京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』

2014年06月02日 | KIMURAの読書ノート
『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(一般書)
松永正訓 著 小学館 2013年

第20回小学館ノンフィクション大賞受賞作品。

「トリソミー」という言葉を耳にしたことのある人は多いのではないのだろうか。「染色体異常」のことを指し、21トリソミーがいわゆる「ダウン症」である。本書は、21トリソミーとは全く異なる症状を示す18トリソミー、13トリソミーを主とした「障害新生児倫理」について記されたものである。

13トリソミーと18トリソミーは様々な複雑な奇形を持ち、この世に生を受けても半数以上が半月の命となり、1歳を迎えられる子は全体の10%である。著者がまだ大学病院で小児外科をしていた頃、この両トミソリーに関しては、積極的治療を行わない方針が一般的であった。著者はこの時、まだそれと診断が出されていない新生児に対して閉ざされた食道をつなぎ、胃へ外部から栄養を送るチューブを入れる手術を行った。その1週間後この赤ちゃんが13トミソリーと分かり、この時の方針からこのチューブを抜かなければいけない体験をしている。以来、著者の中に「罪悪感」が残り、「障害新生児倫理」の解答を見つけられない状況であった。それから約10年後に著者は小児医療の最前線から離れ、開業。そして、2011年、同じ地域の総合病院から生後7ヶ月の13トミソリーの赤ちゃん(朝陽くん)が退院するため、かかりつけ医になって欲しいと言う依頼により、再び「障害新生児倫理」に向き合うことになる。

朝陽くんとその家族との交流が綴られているだけでなく、その家族をきっかけにトミソリーの子どもを持つ他の家族、トミソリー以外の「短命」と言われている病気を持って生まれた子どもの家族の聞き取り調査を行っている。そして、それは「短命」「障害新生児倫理」の問いかけだけでは終わらず、現在あちこちで見聞きする「出生前診断」、その先の「介護」……「老々介護」へと話は繋がっていく。

本書を読み進めると、著者が約20年前に抱いた「罪悪感」は想像以上に重たかったものだということに気がつく。それが、朝陽君家族や他の家族への不躾な質問という形となって、いたるところで表れている。もしかすると、障害新生児がこの世に授かった時、その親と同じ位、そこに立ち会った医療従事者は苦しんでいるのかもしれない。それでも、親は著者が綴っているように、子どもを手放したり家族を捨ててしまうことはほとんどない。時間をかけて受け入れたり、反発しながら、前に進んでいっている。しかし、医療従事者は、あくまでも「医療を行ってくれる人」という他人であり、共に歩みを揃えながら、患児やその家族とゆっくり進むことは物理的に不可能である。次々に様々な病状を持つ子どもを言葉は悪いが捌いていかなければいけない。他人とは言え、自分と関わっているはずの子ども達とゆっくり向き合うことができないというのは不幸なのではないのだろうか。だからこそ、著者のように「罪悪感」を持ち続けなければならなくなるのではないだろうか。

朝陽君家族と寄り添った結果、著者が出した問いの答えは、
「医者にとっての生命倫理は、思弁ではなく行動である」(p219)
その行動の足かせを作らないように、社会は動かなければならない。

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