シャンソン歌手リリ・レイ 長坂 玲 ベルギー時代の音楽パートナー
先程 ベルギーから 電話がありました。
私の かつての 専属伴奏者で 音楽の掛替えの無い パートナーであった
そして 私の西洋文化の 父であり師でもあった
ずーっと 音楽家として 心の支えだった方
今年の5月にも 私はパリから会いに行った
ROBERT REDAELLI
ロベール レダエリ氏が 亡くなりました。
奥様はロベールの死で 気が狂ってしまい病院に入院して
どうにも手が着けられない状況だと言う事で
ロベールの彼女が 私の電話を探して 成城にかけてきてくださいました。
彼女は 私とロベールの コンサートには いつも聞きに来ていらしたし
考えてみれば 三十年近い 知り合いです。
29歳で 私がコンセルバトワールに入学した時
ロベール レダエリ氏から
「自分を玲子の専属伴奏者にしてくれないか」と
頼まれ 何が何だか分からないうちに
数多の リサイタル コンサートの仕事が 舞い込んできました。
ロベールは ブリッセルのコンセルバトワールのピアノ科の
教授で 審査員で フリーメイスン で ゴロワーズの会員で
ロータリアンで 他に 個人のピアノの学校が 何校かあり
その校長でした。
玲子の 音楽こそ 自分が求めてきた 音楽性だ・・・と
褒めちぎられて 音楽のパートナーになりました。
子供の居ない ロベールと 奥様は 共にピアニストで
それは それは 大きな豪邸に 住んでいらして私は
その ご夫婦と お母様にも 娘のように可愛がられ
彼らの家の 音楽室に グランドピアノが 二台ある
大きな部屋に 下宿していた事もあります。
レストラン ワイン 葉巻 煙草 マナー
フランス語の発音 何もかも・・・・
哲学 思想 他
舞台の全ての情報 音楽の全ての裏話 を 吸収しつくしました。
私が 今あるのは ロベールの お陰でもあります。
ベルギー人は フランス人にいつも馬鹿にされているけれど
決して ラテン民族として 劣っていないハイセンスです。
心は 優しいし 几帳面だし
私が パリに 移り住めなくなるだけの魅力がありました。
今年 地震の直後の 涙の電話は ロベールからでした。
「玲子 政府を信じているのか。こちらでは メルトダウンしていると
情報だよ。 フランス人は 帰国しているのだから。」
「私は 逃げないわよ」
「・・・又 電話 掛けていいか」涙・・・・
5月 パリに行ったとき そのお礼に
無事な元気な 私の姿を見せました。
ジャガーの新車で ご夫婦で そろって お洒落していらして
まず シャンパンを一本頼んでくださいました。
レストランで 三人で 楽しみました。美味しかった。
実の父母が居なくなっても ベルギーの父母のようでした。
「葉巻がすいたいけれど ベルギーのレストランも
駄目になってしまったよ」
ダビドゥフの煙草と 葉巻の素晴らしさも 教えてくださった方です。
ロベールレダエリ氏家の中は 美術館のようです。
応接セットが 三セット
ダイニングが 二セット
壁全体に 現代作家の 官能的な絵が 描かれていて
地下は ワインのカーブと 保存室 そして スクリーンの映画室。
三回は ビリヤードルームとか広い 娯楽室。
二階に ビューロー 図書室 寝室と 洗面所お風呂
お風呂付 大きな寝室
覚えきれない 数の部屋
ここかしこに 絵と オブジェ
お庭は2000坪位で 池もあります。
サンテラス に温室のように 観葉植物もあり
グランドピアノや チェンバロが おいてあり
私も よく 弾かせて貰いました。
下宿の身分でしたけれど 来客の時は いつも 仲間に入れて
下さいました。
謙虚で愉快で オペラでも シャンソンでも 音楽が大好きな方で
沢山の映像を見せていただきました。
「どうして子供を作らなかったの?
ご夫妻が音楽家二人の 子供だつたら 素敵なのに・・・」
と訪ねると
「音楽家は 一代きり 子供が 音楽家になれるとは
限らないよ」っと
音楽家 芸術家としての人生を とことん 全うしたかったようです。
82歳
最後まで 美意識の高い紳士のまま 寝込まず 最近まで
毎日 レストランで ご夫婦仲良く 食事していらして
突然の死のようです。
お墓は?
彼の遺言は 灰を 庭にまいてくれ・・・・だそうです。
奥様は狂ってしまい
奥様とも友達である彼女が 全て 仕切る様子です。
今年の年末 パリから ベルギーへ
行き 彼女と会うことにしました。
灰になった ロベールの 庭を歩くのでしょうか・・・
胸が詰まります。
でも
心の中に 音楽の中に ロベールは生きていて
容易には会えない日本とベルギーの距離と
亡くなってこの世に居ない距離感も
差ほど 私には 変わりありません。
彼は 永遠の 音楽の仲間ですから・・・・ただ今日は涙だけこぼれます。
出会いも 別れも 全て必然。
ありがとう ロベール
5月に会えて良かった。
私だって いつかは 音楽の天へ昇るわよ。
まだ もう少し 現世で 修行するの・・・見守ってね。
それに 音楽の子供達が 沢山出来てしまい 責任があるのよ。
思い出の一枚 アルバムに 涙。
29歳の私 ベルギーで始めてのリサイタルの写真。
ロベールは 確か 母と同じ年だから53歳。
今の私より 若かったんだわねぇ...
