私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室10 「明智光秀の娘・細川ガラシャ 波乱の生涯」

2020-10-06 16:48:07 | 歴史探索
 10月 6日(火)   天気:晴れ   室温:25.1℃

 きょうは 公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は 元城郭研究室長 中川秀昭さん
による 「明智光秀の娘・細川ガラシャ 波乱の生涯」 です。 9月の 「明智光秀の生涯と
足跡をたどる」 関連です。



1.明智光秀の娘・玉
 ・父:明智光秀、 母:妻木熙子(妻木城主・妻木範熙の娘)
 ・明智光秀の三女・玉(玉子)永禄6年(1563) 越前で生まれる
 ・光秀の子は 三男四女(母は 全て 妻木氏)
   ・男子:光慶(十兵衛)、十次郎、乙寿丸
   ・女子:長女(荒木村重 嫡男・村安妻→明智佐馬助秀満妻)、次女(明智光春 妻)、
       三女玉(細川忠興妻)、四女(小田信澄妻)    

2.細川忠興と婚姻、玉16歳
 ・織田信長の命ー織田家臣団の結束のため
 ・玉16歳、細川藤孝嫡男忠興(16歳)と婚姻 ・・天正6年(1578)
       -藤孝居城・勝竜寺城へ輿入れ~輿の授受形式
 ・玉:「容色殊ニ麗シク、歌ヲ吟シ、糸竹(琴)呂津(笛)ノ弄ビモ妙」『明智軍記』
 ・舅・細川藤孝:「一入(ひとしお) 最愛の嫁」
     天正7年(1579)長女・長を生む、天正8年(1780) 長男・忠隆を生む
  
 ・信長から 櫃秀・藤孝に 丹波攻略の命(光秀・郡司司令官、藤孝は 与力(上司と部下)

3.勝竜寺城から丹後宮津へ、玉18歳
 ・天正8年(1580).8 藤孝・忠興、丹後2郡拝領し 勝竜寺城から 丹後や畑山城へ移る。
               (信長に 宮津城築城の許しを請い、築城開始)
 ・天正9年(1581).2頃までに 宮津城完成(田辺城築城も 完成時期不明)
 ・玉、長女「長」、長男「忠隆」 も 宮津城に移る 

4.運命の暗転・本能寺の変、玉20歳
 ・天正10年(1582)6月2日 父・明智光秀が 主君・織田信長・信忠 父子を討つ
     犬の堂で 京からの飛脚が 本能寺の変を 急報
     「藤孝君・忠興君 御仰天御愁傷甚し」 『綿考輯録』
 ・細川父子は 剃髪(髪を切る)し、信長への弔意を表し、藤孝は 雅号「幽斎」を名乗り、
     忠興に 家督を譲り 田辺城に隠居ー光秀の援軍依頼を拒否
 ・明智光秀は、山崎の戦い(天正10.6.13)で、羽柴秀吉に敗れる
       -明智光秀、山崎小栗栖で 没(55歳)

5.玉を丹後・味土野に幽閉
 ・忠興は 玉に 「御身の父光秀は 主君の敵なれバ 同室叶うベからす」
 ・玉と離婚し、丹後・味土野(現京丹後市弥栄町)に幽閉する
   -輿入れの際、同行し 細川家に入った明智家家臣・次女など 同行
 ・味土野に幽閉されたとき、玉は 妊娠していた
 《謀反人・明智光秀の娘》の烙印
  ・子供たちと別れて住まねばならないつらさ
  ・忠興の側室お藤が 天正10年(1582)、「おこほ」をうむ
 ※玉の歌:「身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥(かっこう?)なく」


6.忠興と再婚、玉22歳
 ・幽閉から2年後、羽柴秀吉のとりなしで 忠興と再婚(復縁?)、宮津に戻る(天正12年(1584))
   のち 大坂玉造の細川屋敷に移る
 ・幽閉から解放されるも 細川屋敷で 監視・監禁生活
 ・天正14年(1586) 三男忠利を生む
 ・忠興は 「過度の嫉妬心」 を持ち、「極端な幽閉と監禁」 を行った
 ・忠興は、怒りっぽい。 独占欲が強く、異常に嫉妬深く 四六時中 監視している

