私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 西国街道篇 ①改

2020-04-14 13:59:51 | 歴史探索
 4月14日(火)   天気:晴れ   室温:19.1℃

 きょう あるところで FMゲンキのフリーマガジン ”2020春号” を入手しました。 今回の
”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く” は 西国街道①改 (大手前~船場~龍野町)です。
 このルートは 以前 紹介され 歩いたことがありますが 今回は リメイク版です。  初めに
平成27年7~9月号から掲載をスタートした小稿。 今回の区間は 第1回に とり上げているので
すが、内容が 薄過ぎて 読み返すたびに 凹むので 再度 とり上げさせていただきます とありますが
武徳殿跡、姫路警察署跡、靄楽園跡、高札場、境橋 など 今は 見ることのできない箇所が多く、歩
いても 面白くないかも・・・。 以前 このフリーマガジンを参考に 西国街道 大手前~龍野町
を歩いたときのページ(2015.9.4) は <こちら> を見てください。
  
  
1.城下町建設以前
   陰陽師 芦屋道満の子孫とされる 芦屋道海が 1576年に著した 「播磨府中めぐり」 では、その頃の姫山
  周辺の様子を 「姫山の南に 戸数100戸ばかりの中ノ村があり、その南に 100戸ばかりの宿村、その
  南東に 約40戸の高尾の宿村があった」 と記しています。 「府中」 とは 国府に由来する地名です。
2.西国街道
   16世紀後半頃の姫山周辺には、先述の中村と宿村のほか、宿村の西に 福中村、宿村の東に 國府寺村が
  あったとされ、池田輝政の城下建設にあたっては、これらの村は 解体され 城下に組み込まれました。
   秀吉時代にも 城下町は 形成されていたと考えられていますが、それは 城の北東部の生野町、竹田町、
  堺町辺りであったと推測されています。
   市川を渡河し、外京口門から 外曲輪に入った西国街道(山陽道)は、中曲輪を避けるように 大国町で
  南下し 元塩町で 右折、坂本町まで 西進し 備前門から 船場川を渡ると 北上し、龍野町から 西進しますが
  この不自然な南下と北上は、輝政の城下建設により 西国街道が 付け替えられたことを示唆しており・・・
3.高札場
   姫路城の大手門と中ノ門を結ぶ大手筋と本町通の交差する辻の南西隅に 高札場があり、藩からの触書が
  掲げられていました。 キリシタン宗門禁止や 捨馬禁止令などが 多かったそうです。
4.二階町通り
   地図上の表示と異なり、城下が 建設された頃は、西国街道は 本町通を通過していたと 考えられています。
  江戸末期の姫路藩士 福本勇治が 著した播磨の 「村翁夜話集」 には、築城から20年余りの寛永の頃、中堀に
  堆積した泥土を さらい、その泥土で 西国街道の坂本町の道を補修したが、道がぬかるんで 通行に支障をき
  たし、人馬は 本町で南に下って 俵町を西進して 福中町に出た・・とあるそうです。
   その後、こちらが 往還(西国街道)と呼ばれるようになったそうです。
5.中ノ門跡
   中曲輪正面5門の中央にあるので 中ノ門。 外門は 南向きの高麗門(切妻屋根)。 内門は 東向きの
  櫓門(門の上に櫓)。 外門の外に 出番所、内に 大番所があり、内門に接して 櫓が設けられていました。
  中曲輪には 武家屋敷が置かれましたが、特に 中ノ門と大手門を結ぶ筋には 大身家臣の屋敷が置かれました。

6.長壁神社
   祭神の刑部大神は、古くから姫山の地主神として祀られ、羽柴秀吉の築城の際に 城下の外れに移転しまし
  たが、1583年 長壁神社として 新たに 総社に祀られました。 輝政の姫路城築城後、場内に異変が続き、
  輝政夫妻への呪いを予言した怪文書騒ぎが起こり、輝政も 病身となります。 このため 輝政は 城内に 社殿を
  建て、刑部大神を遷座したところ 病が治まったという 逸話が残っており 池田家は 実際に 八天塔を建てた。
7.姫路警察署跡
   明治34年、旧飾磨県庁舎(龍野町) から 移転。
8.靄楽園(あいらくえん)跡
   酒井家家老 本多家の下屋敷の池泉回遊式庭園を 靄楽園と称しました。 その後は 料理旅館として 不動の
  地位を築き、阪神間にも 名所として知られたそうです。

