私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

千姫ぼたん園で ボタンの花

2022-04-22 15:09:21 | 日記
 4月22日(金)   天気:晴れ   室温:24.2℃

 きょうは、ランズエンドへ ”帽子展” を見に行ったあと、姫路城の千姫ぼたん園へ行き
ました。 千姫ぼたん祭り(主催:千姫ぼたんの会)が 16日に行われたようです。
 ぼたんの花は、多くが 昨日の雨で 散ってしまっています。 残っている花も 見ごろを
過ぎてしまったようで しおれて・・。 ボタンザクラも すでに ちりぬるを・・・。

 











 帰ろうと 時計を見ると 12時を過ぎています。 大急ぎで 駅に戻りましたが、ホーム
へ上がると 12:14の電車は すでに 行ってしまっていて、ホームでは 12:20の智
頭急行のスーパーはくとが 出発するところでした。 次発の12:49の網干行まで 30
分以上 待たされました。  12:35の電車は 廃止されたのです。 便利が悪くなった。


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ランズエンドで 河原雅子 帽子展

2022-04-22 14:57:32 | ギャラリー散策
 4月22日(金)   天気:曇り のち 晴れ   室温:24.1℃

 きょうも、姫路へ行きました。 まず 南八代町のギャラリー ランズエンドへ行き
”河原雅子 帽子展” を見ます。 この後、姫路城の千姫ぼたん園へ行って ぼた
んの花を見ます。 ランズエンドの2階で 帽子展が行われています。 12時から
でしたが、河原さんが 来られていたので、見せていただきました。

 

 





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ルネッサンス・スクエアで 「村上裕介展」

2022-04-21 13:09:18 | ギャラリー散策
 4月21日(木)   天気:曇り のち 雨   室温:22.1℃

 きょうは、姫路市三左衛門堀西の町のギャラリー ルネッサンス・スクエアへ 「村上裕介展」
既視感と未来感の間で ~人の姿・自然の姿~ を見に行きました。
 会場に 新聞の切り抜きがあり、それによると 兵庫教育大学 大学院教授で、現代美術家・
彫刻家の村上裕介さん(明石市在住)の個展が ルネッサンス・スクエアで 開かれている。
あえて 人体の一部を制作せず、独特な存在感を放つ作品が 約20点並ぶ。 展示作品は、石
こうの代わりに、繊維強化プラスチックや漆などを使用。 素材の特性を生かすことで、穴だ
らけの人体表面など 表現の幅を広げた。 ・・・・・


 ルネッサンス・スクエアのホームページによると
 4月の企画展は、彫刻家・村上裕介氏の個展です。
村上さんは、人や自然の不思議さに惹かれ、その中に潜む美しいと感じるものを表現したいとの
思いで、作品を制作。 漆や木、FRP、和紙や銀などの素材を用いながら、美や自然について表現
され、独特の存在感を放つ 彫刻作品を制作されています。 ルネッサンス・スクエアでの個展は
今回が初めてで、大作・小品あわせて 約20点が 展示されます。
作品に込められた、人や自然に対する 村上さんの想いを ぜひ 感じてください。


・村上裕介(むらかみゆうすけ)さんの略歴
 1963年 奈良県に生まれる、 1993年 イスラケ芸術シンポジウム(スロベニア共和国)
 1995年 昭和会展(日動画廊/東京)・個展(ギャラリーイセヨシ/東京)
 2000年 個展(ギャラリーマロニエ/京都、~2002年まで)
 2013年 パナソニック エコテクノロジーセンター モニュメント制作
 2020年 六甲ミーツ・アート 芸術散歩2020(グループ出品)
 






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 帰りに 山陽百貨店の美術画廊に寄りました。 ここでは ”九谷毛筆細字半世紀の歩み 三代
田村敬星展” をしています。 このたび 山陽百貨店にて 百二十五年、一子相伝で伝えられた
九谷細字の作品展を開催させていただくことになりました。 祖父、金星に師事し 五十年。 
技の習得と向上に励みながら 独自の美の世界を求めて 日夜精進してまいりました。


 きょうは 午後 雨の予報だったので、いつもより一つ早い電車で行き、早めに
帰ったので、雨には遭わずにすみました。

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歴史教室 播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道Ⅱ

