もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

180503 再掲:170724 お薦めTV:NHK「亜由未が教えてくれたこと」(170722:再放送)感想5

2018年05月03日 10時44分55秒 | 考える資料
5月3日(木):

昨夜、NHKで昨年夏に若手ディレクターが自らの家族を撮って制作したドキュメンタリー「亜由未が教えてくれたこと」の再放送を偶然だがじっくりと観た。いくつもの「こんなシーンがあったのか」という思いとともに、このドキュメンタリーの投げかけている問題意識の重要性と適切さ・妥当性に心を打たれた。以下、雑感のメモです。

・あゆちゃんを(価値のない)障害者としているのは、あゆちゃんではなく社会のあり方のほうだ。(※これはケイパビリティの思想に通じる大事な提議だ)
・障害者であるあゆちゃんはいつも幸せそうにしていなくちゃならないの。そんなの普通の人だってあり得ない。
・障害者の家族も不幸せだったら殺されなくちゃいけないの?(障害者の家族でなくても不幸せな人はたくさんいる)。
・障害者の家族や子供を持てば、家族は間違いなく大変な苦労をしなければならない状況になる。しかし、そのことと不幸を短絡的に結び付けることは間違いだし、ましてやそれによって障害者の生存権が否定されることは絶対にあってはならない。きれいごとを言うなという馬鹿どもには、障害者及びその家族を孤立させない社会の制度設計そのものが大事なのであり、そのように作られたマイノリティの人々に対して懐深く多様性を認める社会は、障害とは縁のない市民にとっても実はすごく優しく住みやすい社会になっているのだ。逆に、マイノリティの存在を否定する社会は、自らをマジョリティだと勘違いしている多くの馬鹿どもにとっても息苦しい社会・国家なのだと言いたい。ヒトラーのナチスのホロコーストの露払いをつとめたのは障害者の殺戮であった。映画「火垂るの墓」で亡くなったのは幼子であった。
・このドキュメンタリーに出てくるあゆちゃんの両親は、どう見ても現在の日本社会で考えられる最高水準の障害者問題の思想家であり、かつ実践家である。この人たちを当たり前の障害者の親と考えることはあり得ない。そして、この両親をして、特にあゆちゃんの1時間ごとの姿勢介助のために週5日間徹夜をやり続けている55歳の母親をして「もう限界がすぐそこに見えている」と言ってもう一人の娘に弱音を吐いて泣きつかざるを得ない状況を作っている日本社会、政治のありよう、そして傍観者でしかあり得ていない俺自身の現実に絶句する。
・障害者の家族が苦労することは、仕方のないことかもしれないが、これほどまでにその家族が追いつめられる日本社会のあり方はどう考えてもおかしいし、「障害者は不幸しか生み出さない」からと殺しまくった殺人者を自分とは全く関係のない愚か者のしわざと決めつけて見ないふりで済ませようとする日本社会、日本政治、そして俺自身もまさに度し難き状況だ。

以下、再掲する。

170724 お薦めTV:NHK「亜由未が教えてくれたこと」(170722:再放送)感想5
                      2017年07月25日 00時18分18秒 | 映画・映像
(2017年)
7月24日(月):   

NHKの若手製作者が、自分の家族に対する取材だから実現した、ある意味で奇跡的なドキュメンタリー。世間で東大理Ⅲに4人兄弟を送り出した母親が注目されている時代の対極の作品。しかし、実は、母親のすごさは同じだ!