9.武徳殿跡
   日露戦争後、武道奨励から 武道殿設置の世論が盛り上がり、当時の姫路警察署長 海江田権蔵ら 有力者を
  中心に 寄付が集められ、明治40年 姫路藩の監獄後に 建設されました。
10.竪町
   1608年の町割りで 成立しました。 立町とも書かれたそうです。 江戸期の地誌 「播磨鑑」 によると
  姫路七不思議の一つとして 「横に竪町」 と言われていたそうです。 「横に長いのに 竪町」 とか・・・
  竪町筋の楯のラインは、池田輝政の城下建設において 町割りの基準となる重要な基準線でした。 ラインを
  定める時は、竪町筋から 広峰山を望んで決めたと考えられています。
11.鵰門(くまたかもん)跡
   名前の由来は 不明。 外門は 高麗門、内門は 櫓門で。外門を入ったところに 番所がありました。
  中曲輪の門のうち、土橋(撤去できない)のあった門は 中ノ門と 鵰門だけだけです。
12.福仲橋・西国橋
   先述のように 中曲輪以内は 陸軍省の管轄となった一方で、外曲輪における城郭の構造物は 大蔵省の管轄
  でした。 明治6年には 城郭構造物の諸門は 撤去・払い下げられましたが、それに伴って 町民から 道路改修
  の要請が起こりました。 二階町から福中町を経て 備前門に至るには、「コ」の字状に迂回しなければ・・・
13.船場本徳寺
   浄土真宗の播磨の布教拠点として 蓮如により開かれた 英賀本徳寺は、英賀城落城後により 秀吉によって
  1582年 亀山に移され 亀山本徳寺になりました。 その後、京都の本願寺は 東西の二派にわかれ、亀山
  本徳寺は 東派に 属しましたが、姫路藩主 池田輝政が 東本願寺の教如と不仲になり、領内の信州寺院を亀山
  本徳寺から外し、すべて 西派に替わらせたため 亀山本徳寺も 西派に属することになりました。
14.白鷺橋
   大正の初期から 姫路城の中堀は、公共用地確保の目的で 埋め立てが進められました。 昭和7年からは
  城南部の約20mの中堀が 埋め立てられ、翌8年 船場川に架かるこの橋の竣工を待って 国道2号線が 開通
  しました。 その後、昭和20年7月の姫路空襲で 周辺一帯は焦土と化します。 その時の黒い焦げ跡は・・・
15.車門跡
   船場川沿いに設けられた城門。 二重枡形で 前に木橋が掛けられ、その北に 船場川へ出るための水門 車
  道門があったためこの名前になりました。 第一門・第二門は いずれも高麗門、内門は 櫓門で 第一門の横に
  番所がありました。 中曲輪の門の構造としては 最も重要で 西郷への軍事的出入り口として 重要な役割を
  担っていました。
16.龍野町
   龍野へ通ずる街道の入り口だったのと、龍野辺りからの移住者が 多かったことが 町名の由来とのこと。
  英賀落城後、秀吉は 寺内町としての自治都市英賀の存続は許さず、徹底的に 解体しましたが、英賀一向宗には
  厳しい処断は行わず、英賀御堂に 寺領を寄進し 亀山に移しています。 門徒の多くは 秀吉によって 龍野町に
  移されました。 これは 寺と門徒を分離する目的があった言われていますが・・・。
17.ノコギリ状の街並
   姫路城かでは 野里地区でも見られるノコギリ状の道路。 敵の攻撃から身を隠すためとも、あとで斜めの
  道路ができたからとも 言われますが、実際のところは よく分からないそうです。
18.境橋
   たつの町と隣接する濃人町の境界に 架かる橋。 1749年、姫路に入封した酒井忠恭が 一帯を整備した
  際に架けられたそうです。 家格を維持する費用や 放漫財政のため 前任地の前橋6万石で 赤字財政に陥って
  いた酒井家では、表向き15万石で 実収は はるかに上といわれた姫路への国替えによって 窮地を脱しようと、
  家老 本多光彬らが 藩主和田既婚で 転封を推進しますが、反対派の家老・川合定恒と激しく対立。
   結局、川合を通さずに 秘密裡に国替えが行われました。 定恒も 藩主の説得で受け入れますが、入封準備に
  向かった姫路は 寛延の大一揆のあとを 大雨による大洪水が 襲うという最悪の状況でした。 定恒は 独断で避
  難民を城内に収容、備蓄米被災民に 与えますが、酒井家の財政は ますます悪化しました。
   後始末を終えた定恒は 光彬らを殺害したのち 自害。 川合家は 断絶しますが、のちに 息子の宗見が 累進し
  家老に復職。 そして、この宗見の息子が のちに 姫路藩の財政を立て直す河合道臣(寸翁)です。
  ちなみに この境橋は 「世界一短い90cmの橋」 として 「ナニコレ百景」 に登録されています。
 
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