1月13日(金) 天気:晴れ 室温:12.7℃ 地図:安志(南西部)
きょうは 新宮へドライブし 総合センター内の埋蔵文化財センターで 行われている 特別展 ”西播磨
の戦国時代 ~赤松氏の興亡~” を 見てきました。 播磨の歴史で 赤松氏を避けて通ることはできません。
その赤松一族に関して 気になっていることがあり ちょうど いい機会です。 多分 このページの文
字数の都合上 「特別展」は 別ページになるでしょう。
特別展だけ 見るのでは もったいないので 総合センターに 車を置き 南の史跡・宮内遺跡を見て 梅
岳寺へ行き 新宮藩主の五輪塔を見て 北へ歩き 八幡神社 天満神社に お参りし 天神の路から 天神
山に登り 北尾根の大寺山335mへ登り 史跡・吉島古墳に降りて 天神山へ戻り 山から降りて 総
合センターに戻り 特別展(200円)を見ました。
が 大寺山への登りで 道が崩れ 落葉が積もり 道を失い ヤブ斜面を登る羽目に・・。 12月に
登られた MKさんは 迷わず 登られたのでしょうか? 私も 本にある ルートを 歩くつもりでしたが・・・。
きょうは いい天気で いい登山日和の一日で いい史跡探訪ができました。
天気予報は 当てにせず 起きて 空を見て いい天気だったので 決定。 少し遅くなりましたが 9:
20出発。 太子町を抜け 国道179号線に出て 龍野橋を渡り 北へ走ると 新宮です。 姫新線の踏
切を越えた先で左折すると しんぐう総合センターがあります。 広い駐車場に 9:56 車を停めます。
ここまで 16.6km。 9:59 スタート。 総合センターの前から西へ出ると 右に大寺山の山
並が見えます。 正面 左手には 大鳥山が形良くそびえています。 大鳥山は 「播磨国風土記」で 鳳
が 棲んでいたことにより 名付けられた と伝えられています。 ただ 登山口を見付けるのが 難しい・・。
図書館の前を南へ進むと 新宮・宮内遺跡があります。 国の史跡の表示板はありますが 車が停めて
あり 駐車場かと思いました。 新宮・宮内遺跡は 揖保川中流域西岸の沖積平野に 位置する弥生時代
中期を中心とする 縄文時代~平安時代の複合遺跡で 大規模な集落遺跡です。 近年の発掘調査で 多数
の竪穴住居跡、溝、方形周溝墓、円形周溝墓などが 見つかっているそうです。
現在 史跡公園として 「円形周溝墓」、「弥生戦士の墓」、「土拡墓群」 などが 復元されています
が、だっだ広く 分かり難いのです。 梅岳寺へ向かいます。 大鳥居の所にある 「宮内周辺史跡案内」
を見て 左へ進むと 梅岳寺です。 鹿苑山・梅岳寺は 播磨国守護・赤松則佑が 14世紀中頃に
築城した 城山城の鬼門を護る寺として 建立した城禅寺が その始まり と伝えられるそうです。
嘉吉の乱で 赤松氏が 衰徴したのに伴い 寺運も 衰徴しますが 慶長10年(1605) 住持 密室
祖顕が 現在地へ移転し 寺名も 梅岳寺に改め 臨済宗・妙心寺派の末寺となり その後 新宮藩主・
池田薫彰が 新宮藩の菩提寺に 定めました。
境内には 池田薫彰の五輪塔(墓?)があります。 この五輪塔には 上から 空、風、火、水、地
と彫ってありますが これは 陰陽五行説に由来するのでしょうか? 四神相応説によるのでしょうか?
境内には 千本ヒノキ(町指定文化財)もありますが なぜ 千本?
