もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

0074 ユン・チアン「ワイルド・スワン(単行本・上)」(講談社;1993) 感想 特5

2013年06月09日 20時21分46秒 | 一日一冊読書開始
6月9日(日):

378ページ  所要時間10:00    ブックオフ105円
 2日(日) 120ページ  3:20
 8日(土) 106ページ  2:20
 9日(日) 152ページ  4:20

 内容は、類書のない著者(娘)による当事者(祖母、母、父)からの直接聞き取りによるドキュメントである。俺にとって既知だと思っていた中国近現代史の知識が如何に薄っぺらく表面的で全く歯が立たないかを思い知らされる衝撃的で新鮮な読書となった。

 それだけに、流し読みは通じない。面白くて仕方のない内容だが、結構疲れる。しかし、立ち止れば最後までたどり着けない。きつい読書だった。覚悟が必要なので、下巻(1965~1978)をいつ読めるかは未定だ。

 著者40歳(1952生まれ)。四川省生まれ。ロンドン在住、ロンドン大学で教鞭をとる。

 20世紀初めから、1978年まで、激動の中国を生きた(曾祖母1888-1955)、祖母(1909-1969)、母(1931- )、著者(1952- )3代(4代)の女性の物語り。

 娘を出世の道具と考え、祖母に纏足をほどこし、満州軍閥の将軍の妾(イータイタイ)として出世の糸口をつかんだ曾祖父は、権力を握り、自らも二人の妾を持つ(但し、最後はすべてを失う)。将軍の妾となり、母を生んだ祖母に安息は無く、将軍の死とともに母を連れて逃げ出す。

 40歳近く歳の離れた漢方医夏先生と再婚するが、反対する夏先生の長男はピストル自殺する。代々の家を出て、祖母との生活を選んだ夏先生との錦州での生活は、日本人の支配する満州国、日本敗戦後は国民党勢力、次いで共産党勢力の支配へと激しく変転を繰り返す。そんな中でも、母は才気ばしって活動的な子ども時代と青春期を送る。

 共産党による統治が安定する頃、17歳の母は、共産党幹部であった27歳の父とめぐり逢い、中国の伝統には無い対等な男女関係による革命的結婚を果たす。しかし、共産党は母に幸せな結婚生活を与えてはくれなかった。著者の父は、故郷の四川省に配置換えを願い出、党の許可を得て、二人は国民党の残党が大勢残る四川省へと行く。途中、母は最初の流産をするが、父はかばってくれない。

 四川省で共産党幹部となった父は、幹部であるが故にかえって身内や母に対して冷たく・厳しく接する。この辺で、昔、読んだニム・ウェールズ「アリランの歌」やN.オストロフスキー「鋼鉄は如何に鍛えられたか」の共産党闘士の物語りを少し思い出してしまった。

 姉や著者が生まれ、弟たちが生まれても、共産党幹部の父や、共産党員である母は、子どもたちに十分に接してやれる暇がない。幼い弟は、乳母を母と思い、母を怖がって母を嘆かせる。

1949年、中華人民共和国成立。

1953年、スターリン死去。毛沢東とソ連の確執の始まり。

1957年、共産党の真のリーダーは、中国だと思い込んだ毛沢東の「百花斉放」→「引蛇出洞」の企みに乗せられる人々。

1958年、魔の「大躍進政策」開始。土法炉による製鉄。人民公社設立。

1959年~1961年、大飢饉で三千万人(推定)が浮腫を発し、餓死。共産党員としての志操堅固であった父も、さすがに共産党のあり方に疑問、疑念を持ち人が変わり「革命意志衰退」とひはんされる。毛沢東を批判した彭徳懐元帥の失脚。毛沢東第二線へ引く。劉少奇国家主席と小平党総書記による中国立て直し。

1963年、毛沢東崇拝運動始まる。共産党幹部の子どもとして「省委大院」という特別な居住地に住み、高級幹部の子弟が集まる「貴族学校」に通う著者も毛沢東崇拝に染まっていく。これが劉少奇と小平を狙い撃ちしてるとは誰も気づかない。

 上巻はここまで、下巻は1966年の文化大革命で、まず父が拘禁され、両親への迫害が続く話からであるようだ。大雑把にあらすじを書いただけだが、本文では当時の中国の生活・習慣・風俗・伝統などが具体的に広範囲にわたって語り尽くされている。中国では人間の振れ幅が非常に大きい。膨大な数の人間が、さまざまに悲惨な死に方、末路を遂げる。まさに幸福は皆似ているが、不幸は多種多様である、その上激流となって人間をのみ込んでいくのだ。

