉えてくれたらというのがこのレストランの趣旨。スタッフは皆、認知症を患った方々なのです。

本書の前半はレストランがオープンした両日に起こったエピソードが綴られています。スタッフは自身が「認知症」であることを知っていますが、それを誰もが「よし」とはしていません。自分の職務を全うしようと必死です。病気で失われていく「記憶」を何度も繰り返しながら頭に入れようとするため、いつも以上に疲労度が積もっていきます。それをお客さんがさりげなくサポートしていく姿にほっこりしながらも、現実の厳しさというのが柔らかい文章の中からくっきりと浮かび上がってきます。それでも、病気のために、何もできないと思っていた当事者が「できた」という達成感を持つ瞬間が記されているのを読むと、病気をはじめとする様々な理由で周囲がその「達成感」を得る機会を奪ってはいけな
いということ、いや、そのような意図はなかったとしても、結果としてそのような例え些細な機会ですら奪ってはいないかということを考えさせられました。しかし、それ以上に衝撃的だったのは、自分の「記憶」を探りつつ、「達成感」を得たということ、それ自体、つまりレストランで働いたという事実を数日後には忘れてしまっているというこの病気の切なさ。「認知症」は「記憶」を失う病気であることは分かっていました。注文を取りに行っても、それを忘れてしまう、だからこそのこの「注文をまちがえる料理店」。しかし、現実はもっと残酷でした。一瞬の「達成感」すら「記憶」から抜け落ちてしまう。「思い出」にすらならない。本書はとても柔らかい文章で綴られていますので、全体的にはほっ
こりとした温かい印象を読者に与えてくれます。それでもこのエピソードを読んだ時の、胸をえぐられる感じ。現実の当事者の恐怖は、計り知れないものなのだろうと想像します。決してエピソードを温かな物語として捉えることのできない現実が随所に溢れていました。

後半はこのレストランの発揮人でもある著者が、このレストランがオープンするまでの過程を綴っています。著者の本職はテレビ局のディレクター。仕事の関係で介護の現場を知ることになります。そこで出会った認知症の人たちへの風当たりの強さの現実。しかし、長く取材を続けていくうちに、認知症の人たちの違う姿も見えてくるようになってきます。そこで漠然とイメージしたのが「注文をまちがえる料理店」。その後、自分自身病気になり、過酷なディレクターの仕事を離れることになります。そして、紆余曲折はあったものの、ディレクター生活よりも自由な時間が持てるようになり、漠然としたイメージを持っていた「注文をまちがえる料理店」をプライベートのプロジェクトとして立ち上げたのです
。「注文をまちがえる」とは言え、お客様に不平や不満をもたらすものになってはいけません。また、間違えることが当たり前となってもいけません。お客様に心地よく食事を楽しんでもらえる場所として、随所に工夫をしていることが詳細に記されています。ちょっとした工夫で病気の人でも働けるということの事例本ともなっています。

読後にふと思い出したのが、国や地方自治体の障害者雇用に対する水増し報告。人数操作する前に「ちょっとした工夫」って自治体では難しいのかなという疑問が横切りました。

=======文責 木村綾子

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