梅岳寺の前を 北へ進むと 八幡神社に突き当ります。 手前にある 天神山古墳(円墳)は パス。
説明書きはありませんが 随身門?があり 赤と青の装束の随身さんがおられます。 拝殿(絵馬
殿?)には 古い絵馬が たくさんあります。 拝殿の裏には 捨て猫(招き猫)が・・・。
八幡神社の右が 宮内天満神社です。 天満神社は 1369年に 創建され 天神(菅原道真)が 祀ら
れています。 赤松氏が 建立した城禅寺の開山住持であった 霊岳宗古禅師の 夢枕に 天神が現れた
ことが きっかけとなり 天神を 城禅寺の鎮守として祀ったのが 当寺の始まりです。
嘉吉の乱のときに 城禅寺一帯は 兵乱に巻き込まれ 衰微するが 天文13年(1544)に 龍野城主
の赤松氏が 中心となり 当社を再建する。 再建に当たり 円教寺や斑鳩寺で活躍した 藤原新右衛門
光重が 棟梁でした。 これが 現在の社殿で 様式は 「竪板葺一間社流造」といい 当時の代表的な建
築様式で 日本社寺建築史上 貴重なもので 本殿は 国の重要文化財ですが 素人には その重要さ
が 分かりません・・。 向拝の唐破風、縣魚?、木鼻などの彫り物が 立派なのは 分かります。
横の広場・ゲートボール場には とんどが 出来上がっています。 見張り番が居ませんが 大丈夫で
しょうか? 14日の新聞にあった 安富町関のとんどと 似た形ですが 安富町のとんどは 中心のササ
が溢れそうですが ここのは ササが一本だけで 寂しい・・。
広場の右奥が 天神山の登山口で 10:42 ここから ”天神の小路” の遊歩道を 歩きます。 急な
登りを 右に左に折り返しながら 落葉の積もる道を登ります。 後方に 新宮の街が望めますが・・・。
10:57 15分ほど 登り 展望舎のある天神山168mに 登りました。
天神山は 神奈備型の美しい三角形の山容を誇る山で 「播磨国風土記」 には 飯盛山と記され
ており 讃岐国宗達郡(丸亀市)から 飯盛大刀自がやってきて この山にいた ことによるそうです。
南の展望は 良好ですが この濃いモヤでは 折角の景色も さっぱりです。 北へ降ります。
急な下りですが 一部のシダ道を除けば 落葉のいい道です。 鞍部へ降りると 道標があり 左へ
行くと 文化会館の方へ行きます。 ここは 直進して 緩やかに シダ道を登ります。
少し登ると分岐に出ます。 ここに 「吉島古墳→」 の道標があったと思いましたが 見当たりません。
前回は 6年ほど前ですが 本のルートで登ったことがあり 95%は 覚えているので 地図はありませ
ん。 この分岐には 左に 大寺山の札があり 迷わず 左へ進みます。 しばらくは 道でしたが・・・。
谷のような所へ出ると ガレた枯れ沢になり 道が無くなりました。 私の記憶で 欠落した5%の個所
です。 ここで 左の尾根を 回り込まなければ・・。 左下に 谷を見ながら ササの斜面を歩いた記憶は
あるのです。 MKさんは 遊歩道には ほど遠いが 標識とテープがあり 迷うことなく登っていける?
と書いておられます・。 ここで迷う私は 子羊?
谷状の所を 少し進むと 後に引けなくなり 左の尾根に上がり 尾根のような所を 登りましたが ここ
は 急斜面の雑木ヤブで 土はボロボロ崩れ 掴んだ枝は ボロっと折れるし 登るに苦労しました。
上の尾根が近くなると 桧の林になり 切られた小枝が 束ねて置いてあり これが また 邪魔で・・・。
後で 地図を見ると 吉島古墳への分岐を左へ進み すぐ現れる谷を進み 左の南南西に降りる尾根
を 真っ直ぐ 北へ登ったようです。
11:46 尾根に上がりました。 いい尾根道が 北へ延びていて 直ぐに居場所が 理解できました。
地図の南へ延びる310m等高線の先端です。 北の335m標高点の大寺山へ向かいます。 ここ
は 極楽尾根です。 大寺山から 左(西)に降りる所に 「←大寺山」の道標があります。
急な下りを 降りると 「大寺山城跡」 標識がありますが・・。 南斜面に 段々状の削平地があったは
ずですが 見当たりません。 大寺山城は 南面する尾根上に 5段の連続する削平地を設けている中
世の山城遺構ですが 文献等には まったく 現れてこないそうです。
さらに 西のピーク(等高線320m) に登ると 賑やかに ピンクのテープがあり 尾根は ここから
南に降りています。 OAPさんが 西の高倉山へ歩かれた尾根には 道がありそうです。
大寺廃寺へ降りる道が 見当たりません。 この辺りも 荒れていて 枯れたシダのヤブです。 南へ
降りると 大寺山廃寺の標識があり 「吉島古墳→」の道標もあります。 大寺山廃寺は 城禅寺 開山
堂、鐘楼があったと伝えられる 中世山岳寺院で 尾根上、山腹、谷部に 4ヵ所の平坦地があり 基壇
跡や 礎石跡が残り 五輪塔や 中世の土器片などが 散乱している? 確か 下に平坦地が あったと
思いますが 降りる気は しません。 城跡と 廃寺跡は 見たことにして ここから 引き返しました。
大寺山の山頂は 尾根を 右に曲がった辺りですが なだらかで 分かり難いです。 残念ながら
