私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

官兵衛ゆかりの地めぐり・御着

2014-09-09 16:35:41 | 歴史探索
 9月 9日(火)  天気:晴れ  室温:31.4℃

 きょう 見野の郷 交流館ヘ行った ついでに 御着城址周辺を 歩いてきました。
”黒田官兵衛ゆかりの地めぐり・御着” のパンフレットを参考に 黒田家廟所、小寺大明神、
徳證寺、法華寺、庚申堂、大歳神社、延命寺 などを めぐりました。 パンフには
 若き官兵衛が 城主・小寺政職に その才能を認められ 側近として 仕えたのが 御着城。
かっての城の縄張り図を 見ながら 歩いて 当時の様子を 感じてみてください・・。
 御着とは 神宮皇后が 外征の途次 此の地に 上陸 お立ち寄り 遊ばされたので 御着
と 言い慣わしたといわれている・・・。 近くには 天平年間に 播磨国分寺が 創建され 此
の地は 古くから 開け 交通も頻繁であったと 考えられます。 承和年間(834~)には 延
命寺が 創建されました。

 美野の郷・交流館を後にし 国道312号線に出て 北へ行き JRの下を潜り 国道2号線に
突き当たり 右折して 東へ行くと 左に御着城跡があります。 12:25 駐車。 交流館から
約3km。 まず 御着城跡周辺を散策します。
≪播磨御着の年譜≫
 四世紀  神宮皇后外征の途次 此の地に 上陸 お立ち寄り遊ばされた故 御着という。
 天平年間 近くに 播磨国国分寺が創建され 国府も 付近に 設けられた。
 承和年間 最澄伝教大師の高弟・円仁慈覚大師が 延命寺を開基する。
 延喜年間 大歳神社の発祥といわれる吾馬負明神社は すでに 御着に存在した。

 御着城は 茶臼山城、天川城とも呼ばれる。 赤松氏の一族で 西播磨 最大の領主だった 小寺氏の
本城。 小寺政職に その才能を認められた官兵衛は 家督を継ぐまで 御着城で 政職の近習として
仕えました。 永正の昔 政隆が築城、東と北は 四重の濠をめぐらし 西と南は 天川を外濠に利用。
 茶臼山という高さ約5mの丘上に 本丸があった。 当時としては 大がかりな 城砦兼居館の形の平城
であった。 城主・三代 約60年間 続いたが 天正年間 羽柴秀吉の軍勢に 攻められ 落城した。


 黒田官兵衛の祖父・重隆と 生母・明石氏を祀る廟所があります。 先祖は 御着城主・小寺家に
仕えた家老でした。 かっては 黒田家の菩提寺・心光寺に葬られていましたが 後に この場所に
移された。  しかし おかしいなと思うのは 祖父と母の墓が 一緒に 御着にあり 父親の墓だけ
妻鹿にあるのは・・・。


 廟所に向かって 左が 重隆公、右が 明石氏の五輪塔です。 天正15年(1587)5月 縁りの
御着城址に改装された。 その後 享和2年(1802)に至り 後裔の福岡藩主の命に依り 藩士・
主司喜多村氏他10余名が 用材木石等 筑前より 運び 11月 廟所が 完成した。 昭和43年
黒田家において 完全な修復がなされた。 姫路指定の文化財となっています。


 次は 小寺大明神。 陸橋を渡って 国道を越えたところにあります。 御着城主・小寺家三代と
その家臣を祀っています。 毎年 4月29日には 黒田家、小寺家、天川家の関係者が 集まって
祖先慰霊の大祭が 行われます。 公園内に 城主供養の墓と 天川政隆氏の歌碑があります。
御着橋から 天川橋へと歩き 徳證寺へ向かいます。
旧天川橋は 長さ25mの総石造りの太鼓橋でしたが 今は 城址の北に 移築・復元されています。


