■水色の街 / 三輪車 (東芝)

学生時代に入れてもらっていたアマチュアバンドは基本的にアメリカンロックを標榜していながら、諸事情から当時流行の歌謡フォークをライブの現場で演じなければならないという、ど~にも自己矛盾の活動に終始していた話は、これまでにも拙ブログでは度々書いてきたわけですが、三輪車と名乗る3人組が昭和49(1974)年に出したとされる本日掲載のシングル盤A面曲「水色の街」も、サイケおやじにとってはホロ苦い思い出の……。
それは昭和50(1975)年の春、ちょうど今頃の時期だったんですが、件の入れてもらっていたバンドメンバーや仲間共々に関西の某所に合宿を名目にした物見遊山へ出かける事になり、併せて幾つかの場所でライブもやらせてもらえるという仕込みもあったもんですから、サイケおやじもホイホイ浮かれて連れて行ってもらったまでは良かったんですが、皆様ご推察のとおり、そこで演じなければならなかったのはロックじゃ~なくて、予めリクエストされていた歌謡フォーク主体のプログラムだったんですから、なんだかなぁ……。
で、この「水色の街」も、その中にありまして、曲調はアップテンポの典型的な爽やか歌謡フォークだったんですが、実はサイケおやじも、またバンドの先輩諸氏も、ほとんどこの楽曲を知らず、ところが関西地区では堂々の大ヒットになっていたというのですから、まさに自分達は井の中の蛙だったというわけです。
なにしろ山崎稔(vo,g)、西之辻功(vo,g)、田川昭夫(vo.b) のトリオ編成だった三輪車は関西出身であり、リアルタイムで大学生だったというのですから、年齢的にも自分達と同世代のグループが既にプロとしてデビューし、人気も高かったというのでは、我々の胸中をお察しいただければ幸いでございます。
もちろん、自分達は誰もプロになる気は微塵もなかったんですけどねぇ~~、そんな言い訳を弄する事だけでも、姑息に思われるのは必至の状況の中、とりあえず早速レコードを入手し、コピーに勤しんでみれば、山崎稔の作詞作曲は売れセンがど真ん中ですし、軽快なリズムやストリングスを歌謡ポップス調に用いた竜崎孝路のアレンジも用意周到で、告白すれば、演じての気持良さが「水色の街」には確かにあるんですねぇ~♪
ただし、失礼ながら、どうにもペチャペチャしたリードボーカルの「味」だけは、サイケおやじには許容出来ない世界であり、これはバンドの先輩諸氏も同意見でしたので、なんとかウエストコーストロックに変換しようとあれやこれや、そんな試行錯誤こそが、バンドをやる楽しみのひとつでありました。
で、肝心のライブでの結果は、まあまあのウケがあったんで、ちょっぴりイイ気になっていたですよ、なにしろそこは某大手企業の主力工場のパーティー会場で、女子工員さんが大勢集っていましたからねぇ~~。
う~ん、やっぱり歌謡フォークをやらなけりゃ~、女の子には相手にされない!?
恥かしながら、そんな人生訓めいたものを感じたほどでしたが、考えてみれば当時はガロ、かぐや姫、アリス等々が人気を集めていた、つまりはトリオ編成で歌謡フォークを演じるのが流行最先端であれば、さもありなん……。
問題はサイケおやじが、そこに覚悟を決められるかが問われるわけでして、答えは否だった事は、こうして今、こんな戯言を綴っている事に収斂しております。
最後になりましたが、三輪車のメンバーの中では山崎稔が後にソングライター&プロデューサーに転身し、多くのヒット作に関わっている事は皆様ご存じのとおりです。
それとちょい前、NHKの朝ドラ「あさが来た」の主題歌として大ヒットした「365日の紙飛行機」が、この「水色の街」のパクリとして話題になっていましたが、それは否定出来ないとサイケおやじも思いますので、気になる皆様はご確認下さいませ。
まあ、ウケる歌の黄金律は不滅ということで♪♪~♪