もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

4 035 佐藤優「私のマルクス」(文春文庫:2007/2010) 感想5

2015年01月05日 02時03分22秒 | 一日一冊読書開始
1月4日(日):  

414ページ  所要時間 10:05    ブックオフ108円

著者47歳/50歳(1960年1月生まれ)。

三日かかった。10時間かけたからといって、著者の思想をしっかり理解するというのは到底不可能である。でも、途中で投げ出したい気分には全くならなかった。面白かったのだ。最後まで、目を通して、あらすじと大雑把な人間模様を知り得ただけで満足である。まあ、“読めただけでも嬉しい本”ってあるのだ。

著者の父親は、大銀行の技術者で、母親は沖縄戦に九死に一生を得た敬虔なカルバン派キリスト教徒である。中学で東大全学連の闘士だった塾教師から、超詰め込み教育を施され、見事に埼玉県内一の進学校の県立浦和高校に合格する。その御褒美に、高1の夏休みに、文通相手を訪ねて、ハンガリーに行く。高校では政治活動が盛んで、著者は母方伯父の影響もあり、社会主義青年同盟と深く関係を持ち、マルクスについて学び、同時にキリスト教への関心の裏返しとして無神論に興味を持つ。ここら辺から、もう本の終りまで、思想家の名前がバンバンと頻出してくる。ルター、カント、マルクス、レーニン、ヘーゲル、スピノザ、ドストエフスキー程度ならいいが、ローザ=ルクセンブルク、フォイエルバッハ、バルト、ルカーチ、ウィットフォーゲル、ウェスレー、シュライエルマッハー、オポチェンスキー、キュンク、ニーバー、ブルンナー、ピ-サレフ、マホベッツ、モルトマン、ミハイエルスキー、大内兵衛、向坂逸郎、太田薫etc.まあ名前だけは聞いたことあるけど、内容はムリ! という具合になる。社会主義思想と無神論にのめり込み過ぎて、東大文Ⅱに落ちて、浪人をするはめになる。それでも、受験勉強に身が入らず、無神論を勉強できる学校と、ルーツである沖縄を研究する大学を受験する。前者が同志社大学神学部、後者が琉球大学法文学部。両方に合格するが、同志社での面接で「他校に合格してもぜひうちに来てほしい」と声をかけられたのがきっかけで同志社大学神学部に進学する。

全編に共通することだが、著者の膨大な記憶量と明晰さにはもう舌を巻くしかない。著者は記憶を頭の中の映像として覚えているそうだ。あと、経済的に困窮しているシーンはほとんど無かった。上流の下くらいの経済状況の家庭なのだろう。まあ、埼玉から京都の私立大学にお金の心配なく進学できるのだから、それなりの家だ。

著者の早熟さ、頭脳の優秀さは群を抜いている。俺なんかは、受験勉強で力を使い果たし、大学での勉強は結局納得のできるものにはならなかったが、著者は同志社大学神学部に入学すると同時に俺から見て「濃密過ぎる」学生生活に突入していく。

まず、無神論研究を目指す教授とのやり取りが、表現方法にもよるのかもしれないが、ほぼ対等で、教授らから指示された課題を生き急ぐが如くこなしていく。一方で、1980年前後「同志社ガラパゴス」と呼ばれるほど、学生運動が活発で各学部自治会、全学自治会、ブント、三里塚共闘会議、統一教会(原理研)、民青(日共)他、セクト入り乱れる状況に「距離を置く」と言いながら、すぐ神学部自治会メンバーと深い仲になり、“同志社の自由”の中で神学部自治会が占拠し続けていた半公認の教室「アザーワールド」にたむろして、難解な思想書などを読み合いながら、酒を飲み語り合い、寝泊まりする日々を送る。そして、1年の秋には無神論を離れ、洗礼を受ける。一方で、著者は、教授から示された外国語の神学書の読み込みをひとり図書館に通って積み上げていく。

また、四条河原町の「キエフ」をはじめ、京都市中の飲み屋で語り合い、深酒を重ねる。そこには教授たちも交じることがある。韓国の軍事政権に監禁された同志社神学部の韓国人卒業生の解放のための運動に骨折り、ときに教授たちと対等に語り合い、ときにトラブル処理で頼られもする。同志社大神学部の教授陣は教育者であると同時に、宗教家の牧師なのだ。極めて懐の深い師たちであったようだ。学生時代、教授とまともに口をきくこともできなかった俺の目から見れば、著者の早熟さと、教授たちの立派さは際立っている。一種のユートピアだ。