先程 ベルギーから 電話がありました。
私の かつての 専属伴奏者で 音楽の掛替えの無い パートナーであった
そして 私の西洋文化の 父であり師でもあった
ずーっと 音楽家として 心の支えだった方
今年の5月にも 私はパリから会いに行った
ROBERT REDAELLI
ロベール レダエリ氏が 亡くなりました。
奥様はロベールの死で 気が狂ってしまい病院に入院して
どうにも手が着けられない状況だと言う事で
ロベールの彼女が 私の電話を探して 成城にかけてきてくださいました。
彼女は 私とロベールの コンサートには いつも聞きに来ていらしたし
考えてみれば 三十年近い 知り合いです。
29歳で 私がコンセルバトワールに入学した時
ロベール レダエリ氏から
「自分を玲子の専属伴奏者にしてくれないか」と
頼まれ 何が何だか分からないうちに
数多の リサイタル コンサートの仕事が 舞い込んできました。
ロベールは ブリッセルのコンセルバトワールのピアノ科の
教授で 審査員で フリーメイスン で ゴロワーズの会員で
ロータリアンで 他に 個人のピアノの学校が 何校かあり
その校長でした。
玲子の 音楽こそ 自分が求めてきた 音楽性だ・・・と
褒めちぎられて 音楽のパートナーになりました。
子供の居ない ロベールと 奥様は 共にピアニストで
それは それは 大きな豪邸に 住んでいらして私は
その ご夫婦と お母様にも 娘のように可愛がられ
彼らの家の 音楽室に グランドピアノが 二台ある
大きな部屋に 下宿していた事もあります。
レストラン ワイン 葉巻 煙草 マナー
フランス語の発音 何もかも・・・・
哲学 思想 他
舞台の全ての情報 音楽の全ての裏話 を 吸収しつくしました。
私が 今あるのは ロベールの お陰でもあります。
ベルギー人は フランス人にいつも馬鹿にされているけれど
決して ラテン民族として 劣っていないハイセンスです。
心は 優しいし 几帳面だし
私が パリに 移り住めなくなるだけの魅力がありました。
今年 地震の直後の 涙の電話は ロベールからでした。
「玲子 政府を信じているのか。こちらでは メルトダウンしていると
情報だよ。 フランス人は 帰国しているのだから。」
「私は 逃げないわよ」
「・・・又 電話 掛けていいか」涙・・・・
5月 パリに行ったとき そのお礼に
無事な元気な 私の姿を見せました。
ジャガーの新車で ご夫婦で そろって お洒落していらして
まず シャンパンを一本頼んでくださいました。
レストランで 三人で 楽しみました。美味しかった。
実の父母が居なくなっても ベルギーの父母のようでした。
「葉巻がすいたいけれど ベルギーのレストランも
駄目になってしまったよ」
ダビドゥフの煙草と 葉巻の素晴らしさも 教えてくださった方です。
ロベールレダエリ氏家の中は 美術館のようです。
応接セットが 三セット
ダイニングが 二セット
壁全体に 現代作家の 官能的な絵が 描かれていて
地下は ワインのカーブと 保存室 そして スクリーンの映画室。
三回は ビリヤードルームとか広い 娯楽室。
二階に ビューロー 図書室 寝室と 洗面所お風呂
お風呂付 大きな寝室
覚えきれない 数の部屋
ここかしこに 絵と オブジェ
お庭は2000坪位で 池もあります。
サンテラス に温室のように 観葉植物もあり
グランドピアノや チェンバロが おいてあり
私も よく 弾かせて貰いました。
下宿の身分でしたけれど 来客の時は いつも 仲間に入れて
下さいました。
謙虚で愉快で オペラでも シャンソンでも 音楽が大好きな方で
沢山の映像を見せていただきました。
「どうして子供を作らなかったの?
ご夫妻が音楽家二人の 子供だつたら 素敵なのに・・・」
と訪ねると
「音楽家は 一代きり 子供が 音楽家になれるとは
限らないよ」っと
音楽家 芸術家としての人生を とことん 全うしたかったようです。
82歳
最後まで 美意識の高い紳士のまま 寝込まず 最近まで
毎日 レストランで ご夫婦仲良く 食事していらして
突然の死のようです。
お墓は?
彼の遺言は 灰を 庭にまいてくれ・・・・だそうです。
奥様は狂ってしまい
奥様とも友達である彼女が 全て 仕切る様子です。
今年の年末 パリから ベルギーへ
行き 彼女と会うことにしました。
灰になった ロベールの 庭を歩くのでしょうか・・・
胸が詰まります。
でも
心の中に 音楽の中に ロベールは生きていて
容易には会えない日本とベルギーの距離と
亡くなってこの世に居ない距離感も
差ほど 私には 変わりありません。
彼は 永遠の 音楽の仲間ですから・・・・ただ今日は涙だけこぼれます。
出会いも 別れも 全て必然。
ありがとう ロベール
5月に会えて良かった。
私だって いつかは 音楽の天へ昇るわよ。
まだ もう少し 現世で 修行するの・・・見守ってね。
それに 音楽の子供達が 沢山出来てしまい 責任があるのよ。
思い出の一枚 アルバムに 涙。
29歳の私 ベルギーで始めてのリサイタルの写真。
ロベールは 確か 母と同じ年だから53歳。
今の私より 若かったんだわねぇ...