私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室 「榊原政岑と高尾大夫」

2017-02-07 16:05:25 | 歴史探索
 2月 7日(火)   天気:晴れ 時々 雲    室温:15.5℃

 きょうは 公民館の歴史教室へ行きました。 1月は 休講でした。
今月は 元城郭研究室長 中川秀昭さんの 「姫路城主・榊原政岑と高尾大夫」 です。 公民館だより
を 見たときは 榊原政岑も 高尾大夫も 聞いたことがないので 難しい話かと 思いましたが 城主・
政岑(まさみね)が 吉原の遊女・高尾大夫を身請けし 謹慎を命じられ 越後へ転封になる経緯の
話で 面白い話でした。


 旭陽公民館資料    姫路藩主・榊原政岑と高尾大夫

1.榊原氏
 ・榊原氏の先祖は 清和源氏の系譜を引き 清和源氏から出た 「二木氏」 が 榊原氏の先祖。
 ・伊勢国守護・二木義長の孫 利長が 一志郡榊原村に 住し 榊原を 称す。
 ・利長の二代後の榊原清長が 尾張・織田家の家来になり 代々榊原家は 松平家に 仕える。

2.榊原家の家紋
  榊原源氏車 : 貴族が用いた牛車の車輪を 横から描いた 車輪紋の一種(姫路城に残る軒丸瓦)



3.徳川四天王の一人・榊原康政の活躍
               天文17年(1548)~慶長11年(1605) 59歳 没
 ※徳川四天王は 徳川幕府の創業期を支えた 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人
 ・天文17年 三河国上野(現愛知県豊田市)で 榊原長政の次男として 生まれる。
 ・永禄3年(1560) 桶狭間の戦いの直後 今川家を離れ 岡崎に戻った松平元康(徳川家康)が
  鴨田村 大樹寺で 学ぶ康政を見出し 小姓として 取り立てる。
 ・以来 家康に仕え 本多忠勝とともに 「旗本先手役」 として 活躍。
 ・元亀元年(1570) 姉川の戦い、天正3年(1575) 長篠の戦い 天正12年(1584) 小牧・
  長久手の戦いなどで 武勲。 特に 長久手の戦いでは 豊臣秀次を壊滅させ 森長可・池田
  恒興(池田輝政の父) が 討死。
 ・天正18年(1590) 徳川家康が 関東移封されると 上野・館林で 10万石を与えられる。
    

4.榊原氏の系図(略系図)
  榊原康政の長男・忠政は 大須賀家へ養子に。 次男・康勝が 榊原家を継ぐ。 その子・勝政は
  側室の子だったからか 忠政の子・忠次が 3代目を継ぐ。 5代・政倫のあとは 康勝の子・勝正
  の孫・政邦が 6代となる。 7代・政祐のあと 次男が継ぎ 次男・勝治の次男・政岑が 8代となる。
  この8代・榊原政岑が 今日の主役で 「末期養子」 となり 家督を相続、勝岑を 政岑と 改め
  享保17年(1732) 姫路城主になる。


5.榊原氏 藩主在任期間と 城地一覧(省略)
  姫路藩主
  第1次 榊原氏 慶安2年(1649)~寛文7年(1667) : 榊原忠次⇒榊原正房
  第2次 榊原氏 保元元年(1704)~寛保元年(1789) : 榊原政邦⇒榊原政祐⇒榊原政岑⇒
                                       榊原政永
  ※榊原政祐 28歳没。 末期養子で 政岑 家督を継承。 政岑 隠居・謹慎を命じられ 政永が
   7歳で 家督を継ぐが 越後高田へ 転封。
  ※「末期養子」 とは 江戸時代に 武家当主で 嗣子のないものが 事故・急病などで 死に
   瀕した場合に 家の断絶を防ぐため 緊急に 縁組した養子のこと。
   江戸時代 初期には 末期養子は 江戸幕府により 禁じられていた。 3代将軍・家光の世
   あたりまで 嗣子がないため 取り潰される武家(改易)が かなりあった。