著者のフィルターを通すことによってなのかは、わからないが、著者をめぐる学生たちの姿も皆、ひとかどの人物に見えてくる。教授たちも人間味豊かで深い奥行きのある人柄に見える。角度を変えて見れば、著者の人間的魅力(カリスマ性?)が、友だちや教授陣の良い面を引き出し、よい面を見出していったのだと言った方がよいだろう。学生運動と衝突事件と勉強と酒と談論に明け暮れる濃密な迫力ある日々、読んでいて、これは佐藤優版『突破者』だなあと、昔読んだ宮崎学『突破者』のイメージと重ね合わせてなんとなく腑に落ちた。

著者は、チェコの神学者で、共産主義とキリスト教の共存の可能性を追求し、1969年急逝したフロマートカを、人生をかけた研究課題とするが、チェコへ渡って研究をすることは当時不可能だった。そして、著者の飛躍が起こる。神学部に前例のない外務省外交官(ノンキャリア)試験を受ける。留学できて、給料以外に30万円の支給がある。大学院1年で受験した時は、準備不足で落ちたが、2年の11月には外務省専門職員に合格、あこがれの東欧を目指すことになる。官僚的知性は、その能力を自分や組織や国家のために使うが、神学者の知性は、その能力を他者のために使う点で、全く向きが違う。

本書は、著者の中学から大学院2年まで、高校と大学でのマルクスとの2度の出会いを中心に記された「青春期」のようなものである。マルクスとの3度目の出会いは別著に書かれる。まとめようもないものですが、勢いだけでとりあえず紹介しておきます。

外務省のラスプーチンと誹謗中傷された著者であるが、大学生の時にすでに仲間の学生たちから「君のカリスマ性は危険だ」と指摘を受けていたそうだ。著者の本は6~7冊目だと思うが、読むごとに著者に対しては「この人はものが違う。規格外だ!」という思いが強まっていく。そもそも著者は、自分が物書きになる、ということにひどく臆病だった。それを、仲間のロシア語通訳者の米原万里から、「あなたは書くべきよ。必ず書く人だわ。」と予言されていたそうだが、その米原万里も含めて、ロシア語畑の人々から、どうしてこうも盛りだくさんで分厚く重厚な、それでいて内容の充実した文章を書く人が輩出するのか。文字量で圧倒する雰囲気は、ドストエフスキーを思わせる。佐藤優という全く無名のノンキャリア外交官が、糊口をしのぎ、真実を伝えるためにやむを得ず書きはじめたら、全くの規格外のスケールの書き手(化け物、失礼!)だった。というのは考えようによってはすごい風景だ。世の中、こんな人たちがまだまだ隠れてるのかと思うと意味もなくすごいなあとため息が出る。

目次:はじめに/1 ユダヤ教の刻印/2 ブダペシュトへ/3 やぶにらみのマルクス像/4 労農派マルクス主義/5 同志社大学神学部/6 組織神学教授・緒方純雄/7 ロシアレストラン「キエフ」/8 黒旗の上に描いた魚の絵/9 極めつけの嫌がらせ/10『美学の破壊』/11 思想家・渡邊雅司/12 襲撃/13『なぜ私は生きているか』/14 天性の牧師・野村真也/文庫版のためのあとがきにかえて 講演録(2010年)/解説 中村うさぎ/書名リスト/人物索引

