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世界一の長寿国 日本3

2014年03月10日 23時10分02秒 | 歴史マニアのひとり言
なぜ、日本史の権力者たちは天皇家を滅ぼして名実ともに自分が日本で一番になろうとしなかったのか?

その答えは簡単で単純。
日本史で政治の実権を握った権力者が、皆日本国民だったから。
日本の国民にとって天皇が国の中で最も尊い存在であり、「越えられない壁」として認識されていたから、日本という国の中で生きて行く以上、天皇を崇め奉るのは当たり前の常識で、犯してはいけない事だった。
仮に、「天皇を滅ぼして俺が新しい国の支配者だ」とでも言おうものなら、それは全ての日本国民を敵に回すという行為であり、平将門であったり織田信長など、それをやろうとした者は悉く途中で失敗している。


また、政治の実権を握った権力者の天皇家との関係も無視することは出来ない。

例えば平安時代の藤原氏。
藤原氏の祖先は大化の改新の中臣鎌足。その中臣氏の祖先は「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」という神話の世界の神様で、その神様は天照大神が隠れた岩戸から外に出る時の手伝いをした神様。つまりは神話の世界までさかのぼると、藤原氏(旧姓中臣氏)は天皇家の忠実な家臣ということになる。

例えば源頼朝や平清盛。
武士で初めて政治の実権を握った平氏の平清盛や、鎌倉幕府を開いた源氏の源頼朝。平氏は「桓武平氏」、源氏は「清和源氏」というのが元々の正式な呼び名で、これは共に天皇家の血筋を引いている事を示している。
つまり桓武平氏とは50代桓武天皇が子供を作りすぎちゃって(35人)、天皇の子供が多すぎて朝廷内での役職が無くなってしまい、朝廷からお役御免でドロップアウトして武士になった桓武天皇の子供(葛原親王)が「桓武平氏」の始まり。清和源氏も全く同じで56代清和天皇が子供をたくさん作りすぎちゃって(19人)、そのうちの1人(貞純親王)が武士になったのが「清和源氏」の始まり。
つまり平氏も源氏も元々は天皇家の人間で共に天皇家の身内と言うことになる。※源氏の「源」とは天皇家と源を同じにするという意味。平氏の「平」は平安京の平。

つまり、平安時代に政治の実権を握った貴族(藤原氏)も鎌倉時代から江戸時代まで政治の実権を握った武士も、天皇家と深い繋がりがあったということで、日本国民として天皇家を崇め奉る事に反することは基本的に行わなかったということではないかと個人的には思っている。

因みに武士が政治の実権を握った順番を見てみると、平清盛:平氏 → 源頼朝:源氏 → 北条氏:平氏 → 足利氏:源氏 → 織田信長:平氏 → 徳川家:源氏
織田信長や徳川家康の血筋の信憑性はかなり怪しいけれど、平氏と源氏の血筋の武士が交互に政治の実権を握ってきたことがわかる。
「天皇家の血筋を引いた武家の棟梁(名門)でなければ、政治の実権は握れない」という考え方は実際にあったのかもしれない。実際に豊臣秀吉は政治の実権を握るにあたって、足利将軍家の養子になって源氏の血筋になって征夷大将軍になろうとしたが、室町幕府15代将軍の足利義昭にその申し出を断られている。


つづく