 下巻を早く読みたい気もするが、前述の通り、かなりきつくてしんどい読書になりそうなので、いつ読めるかわからない。

 著者がロンドン在住であることが、毛沢東と中国共産党に対する厳しく正鵠を射た批判を可能としている。それにしても、毛沢東と中国共産党は、事実を知れば知るほど嫌いになる。特に、毛沢東の手口は、現在の北朝鮮やカンボジア・ポルポト派と本当によく似ていると思った。北朝鮮なんて、毛沢東のおもちゃ版みたいなものだ。

 毛沢東を批判できない中国共産党独裁政権は、自己批判能力のない政権である。この政権は、倒されて民主化されるべきだと思うが…、大き過ぎて正直どうなっていくのがよいのか、分からない。はっきりしていることは、この政権は、市場経済化した分だけ自由化したが、腐敗の度合いも1960年代よりも恐ろしく進んでいる。その腐敗の言い訳に、対日政策を利用しないで欲しい、ということに尽きる。中国が、正常化することは、世界の5分の1の人間が正常化することなのだ。

*(共産党では)上司がいい人か悪い人かで、下の者の運命には天と地の差がある。226ページ

*毛沢東は、自分の権力を守るためにさまざまな策略をめぐらした。これは、まさに毛の得意分野であった。毛沢東は宮廷政治における権謀術数を記録した数十巻にのぼる『資治通鑑』を愛読しており、略。実際、毛沢東の支配は中世の宮廷に置きかえて見るのがいちばん理解しやすい。取り巻きや廷臣が、まるで魔法でもかけたように毛の言うなりになった。毛沢東はまた、『分割統治』の達人でもあり、オオカミに出くわした時に他人を楯にしようとする人間の本性をたくみに操る天才だった。310ページ

*美しい花を抜くのは、私も嫌だった。でも、毛主席をうらむ気はなかった。それどころか、花を抜くていどのことで落ちこんでいる自分が情けなく腹立たしかった。そのころの私は「自己批判」の習慣がすっかり染みついていたから、毛主席の指導に逆行するような感情の動きに気づいたときは自動的に自分が悪いと考えるようになっていた。第一、そんな感情を抱く自分が恐ろしかった。他人に相談するなど、論外だった。私は自分の誤った感情を押し殺し、正しい考え方を身につけようと努力した。こんなふうにして、私はたえず自分を責めてばかりいた。/自己審問と自己批判は、毛沢東の中国を象徴する習慣だった。自分の心をさぐり、誤りを正して、もっと良い人間に生まれ変わるのだ、と私たちは教えられた。だがほんとうのところは、自分の考えを一切持たない人間を作るのが目的だったのである。376ページ。

上巻目次: ※コピペではない。
第一章「三寸金運」
    軍閥将軍の妾(1909年~1933年)
第二章「ただの水だって、おいしいわ」
    夏先生との再婚(1933年~1938年)
第三章「満州よいとこ、よいいお国」
    日本占領下の暮らし(1938年~1945年)
第四章「国なき隷属の民」
    さまざまな支配者のもとで(1945年~1947年)
第五章「米十キロで、娘売ります」
新生中国への苦闘(1947年~1948年)
第六章「恋を語りあう」
    革命的結婚(1948年~1949年)
第七章「五つの峠を越えて」
    母の長征(1949年~1950年)
第八章「故郷に錦を飾る」
    家族と匪賊の待つ四川省へ(1949年~1951年)
第九章「主人が高い地位につけば、鶏や犬まで天に昇る」
    清廉潔白すぎる男(1951年~1953年)
第十章「苦難が、君を本物の党員にする」
    母にかけられた嫌疑(1953年~1956年)
第十一章「反右以降、口を開く者なし」
    沈黙する中国(1956年~1958年)
第十二章「米がなくても飯は炊ける」
    大飢饉(1958年~1962年)
第十三章「だいじなだいじなお嬢ちゃん」
    特権という名の繭のなかで(1958年~1965年)
第十四章「「父よりも、母よりも、毛主席が好きです」
    毛沢東崇拝(1964年~1965年)

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