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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室 「考古学からみた姫路の歴史」

2016-10-04 12:46:07 | 歴史探索
 10月 4日(火)   天気:曇り   室温;28.0℃

 きょうは 公民館の歴史教室に 出席しました。  今月は 姫路市 市政出前講座 「考古学からみた
姫路の歴史」  『魏志倭人伝』 の頃の旭陽地区  ~和久遺跡の発掘調査 成果を中心に~
ということで 姫路市埋蔵文化財センターの小芝 治子さんの講義が行われました。
 小芝さんは 2011年に 行われた和久遺跡の発掘調査に携われたそうで きょう 発掘された土器な
どを たくさん持ってきていただき 触らせていただきました。 また 資料も 多く用意していただき A4サ
イズで 計22ページもあります。  とても 全部を 紹介することはできません。
 和久遺跡は 平成12年(2000) と 平成23年(2011)の2度にわたり 発掘調査が 行われ 現地説
明会が 行われましたが 平成12年は まだ ブログを書いていませんでした。  平成23年12月10日の
2度目の現地説明会の様子は 12月8日の ”和久遺跡” ページを 見てください。


  姫路市 市政出前講座 「考古学からみた姫路の歴史」
  『魏志倭人伝』 の頃の旭陽地区  ~和久遺跡の発掘調査 成果を中心に~
                           日時 : 平成28年10月4日 10:00~11:30
                           会場 : 旭陽公民館
                           担当 : 姫路市埋蔵文化財センター 小芝 治子

 1.はじめに
  ・考古学とは?・・・考古学は いろいろな時代に 地球上で暮らした人々が 遺したモノの資料により
    それぞれの場所と 人々の生活、文化、社会、歴史などを 明らかにする学問です。

 2.『魏志倭人伝』 の頃の旭陽地区
 (1)和久遺跡について
  ・所在地 : 姫路市網干区和久、勝原区朝日谷 (大津茂川の西、JR と 県道との間)
  ・発掘調査の契機 : 塚崎病院建設の工事現場から 土器が出てきた。
  ・遺跡の概要 : 発掘調査で 弥生時代後期から 古墳時代初頭にかけての竪穴住居跡が 確認され
    大きな集落があったことが 分かりました。 その後の範囲確認調査によって およそ400m四方の
    範囲から 弥生時代前期から 古墳時代中期頃の土杭や溝、建物跡などが 見つかりました。
  ・資料1の年表によると 西暦57年に 後漢の光武帝が 倭奴国王に金印を 与えた。
     239年 邪馬台国の女王・卑弥呼が 魏に 使者を派遣(魏志) とあり
     弥生時代後期 和久遺跡に集落があり 人々が 生活していた時代と 一致します。
    
 (2)弥生時代について
  ・いつから いつまで? : 弥生時代は 紀元前4世紀頃から 3世紀頃で 縄文時代から 徐々に弥生時代に
     移行し 古墳時代へも 徐々に 移行します。 弥生時代は 前期、中期、後期に 分けられます。  
  ・新たな文化の受容
  ・稲作と戦いのはじまり : 狩りや漁、、採集を 生活の根源として暮らしていた時代が 長く続きましたが
     大陸から もたらされた稲作文化が 大きな転換をもたらします。 食糧の安定した供給により
     人々の生活力は 飛躍的に向上し その後の人口増加、集落の拡大へとつながった。
     一方 集落や 水田の拡大は 隣接する集落との水利権争いの火種を 作り出すことになります。
     弥生時代になると 武器が 出土するようになります。 遺跡から 石剣が 突き刺さった人骨が発見され
     戦いの時代となったことが 明らかになりました。
  ・身分差の成立 : 集落や 地域間の係争を収める 知力と武力を備えたリーダーが 集落を指揮し 勢力の
     拡大に努めたと考えられ 彼らの墓では 遺体の傍らに 力の象徴として 剣が供えられた。

 (3)『魏志倭人伝』 について
  ・『三国志』 巻三十 「烏丸鮮卑東夷伝」 第三十 「倭人条」
    倭人は 帯方郡の東南の大洋の中にいる。 そびえ立った島に クニを作っている。 もとは 百余か国
    あった。 漢の時代に 朝貢した者がある。 今 通詞を介し 朝貢しているのは 三十か国である。
   ・朝貢(ちょうこう)は、主に 前近代の中国を中心とした貿易の形態。 中国の皇帝に対して 周辺国の
    君主が貢物を捧げ これに対して 皇帝側が 確かに君主であると認めて 恩賜を 与えるという形式を
    持って成立する。  
  ・女王 卑弥呼 : 国も 元々は 男子を王にしていた。 治制七、八十年で 倭国に 戦乱が起き 互いに
    攻め合い 何年にもなった。 そこで 一人の女子を(各国の王が)擁立して 王位につけた。
    その名を 卑弥呼といった。

  ・庄内式期とは : 卑弥呼の時代の土器、庄内式土器は 弥生土器と古墳時代の土師器をつなぐ位置にある。
     このことは 庄内式土器が 弥生土器の伝統を引く土器と 新しい特徴を持つ土器とが 一緒になって
     構成されることに よく表れる。 弥生時代後期の庄内式甕は 成形時に タタキ、ケズリが導入され
     土器の厚みを 極限まで 薄くした。 部分的には 1~2mmの土器もある。


 (4)和久遺跡にみる 『魏志倭人伝』 の記述
  ・ヘン豆手食・・・飲食には 竹製、木製の高坏を用い 手づかみで食べる。
  ・国有市交易有無・・・国と国とに 交易が行われて 市が立っていて 余剰品と不足品を交換し・・・
  ・倭国乱相攻伐歴年・・・治世七、八十年で 倭国に戦乱が起き 互いに攻め合い・・・
  

 3.おわりに
    和久遺跡は 第1・9次調査で 確認した集落では 少量ながら 在地産の庄内式甕が出土しており 付近に
    瓢塚古墳や 山戸4号墳などの前期古墳が存在することを 勘案すると 弥生から古墳への時代の転換期に
    和久遺跡の人々が 活躍した様子がうかがえます。 また 大量の土器の中には 讃岐や 阿波、山陰、河内
    などの 遠隔地から持ち込まれたものがあり 他地域との交流が 行われていたことも 明らかになりました。


≪ 追 記 ≫
 10月18日の新聞に 滋賀県彦根市の稲部遺跡で 弥生時代末(3世紀初め)~古墳時代初めの大型建物の
 遺構が確認された とあります。 邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて この地域の拠点的な
 集落だったらしい。 琵琶湖東岸には 強大な地域勢力があったそうですが 『魏志倭人伝』 にある三十か国の
 クニの一つと みられるようです。
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