きょう 歩いたルートには 三角点がありません。 せめて 大寺山に 山名表示がほしい・・。
極楽尾根を歩き 尾根の先端で 左に曲がると 落葉の積もった急傾斜で よく滑ります。 急斜
面を降りた 開けた所が 国指定史跡の吉島古墳です。 尾根の先端のような感じですが 前方後円墳です。
吉島古墳は 古墳時代前期のもので 全長は 約30mで 竪穴石室からは 播磨地方では 最多となる
6面の銅鏡が 出土したそうです。 播磨では 最古級の古墳で 大和政権との密接な関係が うかがえる。
ここは 高台で 絶好の展望台で 左下には 揖保川に架かる水門が見え 東の山並も 見えます。
多分 旧姫路市最高峰の葛城山も見えているはずです。 南には 新宮の街の奥に 寝釈迦の鶏籠山、
的場山、亀山が 並んでいます。 手前の山は 大鳥山、島のように浮かぶのは 新田山です。
東にも道がありますが ここから南へ降ります。 急な下りを ジグザグに降ります。 以前より
道が良くなったような・・。 東寄りに降りて 分岐に降りました。 とうこさんが 間違えて 東へ
降りた訳が分かりました。 分岐の手前 10mほどの所に やや分かり難い 分岐があり これを
直進すると 東へ降りてしまう? 手前の分岐を 右へ曲がると 道標のある分岐に出ます。 この
辺りは 以前とは 様子が違うような・・・。 西へ戻ります。 歩きやすい いい道です。
大寺山への分岐に戻り 南へ。 天神山へ登り返し 12:55? 天神山へ。 東屋に座り 昼食。
さらに 天神の小路を南へ 降ります。 天満神社へ降りて 階段を降り 住宅地を 適当に歩いて
13:27 はりま総合センターの車に 戻りました。 きょうは よく歩きました。
車で 一息入れ 総合センターにある たつの市立埋蔵文化センターで 行われている 特別展
”西播磨の戦国時代” を見に行きます。 つづきは 次のページで 書きます。
。。。。。。 。。。。。。。
きょうは 新宮へドライブし 総合センター内の埋蔵文化財センターで 行われている 特別展 ”西播磨
の戦国時代 ~赤松氏の興亡~” を 見てきました。 播磨の歴史で 赤松氏を避けて通ることはできません。
その赤松一族に関して 気になっていることがあり ちょうど いい機会です。 多分 このページの文
字数の都合上 「特別展」は 別ページになるでしょう。
特別展だけ 見るのでは もったいないので 総合センターに 車を置き 南の史跡・宮内遺跡を見て 梅
岳寺へ行き 新宮藩主の五輪塔を見て 北へ歩き 八幡神社 天満神社に お参りし 天神の路から 天神
山に登り 北尾根の大寺山335mへ登り 史跡・吉島古墳に降りて 天神山へ戻り 山から降りて 総
合センターに戻り 特別展(200円)を見ました。
が 大寺山への登りで 道が崩れ 落葉が積もり 道を失い ヤブ斜面を登る羽目に・・。 12月に
登られた MKさんは 迷わず 登られたのでしょうか? 私も 本にある ルートを 歩くつもりでしたが・・・。
きょうは いい天気で いい登山日和の一日で いい史跡探訪ができました。
天気予報は 当てにせず 起きて 空を見て いい天気だったので 決定。 少し遅くなりましたが 9:
20出発。 太子町を抜け 国道179号線に出て 龍野橋を渡り 北へ走ると 新宮です。 姫新線の踏
切を越えた先で左折すると しんぐう総合センターがあります。 広い駐車場に 9:56 車を停めます。
ここまで 16.6km。 9:59 スタート。 総合センターの前から西へ出ると 右に大寺山の山
並が見えます。 正面 左手には 大鳥山が形良くそびえています。 大鳥山は 「播磨国風土記」で 鳳
が 棲んでいたことにより 名付けられた と伝えられています。 ただ 登山口を見付けるのが 難しい・・。
図書館の前を南へ進むと 新宮・宮内遺跡があります。 国の史跡の表示板はありますが 車が停めて
あり 駐車場かと思いました。 新宮・宮内遺跡は 揖保川中流域西岸の沖積平野に 位置する弥生時代
中期を中心とする 縄文時代~平安時代の複合遺跡で 大規模な集落遺跡です。 近年の発掘調査で 多数
の竪穴住居跡、溝、方形周溝墓、円形周溝墓などが 見つかっているそうです。
現在 史跡公園として 「円形周溝墓」、「弥生戦士の墓」、「土拡墓群」 などが 復元されています
が、だっだ広く 分かり難いのです。 梅岳寺へ向かいます。 大鳥居の所にある 「宮内周辺史跡案内」
を見て 左へ進むと 梅岳寺です。 鹿苑山・梅岳寺は 播磨国守護・赤松則佑が 14世紀中頃に
築城した 城山城の鬼門を護る寺として 建立した城禅寺が その始まり と伝えられるそうです。
嘉吉の乱で 赤松氏が 衰徴したのに伴い 寺運も 衰徴しますが 慶長10年(1605) 住持 密室
祖顕が 現在地へ移転し 寺名も 梅岳寺に改め 臨済宗・妙心寺派の末寺となり その後 新宮藩主・
池田薫彰が 新宮藩の菩提寺に 定めました。
境内には 池田薫彰の五輪塔(墓?)があります。 この五輪塔には 上から 空、風、火、水、地
と彫ってありますが これは 陰陽五行説に由来するのでしょうか? 四神相応説によるのでしょうか?