7.キリスト教に救いを求める、玉25歳
 ・天正15年(1587)、忠興が 秀吉の九州攻めに 従軍(またとない好機)
 ・玉造細川屋敷から 次女たちに囲まれて 教会へ行く
   本能寺の変以来の運命の激変に対し、心安らぐ 教え仏教に見いだせず
 ・玉は、これまでに接した禅宗などの教えから 様々質問を投げかける⇒「洗礼を
   授けてほしい」、「教理本を拝借し 学びたい」 と願う
 ・しかし、教会は 関白秀吉の側室ではないかと疑い 警戒
 ・教会は 下僕に 玉たちを尾行させ、細川忠興室と知る

8.ガラシャ誕生、内面の変化
 ・天正15年(1587)、次女清原いとが 先に神父から洗礼⇒神父が洗礼の
   授け方を教える⇒清原いと(マリア)が 玉に細川屋敷で 洗礼を授けた
   のちに 洗礼名・ガラシャ(恩寵、神の恵みの意) ※清原いとは 剃髪
      玉の入信は 微妙な時期。 しかし 玉は 精神的な大転換を遂げる
 ※天正15年6月19日 秀吉、「伴天連追放令」 を発布
   天正16年(1588) 次女たら(多羅)、慶長3年(1598)三女まんを生む
 ※慶長3年(1598).8.18 豊臣秀吉没 と 関ケ原前夜(慶長4~5年)

9.細川屋敷で自害、玉38歳
 ・慶長5年(1600).6.18:徳川家康、会津・上杉景勝討伐へ出陣
             6.27:忠興・忠隆(長男)ら 家康配下として宮津出発
 ・慶長5年6月下旬:石田三成方が 挙兵.。 7月13日から 関東出陣諸大名の妻子などを
   人質として 大坂城に集めるよう画策
 ・7月16日 石田方から 「表向きの使い」 正式に 「内室登城候得」
   玉は、敵が入ったならば 自害する。 小斎が 介錯するように命ず)
 ・7月17日:石田方の使い 玉造の屋敷を囲み、内に押し入る様子
   玉は 次女たちに暇を出し、次女二人(霜・おく)に 遺言及び子供たちへの
   形見の品・手紙を託し、小笠原小斎秀清に 胸元を 長刀で突かせ 自害した(玉38歳没)
    (玉は キリシタンであり、教義上 自殺は 禁じられていた)
 ・小斎は、部屋に 火薬を撒いて 火をかけた後、小笠原小斎秀清、河北石見一成は 切腹し、
   河北の家人・河北六右衛門が 二人を介錯。 自らも 切腹し 果てた・・『於しも覚書』
 【玉・辞世の句】 「散りぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 ※細川ガラシャ年表・・・割愛します
 ※参考文献 『細川ガラシャー散りぬべき時知りてこそ』 田端泰子著(京都橘大学 元学長)
       『細川ガラシャ』 安廷苑著   など
 
 ※細川藤孝(天文3年~慶長15年 77歳)、細川忠興(永禄6年~正保2年 83歳)、
  細川忠孝(長男)、細川興秋(次男)、細川忠利(三男)の説明および細川家の家系図も省略します。
 
 ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・
≪追記≫
 11月6日の新聞に 京都・八幡山城という記事が 載っていました。 それによると
 京都府宮津市は 戦国武将・明智光秀の娘、細川ガラシャゆかりの地だ。 光秀の盟友だった
細川藤孝(幽斎)の息子忠興の妻として、光秀が 主君の織田信長を討った後は 逆臣の娘として、
悲喜こもごもの日々を送った。  市街地を見下ろす八幡山に 八幡山城がある。  細川家は
1580年に 信長から丹後を拝領し、宮津城を築くまで、ここを拠点とした。 市役所傍の広
場には 2013年に造られた 「細川ガラシャ婦人像」 がある。
 細川ガラシャ: 1563年。明智光秀の娘として生まれ、細川藤孝の息子の忠興に嫁いだ。
82年の本能寺の変で 離婚・幽閉されたが、2年後に 解かれた。 細川屋敷に映った後、ガ
ラシャの洗礼名を受けた。 関ケ原の戦い直前、石田三成の人質になることを 拒んで 屋敷に
火を放ち、その生涯を終えた。

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