9月26日(土) 天気:曇り のち 晴れ? 室温:25.1℃
今回の山歩きは 2005.3.29に登った 備中松山城と 北の臥牛山487mです。
備中松山城は 岡山県高梁市の高梁川の東にあります。 高梁市のHPによると
標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守の山城として
は 最も高い所にあり 江戸時代に建てられた 現存12天守のうちの一つです。
鎌倉時代、有漢郷の地頭秋庭重信が 大松山に城を築いたのを起源とし、天和三年(168
3)に 水谷勝宗によって 3年がかりで 修築され、今の天守の姿になりました。 この地は
山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は 激しい争奪戦が
絶えず、目まぐるしく城主交代が 繰り返されています。

登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたち
が 舌を巻いた ”難攻不落の名城” の面影をうかがい知ることができます。 白い漆喰塗りの
壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。 秋には 大手門付近の木々が紅葉
し、岩壁が 燃えるような朱色に覆われる景色は 圧巻です。
※ふいご峠から 城の本丸付近へは 山道を徒歩20分程度の道のりとなっています。 整備
されてはおりますが、滑りやすい部分もありますので、歩きやすい靴で気を付けて お進みください。

小松山城跡(備中松山城)は 小松山の山頂を中心に 築かれた近世城郭で、場内には 天守、
二重櫓、土塀の一部が 現存しており、昭和16年には、天守に 国宝(昭和25年に 重要文化
財)の指定を受けている。 平成6年度から 本丸が 復元整備され、本丸南御門をはじめ、東
御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが 復元されています。

05年に登った時は 桜のシーズンだったからか 城見橋公園まで 車で行き、公園に駐車
して ふいご峠へは シャトルバス(有料)で往復しました。 林道が狭いので 車は 通行禁
止となっていました。 ふいご峠(駐車場)から 歩いて 松山城へ。 城の石垣は 大岩を利用
したところもあり 崩れそうで 地震計が 設置されていました。



備中松山城は 延応二年(1240)に 有漢郷の地頭秋庭三郎重信が 臥牛山の大松山に
砦を築いたことに始まる。 元弘年中(1331~34)には、秋庭氏にかわり 備後の
三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康が 大松山に 入城。 この頃には 縄張りは 小松山
まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。
その後も 城の縄張りは 変遷を遂げ、城主は 高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、
永禄四年(1561)には、安芸の毛利元就の支援を得た 成羽鶴首城城主三村家親が 尼子
氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。・・・・・・



北にある大松山城跡へ向かいます。 大松山城跡は 臥牛山の北端にあたる所で、承久の乱後
(1240) 秋葉三郎重信が この地へ築城(砦)に着手しましたが 城地が広く、一度には
完成できなかったといわれています。 この辺りには 60種のシダが 自生し、ワラビ、ベニ
シダなどが見られましたが・・・今は ヒノキの植林地となり・・・。

残念ながら この当時は 大松山城跡が 臥牛山であるこに 気づいていませんでした。 も
っと北の三角点のある 478.3mの山が 臥牛山と思い込んでいました。
臥牛山?へ行きます。 大松山城跡から つり橋までは 凄い倒木のジャングルで これを
越えるには 難儀しました。 つり橋を渡り、北へ歩きますが 登り口が分からず 通り過ぎ
て 林道終点まで 行ってしまいました。 引き返して 臥牛山へ登りました。 ここに 三等
三角点:今津478m が ありました。 木が切られ 平坦地になっています。
戻る際は つり橋は渡らず、切通、堀切、番所跡を歩き、大松山城跡へ戻りました。


臥牛山(標高487m)は 古くは 松山と呼ばれていましたが、江戸時代に入り、牛が伏
せた姿に似ているところから 臥牛山と呼ばれるようになりました。 北から 大松山、天神
の丸、小松山、前山の4つの峰からなり、東北の一部が 連らなるほかは、そそり立つ急斜面
の断崖を要した自然の要害で、ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈する。
動物も 豊かな餌植物と 地理的条件から 多種多様なものが 混棲し、古くから ニホンザル
(国の天然記念物指定)の生息が知られる。
※下の写真の臥牛山とあるのは 私のお思い違いで 北の三等三角点:今津 です。