2022-04-19 13:43:48 | 歴史探索
 4月19日(火)   天気:晴れ    室温:22.2℃

 きょうは、公民館の歴史教室4月に出席しました。 今月は、3月に続き、元城郭研究室長・
中川秀昭先生の ” 播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道Ⅱ” です。
 3月に 行われる予定でしたが、4月に変更されました。  5月は、”たたらの里 西播磨” が
行われる予定です。 きょうは、なぜか 受講者が多く 用意された資料が足りません・・。



1.但馬は 「かねほる里」 ~日本を代表する鉱山王国~中瀬・明延・神子畑・生野銀山~
 ※『桜もちるに嘆き…、 ここに 但馬の国かねほる里の辺に…』。 これは 江戸時代の浮世草子作者・
   井原西鶴の作品である『好色一代男』の冒頭の一節。「かねほる里」とは 生野銀山のことであり、
   主人公は 生野の富豪として 描かれています。

 〇中瀬銀山
  ・天正元年(1573)、氷ノ山を越えてきた因州の旅人が、八木川大日渕付近で 水田作業を
   している中瀬の農民が 砂金を手にしているのを発見
  ・翌年、八木川付近で 金鉱脈を掘り当て、”石間歩” と名付けた。 以降、各地の山師や下財
  (鉱夫)が集結し、次々と優良間歩が開かれた。
  ・その後、豊臣秀吉の支配下、但馬 八木城主別所氏が 代官を務める。
  ・江戸時代は、生野奉行所の直轄鉱山となり、奉行の間宮新左衛門が 陣屋を建て、町の東・西・
   南に 番所を設け、 ”総構え”の金山町を整備
  ・最盛期には、戸数3000戸、寺院も 8寺を数えたが、次第に衰退し、享保8年(1723)
   役所や番所が 廃止され、長い低迷期に入る。
  ・昭和10年(1935) 日本精鉱(株)の所有になり、旧坑道の再開発等が進み、天正から
   江戸期につぐ 昭和の繁栄期を迎えた
 
 〇明延鉱山
  ・ 天平年間(729~748)に 開山し、奈良・東大寺の大仏鋳造に 明延の銅が献上されたと
   伝わる歴史の古い鉱山。   ※両松寺の梵鐘:明延の銅使用
  ・豊臣秀吉の支配、続いて 江戸幕府の下、生野奉行所の所管として、国内有数の銅山、銀山として
   盛衰を繰り返す
  ・明治42年(1909)、錫鉱脈が発見されると 「日本一の錫の鉱山」として栄え、錫の産出量は
   全国の90%を誇った。
  ・他にも 多鉱種を産出、全国から 「山男」が集い、昭和30年代の最盛期には、人口4000人を
   超える鉱山関係者たちが暮らした。
  
 〇神子畑鉱山
  ・平安時代に開山したと伝わる。 15世紀に 採鉱が盛んに
  ・明治新政府が 生野鉱山周辺を調査した結果、明治11年(1878) 銀の新鉱脈を発見、生野
   銀山の支山 「加盛山」として 銀の採鉱始まる。
  ・明治40年(1907)以降、鉱脈は減少。一方、明治42年(1909)、明延鉱山で鈴鉱脈
   を発見、採鉱は 明延へ移った。
  ・その後は、明延鉱山の鉱石を選鉱する 「神子畑選鉱場」 に生まれ変わる。
 
 〇生野鉱山
  ・開鉱1200年の歴史を誇る日本有数の銀山。 大同2年(807) 開鉱と伝わる。
  ・天文11年(1542)に 生野で銀鉱脈が発見されたのを 契機に 但馬守護・山名祐豊が、石見
   銀山の先進技術を導入し、本格的に採掘を始める。
  ・その後、山名氏、太田垣氏は 銀山の支配権を巡って 度々対立したが、後に 織田信長、豊臣秀吉、
   徳川家康へと 経営が移管し、江戸時代には 生野奉行所、さらに享保元年(1716) 生野代官所へ
   変わると、28代の代官が 任務についた。
  ・明治元年(1868) 日本初の官営鉱山となり、お雇い外国人・コワニェや薩摩藩の朝倉盛明の
   尽力により 近代化を牽引、模範鉱山となった。
 
