久しぶりに涼風の夏の朝。七月末なのに 母が育て そして 私が
引継ぎ育てている赤い薔薇が咲きました。
母の私につけた名は 「金の鈴がなる音を出す という意味の玲子」
母は 三面鏡に 福沢諭吉の言葉を貼っていました。
「人生で最も立派で楽しいことは 一生を貫く仕事を持つ事」
私の声と 音楽を 愛し 父が 「音楽家になるのは 瓦こじきだ」と反対する中
芸大受験を 応援してくれました。
私と父とは 良く言い争い 「俺の言う事を聞かないなら娘でも 勘当だ」と言われた私は 19歳で 家を出て 自立と音楽の道を ひた走りました。
今年 母が倒れ 2月1日に 入院して 約半年間
病院からは いつ 亡くなってもおかしくないという 状況の 中
数多の演奏旅行や 海外コンサート 連日と 生徒んへのレッスンやお店など
なかなか お見舞いも行けず 母の臨終に立ち会える事は 無いかもしれないと
芸人の 運命を 淋しく思う時もありましたけれど
7月26日 土曜日の仕事が 終わる頃 夜 六時に 危篤の知らせがありました。
慌てて 母の病床にたどり着くと 母は 目を開いて
酸素マスクをつけ 苦しんでいました。
公務員で教員の妹の手を握り締め 私の到着を懇願していた様子。
「おかあさん 有難う。とても 感謝しているからね。けけ(妹の圭子)も 私も 二人とも
居るし 寂しくないからね。よく頑張って くれてありがとう。何の心配も無いから 。
お母さんの好きな歌を 今 ここで 歌うから 眠ってみたら。 きっと 苦しくないわよ」
二曲 アカペラで歌いました。病院で 母の 耳元で 「愛の賛歌」と
父と居るような気がするから 好きだといっていた 「千の風」 という歌を。
歌い終ると 目を閉じ 眠り始め 苦しみが なくなったようなので 妹は
徹夜の支度の為 家へ一時戻りました。 私は 一人 母の手を握り 酸素マスクの 息を見つめていました。
ほんの 二十分くらいの間 少しづつ 息が 減り 止りました。
看護婦さんを 呼ぶと 心臓は まだ 止っていなかったのですが
眠るように 呼吸しなくなった母を起こす気持ちには なれませんでした。
六ヶ月 点滴と輸血だけで生きていただけの母は 美しい安らかな顔で
夜 7時55分
79年の人生の苦楽から 魂の世界へ旅立ちました。
津田塾を出て 英語の教師だったのに 女遊びをする仕事人間の父に
専業主婦として 生きた 忍の人でした。父の帰りを待つ為に 刺繍をはじめ
コンクールに何度も優勝するほどの 腕になったのに 女が働く事を嫌う男尊女卑の父の
思想に 従い 二人の娘を 「仕事人間」に 厳しく育てました。
私も 妹にとっても 仕事の無い土曜・ 日曜を 選んで 逝ってくれた母に 感謝しました。
こんな暑い夏は 密葬で 静かに 荼毘にふし 葬儀も 仕事に支障の無い日に
ひっそり することを 妹と決めました。
本日昼 私は 悲しみよりも 幸せな気持ちで 母としばしの 現世での別れを いたしますけれど
昨日 の コンサートも 支障なく 行いました。本日も 然りです。
母の 教えが 心と体に染み付いてしまっているようです。
赤い薔薇も咲いて 清々しい 今朝です。
引継ぎ育てている赤い薔薇が咲きました。
母の私につけた名は 「金の鈴がなる音を出す という意味の玲子」
母は 三面鏡に 福沢諭吉の言葉を貼っていました。
「人生で最も立派で楽しいことは 一生を貫く仕事を持つ事」
私の声と 音楽を 愛し 父が 「音楽家になるのは 瓦こじきだ」と反対する中
芸大受験を 応援してくれました。
私と父とは 良く言い争い 「俺の言う事を聞かないなら娘でも 勘当だ」と言われた私は 19歳で 家を出て 自立と音楽の道を ひた走りました。
今年 母が倒れ 2月1日に 入院して 約半年間
病院からは いつ 亡くなってもおかしくないという 状況の 中
数多の演奏旅行や 海外コンサート 連日と 生徒んへのレッスンやお店など
なかなか お見舞いも行けず 母の臨終に立ち会える事は 無いかもしれないと
芸人の 運命を 淋しく思う時もありましたけれど
7月26日 土曜日の仕事が 終わる頃 夜 六時に 危篤の知らせがありました。
慌てて 母の病床にたどり着くと 母は 目を開いて
酸素マスクをつけ 苦しんでいました。
公務員で教員の妹の手を握り締め 私の到着を懇願していた様子。
「おかあさん 有難う。とても 感謝しているからね。けけ(妹の圭子)も 私も 二人とも
居るし 寂しくないからね。よく頑張って くれてありがとう。何の心配も無いから 。
お母さんの好きな歌を 今 ここで 歌うから 眠ってみたら。 きっと 苦しくないわよ」
二曲 アカペラで歌いました。病院で 母の 耳元で 「愛の賛歌」と
父と居るような気がするから 好きだといっていた 「千の風」 という歌を。
歌い終ると 目を閉じ 眠り始め 苦しみが なくなったようなので 妹は
徹夜の支度の為 家へ一時戻りました。 私は 一人 母の手を握り 酸素マスクの 息を見つめていました。
ほんの 二十分くらいの間 少しづつ 息が 減り 止りました。
看護婦さんを 呼ぶと 心臓は まだ 止っていなかったのですが
眠るように 呼吸しなくなった母を起こす気持ちには なれませんでした。
六ヶ月 点滴と輸血だけで生きていただけの母は 美しい安らかな顔で
夜 7時55分
79年の人生の苦楽から 魂の世界へ旅立ちました。
津田塾を出て 英語の教師だったのに 女遊びをする仕事人間の父に
専業主婦として 生きた 忍の人でした。父の帰りを待つ為に 刺繍をはじめ
コンクールに何度も優勝するほどの 腕になったのに 女が働く事を嫌う男尊女卑の父の
思想に 従い 二人の娘を 「仕事人間」に 厳しく育てました。
私も 妹にとっても 仕事の無い土曜・ 日曜を 選んで 逝ってくれた母に 感謝しました。
こんな暑い夏は 密葬で 静かに 荼毘にふし 葬儀も 仕事に支障の無い日に
ひっそり することを 妹と決めました。
本日昼 私は 悲しみよりも 幸せな気持ちで 母としばしの 現世での別れを いたしますけれど
昨日 の コンサートも 支障なく 行いました。本日も 然りです。
母の 教えが 心と体に染み付いてしまっているようです。
赤い薔薇も咲いて 清々しい 今朝です。