境内には 千本ヒノキ(町指定文化財)もありますが なぜ 千本?
梅岳寺の前を 北へ進むと 八幡神社に突き当ります。 手前にある 天神山古墳(円墳)は パス。
説明書きはありませんが 随身門?があり 赤と青の装束の随身さんがおられます。 拝殿(絵馬
殿?)には 古い絵馬が たくさんあります。 拝殿の裏には 捨て猫(招き猫)が・・・。
八幡神社の右が 宮内天満神社です。 天満神社は 1369年に 創建され 天神(菅原道真)が 祀ら
れています。 赤松氏が 建立した城禅寺の開山住持であった 霊岳宗古禅師の 夢枕に 天神が現れた
ことが きっかけとなり 天神を 城禅寺の鎮守として祀ったのが 当寺の始まりです。
嘉吉の乱のときに 城禅寺一帯は 兵乱に巻き込まれ 衰微するが 天文13年(1544)に 龍野城主
の赤松氏が 中心となり 当社を再建する。 再建に当たり 円教寺や斑鳩寺で活躍した 藤原新右衛門
光重が 棟梁でした。 これが 現在の社殿で 様式は 「竪板葺一間社流造」といい 当時の代表的な建
築様式で 日本社寺建築史上 貴重なもので 本殿は 国の重要文化財ですが 素人には その重要さ
が 分かりません・・。 向拝の唐破風、縣魚?、木鼻などの彫り物が 立派なのは 分かります。
横の広場・ゲートボール場には とんどが 出来上がっています。 見張り番が居ませんが 大丈夫で
しょうか? 14日の新聞にあった 安富町関のとんどと 似た形ですが 安富町のとんどは 中心のササ
が溢れそうですが ここのは ササが一本だけで 寂しい・・。
広場の右奥が 天神山の登山口で 10:42 ここから ”天神の小路” の遊歩道を 歩きます。 急な
登りを 右に左に折り返しながら 落葉の積もる道を登ります。 後方に 新宮の街が望めますが・・・。
10:57 15分ほど 登り 展望舎のある天神山168mに 登りました。
天神山は 神奈備型の美しい三角形の山容を誇る山で 「播磨国風土記」 には 飯盛山と記され
ており 讃岐国宗達郡(丸亀市)から 飯盛大刀自がやってきて この山にいた ことによるそうです。
南の展望は 良好ですが この濃いモヤでは 折角の景色も さっぱりです。 北へ降ります。
急な下りですが 一部のシダ道を除けば 落葉のいい道です。 鞍部へ降りると 道標があり 左へ
行くと 文化会館の方へ行きます。 ここは 直進して 緩やかに シダ道を登ります。
少し登ると分岐に出ます。 ここに 「吉島古墳→」 の道標があったと思いましたが 見当たりません。
前回は 6年ほど前ですが 本のルートで登ったことがあり 95%は 覚えているので 地図はありませ
ん。 この分岐には 左に 大寺山の札があり 迷わず 左へ進みます。 しばらくは 道でしたが・・・。
谷のような所へ出ると ガレた枯れ沢になり 道が無くなりました。 私の記憶で 欠落した5%の個所
です。 ここで 左の尾根を 回り込まなければ・・。 左下に 谷を見ながら ササの斜面を歩いた記憶は
あるのです。 MKさんは 遊歩道には ほど遠いが 標識とテープがあり 迷うことなく登っていける?
