もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

200528 意固地と依怙贔屓 世界狭め、着けるは布マスク 高橋純子

2020年05月29日 00時08分00秒 | 時代の記憶
5月28日(木):  
朝日デジタル【多事奏論】意固地と依怙贔屓 世界狭め、着けるは布マスク 高橋純子
2020年5月27日 5時00分

 最近自覚したのだが、私はあの小さい布マスクを着けた首相に魅せられている。ジュディ・オングよろしく南に向いてる窓を開け、見ても見ても見慣れないバランスの悪さ。首相のどうにもしがたい幼さ、性(さが)が表れているようで目が離せない。Wind is blowing from the SAGA.おそらく首相の仲間内でそれは、純粋さのようなものとして感覚されるのだろう。
 あの小さい布マスクを着けた首相が国会答弁に立つ。下を向き紙を読み上げるたび、鼻とマスクの隙間が見える。意味なし。異議なし。しゃべっているうちにずり上がってくるから指で引き下げる。不便だろうと思う。それでも頑として着け続ける。自分で手洗いもしているらしい。
 首相はいったい何と闘っているのだ?
 布マスクの全世帯配布という下策は、首相が布マスクを着用し続けたところで上策に変わりはしない。未知の感染症に対応する中で、そりゃ間違うこともあるでしょう。批判が高まったなら失敗を認めて謝罪、撤回し、間違った地点からまた次につなげればいい。信頼は、そういう行ったり来たりのプロセスの中で醸成されるものだ。それをやらない、できないのは、首相が「国民の皆様」との関係のベースに信頼を定置していないからではないのか。
 政治家にとって意地は大事だが、意固地となると弊害が大きい。意固地は依怙地とも書く。そう、依怙贔屓(えこひいき)の依怙。依怙地は異論を遠ざけ、世界を狭くし、身内や味方への依怙贔屓を発生させる。ふたつは同じ成分でできているということが、首相を見ているとよくわかる。
     *
 さて、首相の依怙贔屓に端を発した典型的な依怙地案件・検察庁法改正案は、今国会での成立断念と相成った。
 少しく、意外だった。
 現政権は、民意に成功体験を与えないこと、数の力でねじ伏せ、無力感を植え付け続けることで7年半弱、権力を維持してきた。ゆえに反対が強い時ほど引かない。それがこの政権のやり方だった、のに。
 著名人を含む「ツイッター世論」の拡大がきっかけだったことは大前提として、何かほかに見るべき点はないか。そう問われれば私は、コロナ禍がもたらした、政治意識の「質」的変化に思いをはせる。
 民主主義には本来、時間が必要だ。情報を集め、自分なりに分析し、掘り下げて考える時間。よくも悪くも、そんな時間をいま多くの人が持っている。自分の生活さえ保守できればよく、誠実であるとか信頼に足るとかいった政治的価値は二の次と考えていた人たちが今回、「ん?」と考え始めた。差し出されたボトル水のメーカー名やパッケージ、宣伝文句をよりどころに判断するのではなく、水源をたどってどんな環境で採水されたかを探る。この水でいいのか、もっと自分がおいしいと思える水があるのではないかと見渡す。政治が、より広い地平で、生活と地続きのものとして捉えられるようになったのではないか――先走りすぎか。でも、鈍感よりはましだろう。
 ひりつくような生活不安にも、民意の微妙な変化の兆しにも、首相が注意を払ってきた様子はない。検察庁法改正案の成立を断念する3日前にはインターネット番組で櫻井よしこ氏を相手に、安全保障法制などを例に挙げ「政策の中身、ファクトではなく一時的にイメージが広がるが、時間がたてば『事実と違ったな』とご理解頂ける」と強気だった。真摯(しんし)な批判や懸念もまとめて「イメージ」とおとしめ、「事実」の専有者のごとく振る舞う。何様俺様首相様。私たちは、高をくくられてきたのだ。
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 コロナ禍という特殊状況下で何らか政治意識が変化しつつあるならば、それをどう現実政治の舞台で表現するか。政党やメディアの踏ん張りどころだ。マージャンしてる場合ではない。うん。自分に言ってる。 (編集委員)

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