9月15日(金):
NHKBSの深夜放送枠のプレミアムシネマでピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本「奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo」(伊・仏:1964:2h17m)を録画しながら鑑賞した。この映画は、複数ある福音書のうち、マタイによる福音書を映像化したものである。録画予約はしてあったが、同時に観ようとは考えていなかった。しかし、見慣れない古代パレスティナの風景・風俗がリアルに再現されていて、機関銃のように注がれるイエスの言葉を字幕で追いかけていくうちに目を離せなくなり、そのまま最後まで見続けてしまった。あと、映画の中に意図的かどうかは知らないが、どの場面でもハエがたくさん映り込んでいたのが妙に印象的だった。
俺は、もちろんクリスチャンではないが、若い時にキリスト教については、それなりに強い関心をもって多くの本を読んでのめり込んだことがある。今でも「エロイ エロイ ラマサバクタニ」「神よ彼らをお許し下さい。彼らは何をしているか知らないのです」や「クオバディス ドミネ」などの言葉がすぐに浮かぶ。特に、小学館・ラルース共同編集「聖書―Color Bible 全8巻」を蔵書として購入し通読していることで旧約聖書(1)~(6)、新約聖書(7)・(8)の内容を一通り映像的イメージとして持てている。話が飛んで恐縮だが、俺が最も興味を持っている旧約聖書の物語は「ヨブ記」である。また、遠藤周作の一連のキリスト教関係の本の記憶もある。
それなりに「イエスの生涯」については、わかっているつもりだったが、この映画を観ていて強く感じたのは、ずいぶん多くのことを忘れてしまっていることへのショックと、まだ覚えられていたことの確認・安心の繰り返しだった。また、イエスが旧約聖書の内容をしきりに引き合いに出して弟子らと語り、律法学者やパリサイ人らの偽善と激しく論議していることで、やはり旧約聖書を前提にして新約聖書の世界(=キリスト教)が成り立っていることを確認できた。その意味で、旧約とキリスト教への強い関心の回帰に役立つ機会となった。正直言って、自分の人生、間口を新たに広げることも大事かもしれないが、そろそろ年齢的に、これまで既に広げ掘り下げてきた世界をもう一度思い出し、掘り下げ直すことの方が大事なんじゃないかと思えることが多くなってきた。
この作品を観ていた感想としては、まず網羅的ではないが基本的エピソードはしっかり押さえているが、順番はかなり違う気がした。先述した古代パレスティナの風景・風俗の描写は、「これが欧米キリスト教徒たちの”原風景”なんだな」と貴重な体験になった。あと、イエスの母マリア役の女優二人とイエス役の俳優がとても良かった。特に、若きマリアを演じた女優には、ミケランジェロのピエタを連想した。イエス役の俳優を見て、イエスが30歳代前半で罪なくして処刑された若者であったことを思い知った。
ペテロの(教えを広める中で)「何度裏切られるまで赦せるのですか。7度ですか。」という問いに、イエスが「7度の70倍だ(ってことは無数であり、最期まで赦し続けろ!ってことだろう)」と答えたシーンも印象的だった。
また、今日では当たり前のイエスの語る神の言葉・行為が、当時のユダヤ教信仰の世界では、ことごとくうわべの飾りをはぎ取って、神への内面の本質的信仰心のみを強く求める”革命的”とも言える言葉・行動であった。イエスの存在そのものが、当時の世の中の価値を反転させる過激なものであり、身の危険を強く覚える中で、わが身の保身を求めようとする心を「悪魔よ去れ!」と叱咤し、自らを奮い立たせようとする
イエス自身の必死さも印象的だった。
映画を観ながら、イエスのことを考え続けながら、自分が若い時と一番違って感じたことは、
イエスの生きた時代の近さ、イエス自身に対する「そんなに昔の人じゃない」という感覚だった。理由の一つは、映像から見えるローマ帝国の風俗は案外と現代的であったこと、もう一つは俺自身が60代を身近に感じる年齢になったことだ。2000年前は、20代の時には自分の人生の約70~90倍ということは、途方もない昔だったが、50年以上生きてみて「50年なんて大して長くなかった」と実感として人生を感じている身には、自分の人生の35~40倍程度の繰り返しでイエスに至れると考えてしまうと「案外、近い時代の人だ」と感じてしまったのだ。
イエスを意外と近い人だと感じ、彼が当時の社会にとっては革命的な宗教改革者であったことなどを確認する中で、叱られるかもしれないがオーム真理教の麻原彰晃を思い浮かべてしまった。しかし、同時に麻原は多くの人を騙し、多くの人の命を奪い、傷付けたのに対して、イエスは多くの人を「奇跡」(?)によって救い、誰一人も傷付けなかった。この一点だけでも、キリスト教とオーム真理教は決定的に違うことを確認した。
あと、イタリア語で、ヨハネをジョバンニと発音することを知って、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出し、カンパネルラは英語?で何と言うのだろう、と考えた。また、インマヌエル・カントのインマヌエルは「神は我々とともに」「天、共に在り」である。シモンが改名してペテロ(「岩」)になった。
イエスを銀貨30枚で売り渡したユダは、「罪なき神の子」を罪に落としてしまったことを悔い、パリサイの司祭どもに銀貨を投げ返し、エルサレムの街を走り抜け、郊外の木で死に急ぐように首をつったシーンが、知っていたが、欠かせないシーンであることを確認した。それから、サロメが、ヘロデ・アンティパスの前で舞を披露した褒美にバプテスマ(洗礼?)のヨハネの首を切って盆に載せることを求めたシーンもきちんと描かれていた。
ザッカーバーグら世界一の金持ちらが、信じられないような寄付行為をしたり、キリスト教世界で盛んなチャリティーもこの映画を観ていて、何となく実感をもって感じられた気がした。彼らの寄付行為は単なる善行ではない。聖書に記された教えに従っているのだ。もちろん、すべてのキリスト教徒がそうだなどという気は全くないが、その一面が存在することも確かなのだろうと思った。
イスラム教で、ムハンマド(人間)の役を俳優がすることはあり得ない。キリスト教では、イエス(神の子)の役を平気で人間の俳優がやってしまえる。考えてみれば、面白い対比である。
【ウィキペディア】
『奇跡の丘』(きせきのおか、伊: Il Vangelo secondo Matteo、英: The Gospel According to St. Matthew、「マタイによる福音書」の意)は、1964年(昭和39年)製作・公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。/「マタイによる福音書」に基づいて処女懐胎、イエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ゴルゴダの丘、復活のエピソードが描かれている。/ヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞を受賞。