と書いておられます・。 ここで迷う私は 子羊?
谷状の所を 少し進むと 後に引けなくなり 左の尾根に上がり 尾根のような所を 登りましたが ここ
は 急斜面の雑木ヤブで 土はボロボロ崩れ 掴んだ枝は ボロっと折れるし 登るに苦労しました。
上の尾根が近くなると 桧の林になり 切られた小枝が 束ねて置いてあり これが また 邪魔で・・・。
後で 地図を見ると 吉島古墳への分岐を左へ進み すぐ現れる谷を進み 左の南南西に降りる尾根
を 真っ直ぐ 北へ登ったようです。
11:46 尾根に上がりました。 いい尾根道が 北へ延びていて 直ぐに居場所が 理解できました。
地図の南へ延びる310m等高線の先端です。 北の335m標高点の大寺山へ向かいます。 ここ
は 極楽尾根です。 大寺山から 左(西)に降りる所に 「←大寺山」の道標があります。
急な下りを 降りると 「大寺山城跡」 標識がありますが・・。 南斜面に 段々状の削平地があったは
ずですが 見当たりません。 大寺山城は 南面する尾根上に 5段の連続する削平地を設けている中
世の山城遺構ですが 文献等には まったく 現れてこないそうです。
さらに 西のピーク(等高線320m) に登ると 賑やかに ピンクのテープがあり 尾根は ここから
南に降りています。 OAPさんが 西の高倉山へ歩かれた尾根には 道がありそうです。
大寺廃寺へ降りる道が 見当たりません。 この辺りも 荒れていて 枯れたシダのヤブです。 南へ
降りると 大寺山廃寺の標識があり 「吉島古墳→」の道標もあります。 大寺山廃寺は 城禅寺 開山
堂、鐘楼があったと伝えられる 中世山岳寺院で 尾根上、山腹、谷部に 4ヵ所の平坦地があり 基壇
跡や 礎石跡が残り 五輪塔や 中世の土器片などが 散乱している? 確か 下に平坦地が あったと
思いますが 降りる気は しません。 城跡と 廃寺跡は 見たことにして ここから 引き返しました。
大寺山の山頂は 尾根を 右に曲がった辺りですが なだらかで 分かり難いです。 残念ながら
きょう 歩いたルートには 三角点がありません。 せめて 大寺山に 山名表示がほしい・・。
極楽尾根を歩き 尾根の先端で 左に曲がると 落葉の積もった急傾斜で よく滑ります。 急斜
面を降りた 開けた所が 国指定史跡の吉島古墳です。 尾根の先端のような感じですが 前方後円墳です。
吉島古墳は 古墳時代前期のもので 全長は 約30mで 竪穴石室からは 播磨地方では 最多となる
6面の銅鏡が 出土したそうです。 播磨では 最古級の古墳で 大和政権との密接な関係が うかがえる。
ここは 高台で 絶好の展望台で 左下には 揖保川に架かる水門が見え 東の山並も 見えます。
多分 旧姫路市最高峰の葛城山も見えているはずです。 南には 新宮の街の奥に 寝釈迦の鶏籠山、
的場山、亀山が 並んでいます。 手前の山は 大鳥山、島のように浮かぶのは 新田山です。
東にも道がありますが ここから南へ降ります。 急な下りを ジグザグに降ります。 以前より
道が良くなったような・・。 東寄りに降りて 分岐に降りました。 とうこさんが 間違えて 東へ
降りた訳が分かりました。 分岐の手前 10mほどの所に やや分かり難い 分岐があり これを
直進すると 東へ降りてしまう? 手前の分岐を 右へ曲がると 道標のある分岐に出ます。 この
辺りは 以前とは 様子が違うような・・・。 西へ戻ります。 歩きやすい いい道です。
大寺山への分岐に戻り 南へ。 天神山へ登り返し 12:55? 天神山へ。 東屋に座り 昼食。
さらに 天神の小路を南へ 降ります。 天満神社へ降りて 階段を降り 住宅地を 適当に歩いて
13:27 はりま総合センターの車に 戻りました。 きょうは よく歩きました。
車で 一息入れ 総合センターにある たつの市立埋蔵文化センターで 行われている 特別展
”西播磨の戦国時代” を見に行きます。 つづきは 次のページで 書きます。
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