【内容紹介】今年の5月9日に、『ハートネットTV』では、「亜由未が教えてくれたこと」という番組を放送しました。NHK青森の坂川裕野ディレクターは、神奈川県の津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖容疑者の「障害者の家族は不幸」という言葉を否定したいがために、実家に戻り、亜由未さんにカメラを向けることになりました。坂川ディレクターの妹の亜由未さんは、肢体不自由と知的障害のある重症心身障害者です。
  坂川ディレクターの実家は、東京の板橋区にあります。小さい頃から妹とは自宅でともに暮らしていましたが、世話や介助をしたことはありませんでした。しかし、今回は、番組のために妹さんの知らない一面や家族の苦労を知ろうと、1か月間介助をしたいと両親に申し出ました。
  「亜由未が教えてくれたこと」
介助の目標はただ世話をすることではなく、妹を笑顔にすることでした。「自分の家族は幸せなんだ」と示したくて、がんばりますが、妹の亜由未さんは思うように笑ってくれません。そんなときに、母親の智恵さんは、「結果的に笑顔なのと、笑顔を求めるのは違う」と息子をたしなめます。
  「障害者は笑顔でないといけないの?」という智恵さんの問いかけは、坂川ディレクターだけではなく、メディアすべてに向けられた問題提起でもある
ような気がしました。昨年、バリバラでは「感動ポルノ」というテーマで、「障害者が非障害者を感動させるための道具にされていないか」という問題提起を行い、大きな反響を呼び起こしました。しかし、その一方で、昨年の津久井やまゆり園の事件の後には、さまざまなメディアが「幸せな障害者像」や「明るい障害者像」を示すことで、犯人の優生思想に対抗しようとしました。
  そんな中、母親の智恵さんは、「障害者を無理に笑顔にする必要なんてない」と言います。それはなぜなのか、ご自宅を開放したコミュニティスペース「あゆちゃんち」に話をうかがいに行きました。
  不幸だと生きていてはいけないの?

木下:「障害者の家族は不幸だ」という植松聖容疑者に対抗する意味で、息子さんは妹の亜由未さんを笑顔にしようとがんばります。それに対して、母親である智恵さんは、「結果として笑顔になるのと、笑顔を求めるのは違う」と戒めますよね。あの言葉の真意は、どこにあるのでしょうか。

坂川:犯人の植松容疑者は、「障害者の家族は不幸だ」と言ったわけですが、それに対して、「いや、私たちは不幸じゃありません」なんて言い返すよりも、「不幸な人間は殺されなければならないのですか? 生きるのが許されるのは幸福な人間だけですか?」という根本的なことを問いたいのです。
  「見た目は不幸に見えるかもしれないけれど、実は幸せです」なんて言う必要さえないと思います。「不幸で何がいけないの」と言いたいですね。人生、幸せだと感じたり不幸だと思ったりいろいろなんですから、「不幸なら生きている価値はない」なんて、冗談ではないと思います。

木下:亜由未さんは、いつも笑っている、明るいイメージが強いですね。その姿を視聴者に見てもらって、植松容疑者の言葉を否定したいという、坂川ディレクターの気持ちはよくわかります。

坂川:どうしてもSNSなどに上げる写真は笑顔のものが多くなりますから、いつも笑っているように思われてしまうのです。でも、ふだんは笑っていないことも多いですし、体調によって、全然違います。だから、ネットの中だけの亜由未しか知らなくて、初めて介助に来られる方は、「え、あゆちゃん、笑わないの!」と不安になられることがあるようです。でも、私たちもそうですけど、年がら年中笑ってるわけではないし、笑ってなくても充実していることってあるのに、笑顔ばかり求められたらしんどいと思います。

木下:介助する側にとっては、利用者の笑顔は仕事をしていく上で、大きなモチベーションになると言いますが。

坂川:学生時代に読んだ本で、安倍美知子さんという障害当事者の方が書かれた『ピエロにさよなら』という本があるのです。著者の美知子さんが、リハビリ中に一生懸命足を引きずりながら笑顔でがんばっていると、お父さんも先生もみんな笑顔になっていく。でも、本当はそうするのは辛くて、シンドイことだったのです。でも、「私が笑わなくなると、みんな去っていくのではないか」、そう思って、いつも笑っていたというのです。私はその本のことが忘れられません。
  亜由未はたまたま笑う障害者ですけど、表情がわかりにくかったり、笑わない方もおられます。明るい笑顔の障害者だけに人気が集まり、そうでない人には支援が手薄になるとしたら、それもおかしなことです。人間はいろいろな表情をもっていて、一日のうちでも変わりますし、逆に一日中、機嫌の悪い日だってあります。亜由未もいろいろな顔をするし、私は、それが「いいな」と思っています。詩人の相田みつをじゃないですけど、「人間だもの」と言いたいですね。
木下 真

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