私の日帰り散策

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歴史教室5 赤松一族と被官たち

2024-05-21 13:43:22 | 歴史探索

  5月21日(火)   天気:晴れ    室温:26.3℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川 秀昭さんの 「赤松一族と

被官たち」 です。 今回は、時間に余裕がありそうだったので、今までのまとめとして <赤松氏の栄枯盛衰>

の説明がありましたが、意外と時間がかかり 最後は 超スピードでした。 来月は、赤松氏ゆかりの史跡紹介

の予定で、これで 赤松氏の話は 終わります。  今回も 簡単に紹介します。

1.赤松氏の栄枯盛衰

 <前期赤松氏>・・赤松円心~則祐~義則~満祐・・赤松惣領家滅亡

      

 <後期赤松氏>・・赤松政則~義村~政村~義祐~則房・・赤松惣領家は終焉

        

  。。。。。 赤松一族と被官たち 。。。。。

Ⅰ 赤松氏と被官

 1.赤松氏と国人たち(元弘の乱 挙兵時)

  ・赤松氏とは、もともと作用荘赤松村を本拠とする地方武士(姓として名乗る地をもつ)ーこれを国人と呼ぶ

  ・赤松氏は、西播磨の国人の一人といえる。それが、元弘の乱を機会に飛躍を遂げ、守護から幕府の四職の一に

  ・赤松円心 挙兵(元弘の乱)と国人たち

  ・赤松円心の率いた一族:作用、宇野、小寺、得平、別所、柏原、上月、間島、櫛田、赤松、頓宮・・

 2.赤松氏は 守護として、どのように播磨を支配し 統合したか

  (1)鎌倉時代の守護

    ・源頼朝、御家人を 荘園・公領の地頭及び守護に任命することを勅許される(事実上の鎌倉幕府創設)

  (2)守護の変質:鎌倉時代後期から 守護の在り方が変わり始め、南北朝の内乱~明徳の間に守護の変質明確に

    ・南北朝内乱の間に 守護は次第に地頭など 有力武士(国人たち)を支配下に組織し・・幕府は認める

    ・施設遵行権・苅田狼藉権を認める ー守護職権の拡大ー

  (3)被官(ひかん)

   ・南北朝時代から 戦国時代半ばまで、この時代、支配下の武士たちを 「家臣・家来」とは使わず 「被官」の語

  (4)赤松氏の播磨支配・・赤松則祐が 晩年、禅律方頭人になった時から、本拠を京都に移す。(在京制)

   ・赤松氏の分国支配体制・・分国支配は、守護代に 補任された有力被官を中心に行われた

   ・守護奉行人:在京奉行人(守護赤松氏のもとで)、在国奉行人(播磨にいて、守護の命を承り)

   ・守護赤松氏の命令系統:守護⇒守護代⇒郡使・守護使

   ・国衙在庁官人の被官化

   

Ⅱ 赤松一族と被官

 ◆赤松三十六家 (赤松円心時代 または 範資光範時代)

  別所、宇野、小寺、釜内、野中、上月、萩原、櫛田、佐用、間嶋、太田、柏原、江見、豊嶋、在田、得平・・

 ◆赤松政則三十六家 (赤松政則時代 明応五年之書記)

  浦上、衣笠、宇喜田、別所、宍粟、小寺、宇野、有馬、櫛橋、神吉、後藤、堀、有田、上月、久米、永良、恒屋・・

 ◆赤松八十八家 (※嘉吉の乱に 坂本城軍評定に 馳せ集まった宗徒の侍 八十八人)

  依藤、佐用、小寺、上月、浦上、櫛橋、中村、大田、在田、間嶋、永良、宇野、別所、安積、薬師寺、神吉、

  志方、英保、魚住、七条、有馬、釜内、角田、福岡、福原、江見、長浜、衣笠、富田、粟生、内海、得平・・・

          所載:「赤松一族盛衰記」 (神榮赳郷著)

 ◆赤松氏略系図(出典:「赤松一族の盛衰」熱田公監修)

 ・円心の三人の息子 七条殿=範資、 伊豆殿=貞範、 惣領=則祐 から派生した血族を 特に 「御一家」と優遇

   ・御一家衆   ・御一族衆(多くが 赤松円心以前の古い時代に分家した家柄)  ・年寄衆 

 ・赤松氏の衰退と有力被官たちの地域権力化(16世紀半ばころまでに・・羽柴秀吉に制圧される)

     別所氏、明石市、依藤氏、在田氏、小寺氏、赤松下野守家、宇野氏

     

Ⅲ 主な被官たちの概要

 ・依藤氏(よりふじ):東播磨、加東郡東条村を根拠とする豪族、赤松氏年寄衆

 ・上月氏:赤松一家衆、西播磨の佐用郡佐用 西荘 上月(佐用町)を名字の地とする土豪

 ・櫛橋氏:武蔵七党の一党児玉党から分かれ、鎌倉時代 相模国 櫛橋郷に住み、櫛橋を名乗った

 ・安積氏:宍粟郡安積保の下司公文職を有する御家人、赤松氏の勢力が増すと、従い各地を転戦

 ・明石氏:明石郡明石郷を本貫とする一族、室町時代に 赤松氏の被官となり長禄の変にも参加

 ・魚住氏:家譜によれば 源満仲の五男・頼平の流れで、重仲が 明徳の乱の戦功で 魚住荘を賜って 性とし

 ・宇野氏:宇野宗清・頼季・国頼の三兄弟が 円心の挙兵を支え、その子孫が 播磨国守護代を務めるなど

 ・浦上氏:播磨国揖西郡浦上荘が 本貫地。 浦上一族を大きく発展させたのが 浦上則宗。 備前守護代

 ・海老名氏:相模国海老名郷を本貫地とした関東御家人。 承久の乱後の神補地として播磨国矢野荘に入部し、

 ・小寺氏:赤松氏の一族。 宇野氏から分かれた土豪。 小寺頼季は 護良親王の熊野落ちに勇名をはせた

 ・別所氏:赤松一族とされる。本貫地は 加西郡説と印南軍説があり、佐用郡の利神城との関係も伝えられる

      別所氏が 三木城を本拠にするのは 則治の時代からで、その後、東播磨に覇を唱え 戦国期を代表する勢力

 

 ※播磨国の御家人には、関東出身者が多い。 例えば、相模国出身の櫛橋氏、海老名氏、粕谷氏、

  上野国の飽間(あくま)氏、那波氏、武蔵国では、肥塚氏など。 これらの「西遷御家人」は、遠く 関東

  の地から 播磨に土着し、赤松氏の被官となった御家人も 多くいる。

 ※御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人を指す。その身分は、中世と近世とでは 意味合いが多少異なる。

 

 ※出典・参考文献:「赤松氏五代」渡邊大門著、「播磨赤松一族」濱田浩一郎著、「赤松一族盛衰記」神榮赳郷著など

    

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