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今回の山歩きは 2005.3.29に登った 備中松山城と 北の臥牛山487mです。
備中松山城は 岡山県高梁市の高梁川の東にあります。 高梁市のHPによると
標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守の山城として
は 最も高い所にあり 江戸時代に建てられた 現存12天守のうちの一つです。
鎌倉時代、有漢郷の地頭秋庭重信が 大松山に城を築いたのを起源とし、天和三年(168
3)に 水谷勝宗によって 3年がかりで 修築され、今の天守の姿になりました。 この地は
山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は 激しい争奪戦が
絶えず、目まぐるしく城主交代が 繰り返されています。



登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたち
が 舌を巻いた ”難攻不落の名城” の面影をうかがい知ることができます。 白い漆喰塗りの
壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。 秋には 大手門付近の木々が紅葉
し、岩壁が 燃えるような朱色に覆われる景色は 圧巻です。
※ふいご峠から 城の本丸付近へは 山道を徒歩20分程度の道のりとなっています。 整備
されてはおりますが、滑りやすい部分もありますので、歩きやすい靴で気を付けて お進みください。



小松山城跡(備中松山城)は 小松山の山頂を中心に 築かれた近世城郭で、場内には 天守、
二重櫓、土塀の一部が 現存しており、昭和16年には、天守に 国宝(昭和25年に 重要文化
財)の指定を受けている。 平成6年度から 本丸が 復元整備され、本丸南御門をはじめ、東
御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが 復元されています。


05年に登った時は 桜のシーズンだったからか 城見橋公園まで 車で行き、公園に駐車
して ふいご峠へは シャトルバス(有料)で往復しました。 林道が狭いので 車は 通行禁
止となっていました。 ふいご峠(駐車場)から 歩いて 松山城へ。 城の石垣は 大岩を利用
したところもあり 崩れそうで 地震計が 設置されていました。









備中松山城は 延応二年(1240)に 有漢郷の地頭秋庭三郎重信が 臥牛山の大松山に
砦を築いたことに始まる。 元弘年中(1331~34)には、秋庭氏にかわり 備後の
三好氏の一族である高橋九郎佐衛門宗康が 大松山に 入城。 この頃には 縄張りは 小松山
まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。
その後も 城の縄張りは 変遷を遂げ、城主は 高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、
永禄四年(1561)には、安芸の毛利元就の支援を得た 成羽鶴首城城主三村家親が 尼子
氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。・・・・・・








北にある大松山城跡へ向かいます。 大松山城跡は 臥牛山の北端にあたる所で、承久の乱後
(1240) 秋葉三郎重信が この地へ築城(砦)に着手しましたが 城地が広く、一度には
完成できなかったといわれています。 この辺りには 60種のシダが 自生し、ワラビ、ベニ
シダなどが見られましたが・・・今は ヒノキの植林地となり・・・。



残念ながら この当時は 大松山城跡が 臥牛山であるこに 気づいていませんでした。 も
っと北の三角点のある 478.3mの山が 臥牛山と思い込んでいました。
臥牛山?へ行きます。 大松山城跡から つり橋までは 凄い倒木のジャングルで これを
越えるには 難儀しました。 つり橋を渡り、北へ歩きますが 登り口が分からず 通り過ぎ
て 林道終点まで 行ってしまいました。 引き返して 臥牛山へ登りました。 ここに 三等
三角点:今津478m が ありました。 木が切られ 平坦地になっています。
戻る際は つり橋は渡らず、切通、堀切、番所跡を歩き、大松山城跡へ戻りました。





臥牛山(標高487m)は 古くは 松山と呼ばれていましたが、江戸時代に入り、牛が伏
せた姿に似ているところから 臥牛山と呼ばれるようになりました。 北から 大松山、天神
の丸、小松山、前山の4つの峰からなり、東北の一部が 連らなるほかは、そそり立つ急斜面
の断崖を要した自然の要害で、ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈する。
動物も 豊かな餌植物と 地理的条件から 多種多様なものが 混棲し、古くから ニホンザル
(国の天然記念物指定)の生息が知られる。
※下の写真の臥牛山とあるのは 私のお思い違いで 北の三等三角点:今津 です。












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