2.近代以降の但馬の鉱山
 
 

 <中瀬鉱山>


 <明延鉱山>


 <神子畑鉱山>


 <生野鉱山>


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◇「鉱石の道」 三つの道
  ・生野鉱山寮馬車道(飾磨津物揚場~生野鉱山)
  ・馬車の鉄道(神子畑~生野)  ※神子畑鋳鉄橋(国重文)、羽淵鋳鉄橋(県指定)など
   当初は 馬車道、明治24年(1891) レール敷設・神子畑鉱山の銀鉱石運搬
  ・明延電車(一円電車)(明延~神子畑・約6km、明延の錫石等運搬)
 
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林田旧三木家住宅で 河野鉄兜展と林田焼

2022-04-18 15:53:41 | ギャラリー散策
 4月18日(月)   天気:曇り   室温:21.8℃

 きょうは、林田町の林田大庄屋旧三木家住宅へ ”河野鉄兜展 と 林田焼” を見に行きま
した。   『河野鉄兜 公式調査記録発見!』
      『鉄兜逸話の遺墨とまぼろしの林田焼里帰り』
 政宇(まさいえ)公(林田藩 第三代藩主) 御手焼龍繪甲皿 も 展示。
 同時開催:端午の節句展も 行われています。 主催:姫路市教育委員会 文化財課



 河野 鉄兜(こうの てっとう 文政8年(1825)12月17日~ 慶応3年(1867)2月6日)
 江戸時代後期・幕末の日本有数の儒者、漢詩人。 播磨国揖東郡 網干垣内(現姫路市網干区垣内)の
医を業とする 河野三省の第3子として 生まれる。 幼名は 俊蔵、本名は 絢夫または 羆(しぐま)、
号は 鉄兜または 秀野を多く用いた。  幼時より 漢詩の才能に優れ「芳野」の七絶は「芳野三絶」の一つ
とされ その詩名は 高い。 伊予 越智氏河野一族の出である。 戦国の世に 長曾我部氏に押され、天明の
頃に 網干垣内に移り住んだ。
 


 鉄兜は、幼時に 医の業を 和久村代谷順治に習い、興浜陣屋の丸亀藩吉田鶴仙に 師事し、姫路藩老 河合
寸翁の創立した仁寿山校にも 学んだといわれる。 21歳で 医業を揖保郡伊津村に開き、のち 江戸に
遊学する。 その後、四方の碩学を訪ね その行脚は 広く遠近にわたる。


 嘉永4年に 林田藩主・建部政和の招きにより仕官し、藩校敬業館の教授となる。 翌年より 山陽諸州を
歴遊し、至る所で 文芸の士と交流する。 特に 頼三樹三郎との交誼は 厚く・・・。
 安政3年に 一度帰郷するも、翌年には 林田に移住し、教務の傍ら 私塾「新塾」を開いた。
 文久3年正月、上京し 当時二条城守護の任にあった藩主建部政和に 謁見し、当時の形勢について意見を
具申した。 同年夏より病に伏せ、回復することなく 慶応3年に 43歳で没した。



 林田焼は、江戸時代前期に 西播磨地方では一番古くから焼かれた焼き物で、京都で活躍した
野々村仁清が 林田に来訪し 指導したとの伝説があります。 資料はありませんが、古清水焼の
色絵や 鉄絵の上品な雅陶品が残っていますので、仁清と林田焼の関係は 否定できないと・・・。
 林田藩3代藩主 建部政宇(たてべ まさのき)が 地元産業奨励のため 姫路市林田町八幡宇河内
東山麓 上構鴨池の西北丘陵地の2ヶ所に 窯を築き 製陶したと伝えられています。


 長皿・扇面皿・香炉・茶碗・向付などに 赤字で陶印がある 半陶半磁の色鮮やかで 高雅な作品で
胎土や 秞調が京焼と似かよっているので 見分けが難しい、貫入を意識して 誇張したつくりは
よく見ると 区別ができます。資料・文献が 乏しく、窯として焼成された期間がわずか数十年で
あること、色絵の鮮やかなことなどから、幻の陶器といわれています。



 
 
 


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