もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

190904 池澤夏樹:<老いの自覚>は74歳か。俺はあと何年だろう。

2019年09月04日 23時09分26秒 | 徒然・雑感
9月4日(水):  
朝日デジタル(終わりと始まり)身に染みる衰え 老いては若きに席を譲ろう 池澤夏樹  2019年9月4日05時00分
 まずは個人的な話。
 自分が老いたと思う。それが日々実感される。
 身体能力が少しずつ失われる。
 基礎代謝が減るとはどういうことか。食物として入ってくるエネルギーを活動に変える機能が低減する。身体の方がもうそんなに働くなと言っているかのよう。無理に食べても無駄に肥(ふと)るだけ。
 我が血流は消化か歩行か思考の一つにしか行かない。二つのタスクが同時に実行できない。
 足元がおぼつかない。駅の階段を下りる時は一歩ずつ決意して踏み出す、歩道のわずかな起伏に躓(つまず)きかねない。長く坐(すわ)っていた後で立つとふらつく。万事ゆっくり。万事慎重。つまり愚図(ぐず)。
 視力が落ちる。以前は乗り物の中ではいつも何か読んでいたのに、最近はたいていぼんやりしている。
 いつか車の運転を止(や)める日がくるだろう。
 キーボード入力が遅い。ぼくの右手の人差し指はヘバーデン結節で少し左に曲がった上にねじれている。スマホを打っていて、指先のどの部分が画面に触れるかわからないのでミスが多い。何度もやりなおす。
 小さな字が読めない。振り仮名の濁点と半濁点の区別にルーペが要る。イタリアの「ベニス」なんて間違えたら大変だ。
 しゃれたレストランの暗い店内でメニューを貰(もら)って、さて、気取った長い料理名が読めない。老眼鏡に装着する小さなLEDを作って売ったらどうか。名付けて「メニュー・ライト」。
 小さな字が書けない。
 遠方の身内に毎月送金している。相手も老いているので口座振込ではおぼつかない。現金書留という古典的な方法に依(よ)るわけだが、この封筒の「お届け先」の欄が小さい。住所の部分は二行だけ。実質六九mm×二四mmでは長いマンション名が書ききれない。封筒そのものは大きいのだから周囲には空き地がいくらでもある。なんとかしろ、とぶつぶつ言うのが我ながら老人めいている。
 (冗談として言うけれど、先日行った京都のさる店は「京都府京都市東山区高台寺北門前通下河原東入ル鷲尾町○○○」という住所であった。さて、この二十八字を「お届け先」欄にどう書く? こういう住居表示を今も使っている京都人をぼくは尊敬するものであるのだが。)
     *
 身体能力が足りないからエネルギーを節約する。つまりすべてにおいて横着になる。すぐにしなくても済みそうなことはさぼる。身辺が散らかっていわゆる汚部屋に近づく。
 不義理が増える。メールの返信が遅れる。みなさんごめんなさい、と言いながらも手が動かない。
 カレンダーが頭に入っていないから、スケジュールの話が空(そら)でできない。
 スマホは使っているがアプリの類は最小限に抑えている。新しいものを入れてその用法を身につけるのが面倒くさい。
 藤永茂さんに『おいぼれ犬と新しい芸』という名著があった。海外に出た科学者のエッセーだが、三十五年前のこの本の表題が今になって身に染みる。新しい芸は身につかないのだ。
 知的好奇心が衰えた。
 新しいものに飛びつかなくなった。
 旅に出る時、昔ならば事前にずいぶん予習をしたのだが、最近は着いてからインターネットに頼る。ものの見かたが浅くなっていないか。
     *
 ぼく個人のことはどうでもいい。愚痴ないし繰り言と聞き流していただいて結構。
 しかし社会の高齢化というのはつまりぼくのような老人がどんどん増えるということである。申し遅れたがぼくは今は七十四歳と二か月。来年は後期高齢者。その後は晩期高齢者で、やがて末期高齢者。
 新しいシステムは若い人が作る。それを次々に覚えて使って遅れないようにする。四十代の友人が、今はまだいいけれど六十代になったらたぶん追いつけないと言っている。
 フェイスブックやインスタグラムなどは、飾り窓のまぶしい商品を見ている思い。いつか苛(いら)立って、筒井康隆の小説に出てくる不逞(ふてい)老人のようにテロに走るかもしれない。
 冗談半分に書いてきたが、高齢化でこの国は活力を失うだろう。あらゆる面で生産力が落ちる。あとは衰退の一途、とか。
 社会の平均年齢が年々上がる。若い世代を準備しなかったのだから当然である。我々は商業資本とテクノロジーが提供する目の前の悦楽にうかうかと身を任せ、出産・育児・教育という投資を怠ってきた。国の無策は今さら言うまでもない。
 と書きながら、悲憤慷慨(ひふんこうがい)でもない。いずれ退場する身とは承知している。では若い人に席を譲ろう。
 年下の諸君、幸運を祈る。

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