もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

0080 重松清「トワイライト」(文芸春秋;2002) 感想5

2013年06月23日 05時57分39秒 | 一日一冊読書開始
6月22日(土): 読み終わったのは、23日am4:30

391ページ  所要時間6:50     ブックオフ105円

 近頃、職場の人間関係でとても粗雑で嫌なことがあって気分が滅入っていた。重松清の作品を読みたくなった。

 著者39歳(1963生まれ)。  自分よりはるかに年下な時の重松清の作品を読むのは、少し屈辱だ。しかし、考えてみれば、高橋和巳は35歳で『邪宗門』を書き、漱石は49歳で死んだ。太宰は39歳で死んだ。啄木のような天才もいる。まあ35歳を過ぎて居れば、自分より年下もくそもないのだろう。むしろ、60歳を過ぎれば、作家も鋭さを失った出涸らしになるのかもしれない。

 重松清の作風の大きな特徴は、自分と同年代(多くの場合同年齢)を主人公に選ぶことが多いことだろう。そのため、作り事でない、当事者による非常にリアルな記憶と実感を読者に届けることができる。一方で、著者自身は年齢を重ねていくが、作品は1962~63年生まれの人々の各年代における<思惟の記念碑>として、また高度経済成長期以後の日本の社会・民俗・時代精神史の貴重な史料として別の意義も深めていく。それが、今後どの世代に対しても普遍性を持つことができるかが、一つの勝負だろう。結果は、俺にはわからないが、俺にとっては重松作品は癒しである。

 さて、今回の読書では、泣けなかったので感想4を考えていたが、最後まで読み通すと、著者の優しくて丁寧な人間観察眼に納得し、描き出された作品世界に満足してしまった。共感の一票を投じたい気分になったので、感想5である。まあ、必ずしも泣けなくてもよいのだ。

 内容は、27年ぶりにタイムカプセルを開けるために小学校の同窓生が集まったところから始まる。39歳という後戻り不能な人生の岐路を迎えた彼ら・彼女らはそれぞれに重大な局面を歩んでいるが、いずれも蹉跌を味わい、壁に直面して喘いでいる。
さらに、タイムカプセルには、40歳で不倫による情死を遂げた担任の女性教師からの思いもかけない「皆さんの四十歳はどうですか? あなたたちはいま、幸せですか?」という問いかけの手紙が入っていた。

 再会を果たしたあと、離婚の危機にある同級生夫婦に二次会に連れ出され、まさにDVを目撃させられる同級生たちのシーンから話は動き始める。彼らの関係は、ドラエモンの世界に重ねられ、「のび太」「ジャイアン」「静香ちゃん」「静香ちゃんの女友だち?」「ドラエモン」「スネオ」など小学校時代の役割分担が意識的に演じられる。

 この役割分担は、離婚危機の夫婦の当事者である「ジャイアン」が、ある種うざくて暑苦しい感じで作りだした分担であったが、その役割をなぞることによって、27年ぶりの同級生は、自然な立ち位置を得る。一方で当然のことだが、「ジャイアン」は、もはや「ジャイアン」ではない。しかし、結局このような関係を維持する上で、「ジャイアン」を演じ続ける人間が、とても大切な存在であることを、著者はわかっている。

 物語りでは、「ジャイアン」と「静香ちゃん」が夫婦となり、離婚の危機にある。しかも、「静香ちゃん」と「のび太」が実は小学校の時、両想いだったことを互いに知らず、27年後にそれを知ってしまう。「ジャイアン」も「のび太」も転職による転落やリストラに直面(明日は我が身か…)し、「静香ちゃん」はDVに苦しんでいる。「静香ちゃんの女友だち(実は、全く親しくなかった)?」は、独身の予備校古文講師で、若くに「古文のプリンセス」として一世を風靡したが、もはや落ち目である。それが突然、離婚寸前の夫婦の子供たちが転がり込んできて彼女たちの庇護者となる。みんな人生の大きな壁にぶつかっている。

 転勤族の子でみんなの記憶にほとんど残っていなかった「スネオ」は、B型肝炎が悪化し、入退院を繰り返し、肝硬変か、肝臓がんによる死と直面している。やや知恵遅れ気味でマイペースの「ドラエモン」は、緩衝材的存在でみんなを優しく結ぶつける存在。

 全くもって身勝手な同級生の夫婦に強引に巻き込まれ、振り回される理不尽に怒りながら、いつか本来の自分を取り戻しつつあることにも気付いていく登場人物たち。若くない39歳が、互いを手探りで探りつつ、その関係の大切さを自覚する。

  0048で読んだ秋元康の本で「僕にも「親友」と呼べる人が何人かいるのですが、彼らとの関係を考えると,“近さ“よりも“長さ”に比重を置いて考えてしまう。略。もしかしたら「親友」とは、同じ時代を生き抜いている者同士が、たまに声を掛け合うような関係のことかもしれません。今、隣にいなくても、また、どこかできっと会える、また、どこかで会いたいと思った友だちがいるとしたら、それは君の「親友」です。63ページ」と書かれているのを思い出した。この意味であれば、友だちのいない俺にも、実は親友がわずかだがいる。そして、親友とのつき合いでは、昔の関係の役割を守り、演じ続けることの大切さを再確認させてもらえた気がする。重松清の慧眼、恐るべしである。

※何分、読了したのが未明のam4;30なので、感想は上手くまとまらない。乱文御免。また、整理・加筆できればします。おやすみなさいませ。
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)