 金剛山徳證寺は 初め 播磨国國分尼寺で 真言宗の古刹でした。 二代目石見道悦上人の代に
御着城主・小寺政隆 帰依し その子・則職の代に 寺を 御着城内に移して 徳證寺と号づけた。
君臣共に 甲冑を脱がずして 参詣怠らずと 鐘銘にある。



 法華寺の入口に 説明板があり 法華寺に 江戸時代後半から 代々 御着在住の医師であった
衣笠家の墓がある。 衣笠元超(玄超)は 京都の白川御殿で 御殿医として仕え 後に 諸国を
行脚し この地を訪れた際に 大庄屋・天川氏の知遇を受け 医院を開業したという。
 その子・衣笠元眞(玄眞)は 家業を継ぎ 医者をする傍ら 漢字を教えていた。 また 姫路藩が
文政11年(1828)に 山陽道に架橋した旧天川橋に 刻まれた詩を 書いた書家と伝えられる。
 元眞の弟・三省の孫である河野鉄兜(林田藩の藩校・敬業館の教授、漢詩人 網干生まれ)は
18歳の時 網干から 藩外の仁寿校に入学するため 一時期 衣笠家の養子になった・・・。


 庚申は 干支の一つで かのえさる という。 庚申堂は 庚申待ちの祭神の青面金剛を祀った
お堂。 庚申待ちは 庚申の夜 仏家では 帝釈天および青面金剛を 神道では 猿田彦を祀って
徹夜する風習である。 中国の道教の守庚申に由来する。
 大榎は 樹齢6、700年といわれる。 天正7年12月 秀吉の軍勢が 御着城を守る城兵と 戦っ
てきた様子を 眺めてきた榎です。 

 1時を少し過ぎ 庚申堂に居ると 一時の風と共に 新幹線が 走り去って行きました。 とっさに
写真は 撮りましたが 帰ってから パンフレットを見ると 後方にある山は 火山というようです。
今は 南山でしょうが・・。 神楽山とも言うそうです。  牛堂山縁起書に 神宮皇后の御時 黒
牛 此の地に 化現す。 辰巳の山より 出で来る。 山号を牛堂山としたのは 東の火山より 霊
牛 現れ 国分寺造営の材を 此の牛 一つして 運びしによるとか・・。
 天正7年(1579) 火山に 陣を置いた 秀吉の大軍が 御着城を攻めた時 城兵一同が 天川を
渡って 火花を散らして 戦い 寄手を追い詰めなぎ立てたので 秀吉は 馬に鞭打ち 馳せ去り 兵
は 敗走して 火山の辰巳の谷へ逃げ込んだ。 その時より 此の谷を 引き入れ谷という。
姫路城主・小寺頼季の歌
 いにしえの 神のいさめの 火の山を かぐらの山と 名づけたるらん


 大歳神社は 御着村の氏宮で 創立時期は 不詳であるが 国内神名帳に 吾馬負神(あまおい
のかみ)とあるのは 当社といわれる。 拝殿に 天保、明治、大正以来奉納の絵馬が 数多く掲げ
られている。 境内には 姫路市指定の保存樹・大楠がそびえている。 



 延命寺は 天台宗に属し 円仁慈覚大師 自ら 本尊阿弥陀如来像を刻み 創立された寺で 古くは
延暦寺の別院と称した巨刹であったが 天正の兵火で 焼失した。 明治18年 明治天皇が 山陽
道 御巡幸の際 玉駕を停めさせ給いし故 御着御小休所として 史跡に指定されたが 戦後 指定を
解除された。



 延命寺から 2国へ出て 車に戻りました。 13:41 帰路につきます。 帰りは バイパスは
走らず 国道2号線から 姫路駅の南へ出て JRに沿って 県道415号線で 英賀保の駅前を
通って 帰りました。 途中で 買い物をして 14:49 帰着。
本日の走行距離は 往路:美野の郷まで 20.1km 御着まで 2.9km 復路:16.2kmで
計:39.2kmでした。
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