<抜粋> 
・イスラームの人間観には原罪がない。これはユダヤ教徒、キリスト教徒と決定的に異なる。20ページ
・この教師は受験勉強は理解ではなく暗記に尽きるという哲学の持ち主で、徹底的な詰め込み教育を行った。知識を徹底的に詰め込むと、ある段階から知識自体が動き出し、自分の頭で考え始めるようになることを私は学習塾で体得した。38ページ
・高校三年生の頃、私は社会党左派や社会主義協会の人々からマルクスっ主義について集中的に学ぶことになった。彼/彼女らはソ連や東欧(特に東ドイツ)が理想的な社会であると信じていた。54ページ
・「堀江先生は、むしろ共産党にシンパシーを感じますか」/「いや、感じません。選挙では社会党に入れることの方が多いです。共産党のセクト主義は嫌いです。解放同盟に対する共産党の対応は差別の本質を見失わせ、結果として差別を助長させることになると思います」97ページ  *何か、都知事選や今回の総選挙を思い出した。
・「インテリとは自分が現在どういう状況にいるかを客観的に知ることだ。」101ページ
・私にはいいかげんで、本質的に人間の知性を信じないキリスト教が身の丈に合っているのだ。117ページ
・「重要なのはほんとうに好きなことが何かです。ほんとうに好きなことをやっていて、食べていくことができない人は、私が知る限り、一人もいません。」119ページ
・結局、僕は神を信じたいのだけれど、信じることができないのだと思う。もちろん無神論を信じることもできないけどね。アウシュビッツ以降のユダヤ人はみんなそういう感覚を共有しているよ。145ページ
・古典を根拠にどんな政治的言説でも作ることができることを私はインテリジェンスの世界で山ほど見てきた。164ページ
・あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序に収まらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。202ページ
・「佐藤、古代教会で、十字架が一般化する前にキリスト教のシンボルとして書かれたのは、、確か魚だったよな」204ページ
・田邊元はその責任を果たさなかった。言葉に対する責任回避の道具として弁証法ほど便利なものはない。209ページ
・「惚れるときは、大きな思想家に惚れないといけない。小物の思想家に惚れると、結局、時間を無駄にする」251ページ
・「インテリは先駆者的役割なんか果たせないよ。インテリが何をやってもプロレタリアートに影響なんか与えられないよ」259ページ
・「第一旭」と「新福菜館」は京都駅のそばにある豚足スープ系の京都ラーメンの有名店で朝七時から営業しているので、徹夜で飲み明かしたときに、神学部自治会の友人たちとよく訪れた。267ページ
・洗礼を受けてキリスト教徒になったのだから、マルクスからは離脱するというのが通常の軌跡と思うのだが、そうはならなかった。私のマルクスに対する想いはますます強くなる。279ページ
・「君のカリスマ性は危険だと思う。だから神学部はもとより少なくとも近未来は大学教師はならない方がいいと思うんだ」298ページ
・宗教改革の最大の指導者はマルティン・ルターである。ヒトラー総統が最も尊敬したドイツ人はルターだった。319ページ
・相当のことをしでかしても、神学生が退学になることはないと思います。それは同志社大学神学部に自由主義神学の伝統があるからです。ここでいう自由とは責任をともなう自由というタイプの自由ではじゃなくて、何をやってもかまわないという、でたらめ放題の自由ですね。こういう自由主義は非常に貴重です。364ページ
・緒方先生は、「バルトは、神学は最も美しい学問であると言ったでしょう。私はその美しいというところが非常に気になるんです。美しいという言葉の中には恐ろしさがある。」378ページ
・官僚が、国民についてどう思っているかというと、略、無知蒙昧の有象無象だと思っている。そこで国会議員というのは、その有象無象から選ばれているわけですから、無知蒙昧のエキスみたいなものだと見下しています。この無知蒙昧のエキスみたいなものが国家を牛耳るようになったら、国家は崩壊すると官僚は本気で心配しているんです。あいつらは本気です。382ページ
・官僚は官僚に忠誠を誓っているわけです。383ページ
・日本で左翼による革命は起きません。可能性としてあるのは、右翼による「世直し」です。このとき鍵を握るのが武器をもつ自衛隊になります。どうもこの危険が、霞が関の偏差値秀才には見えていないようです。403ページ

著者紹介:1960年生まれ。1975年、浦和高校入学、同年夏に一人で東欧・ソ連を旅する。79年、同志社大学神学部入学、85年、同大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在英国日本国大使館、ロシア連邦日本国大使館に勤務後、95年より外務本省国際情報局分析第一課で主任分析官として活躍する。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、512日間東京拘置所に勾留される。05年2月、執行猶予付き有罪判決を受ける。09年6月、最高裁によって上告棄却された。

背表紙内容紹介:「資本主義の内在的論理についてマルクスが『資本論』で解明した論理は、超克不能である」という確信のもとに、自らの思想的ルーツをたどる。稀代の論客・佐藤優の根幹を成した浦和高校、同志社大学神学部時代を回想しつつ、カール・マルクスとの三度の出会いを綴る(もみ注;実際は二度の出会いまで)著者初の思想的自叙伝前篇。文庫版付録・京都での講演を新たに収録。解説・中村うさぎ

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