6.姫路藩主・榊原政岑の略年表
  旗本(1000石)の次男坊から 兄の突然の死により 旗本榊原家の家督継承、更に 1年後
  本家筋に 嗣子がなく 末期養子で 家督継承、姫路藩主に。
 ・正徳5年(1715)5月、旗本・榊原勝治の次男として 生まれる。
 ・享保13年(1728) 兄・勝久が 急死し 大須賀家再興は 棚上げとなり 実家の榊原家の
   家督を継ぐ。
 ・享保17年(1732) 姫路藩主・榊原政祐が 急病になり 勝岑が 末期養子となり 家督相続し
   姫路藩主に。 名を 政岑と改める。
 ・享保20年(1735) 陸奥白河藩主・松平基知の養女・久姫と 婚姻。 長男・政純が生まれる。
 ・寛保元年(1741) 新吉原 三浦屋の遊女・高尾大夫を 身請けする。
             将軍吉宗より 政岑に 「不行跡」 により 隠居・謹慎が 命じられる。
             家督を 子の政純(最初の子小平太7歳)に譲る。 更に 姫路より
             越後国高田へ 転封となる。
 ・寛保3年(1743) 政岑 没す。(29歳) 春日山 林泉寺に 葬られる。


7.榊原政岑の 「不行跡」 と その顛末
 ◇榊原家 家臣・太田原儀兵衛の立ち退き・諫表(諫め状)の提出
 ・享保19年(1734)4月 太田原儀兵衛からの 「太田原諫表」 提出。
  <部分1>
   まず 申し上げるべきは 一番に 市之橋の御私宅(今の好古園) のことでございます。
   東御屋敷さえ広すぎるというのに お欲に任せ お奢りが長け過ぎのことだと存じます。
   お勝手(財政)が ご富有(裕)の時でさえ 無用の出費をすることは ご人君の身分では
   特に 不行跡のことであるのに 只今のお勝手は 一通りの不勝手というようなものではなく
   御家の損亡にかかわるほどである という時節であります。
  <部分2>
   第二番には 御衣服。 女服のようなる物を お召しになることは 不行跡であります。(中略)
   御身を お汚し遊ばされるようなもので 御貴人様のお心がけに このような下品で 物好きな
   趣向があるとは 存じませんでした。 畢竟(ひっきょう) お年若の時分 悪しき所へ 遊行され
   御身を 汚された御癖を お止めにならないからで あろうと 存じます。
 ◇『徳川実紀・「有徳院殿御実紀付録」 巻七』 要約
  ・「吉宗が 鷹狩に出かけるとき 大手門番だった 政岑は もえ出るような 萌黄のこはく(以下略)
 ◇高尾大夫の落籍と榊原政岑の隠居・謹慎
  ・寛保元年(1741) 政岑は 江戸・新吉原 三浦屋の名妓・高尾大夫を 200両で 町人の名義で
   落籍(身請け)し 出廊させ 池之端の榊原家中屋敷に 住まわせた。・・(以下略)・・
  ・6月19日:参勤交代で 姫路に向けて 江戸を 出発。
  ・7月15日:姫路に 到着。 高尾大夫を西御屋敷に住まわせる。
  ・9月16日:月番老中・松平信祝の使いが 榊原家上屋敷へ。 老中から 呼び出しがあったことを
         伝えた。 榊原上屋敷・聞番 竹田矢左衛門信恒が 松平信祝の屋敷を訪ねると 国へ
         遣わすよう一通の 「奉書」(将軍の意を伝える文書) を渡される。
  ・9月20日:「写し」 を持った使い 姫路藩着、9月21日 「奉書」 を持った使い 到着。
  【奉書の内容】
   「この度 御用の儀があるので 参府するようにと 吉宗が おおせ出されたので そのようにしな
    さい。 なお 6,7日 準備して 出発するように。 道中は 急ぐ必要はなく 普通の日程でよい。
    供回りは 少なくするように」
  ・9月26日:姫路を出発。
  ・10月12日:江戸へ到着。 政岑は 病気を理由に 家来に届けさせる。
    < 私は 只今 江戸へ着きました。 道中 持病の痔疾が痛み 難儀致しました。 その上 下血も
     致して めまいが致します。 気分が塞ぎ 歩行も困難でありますので 使者をもって 到着の
     報告を致します。> 
  ・10月13日:榊原家重臣たちが 老中に呼ばれて 出頭。 老中他 列座の前で 書付を渡された。
  【政岑あて】
   ・吉宗が 不行跡を聞かれて 隠居を申し付けられたので 急度 慎むように
  【榊原小平太あて】
   ・家筋を 思召されて その方へ 家督を継ぐことを許された。 追って 所替えが命じられる。
  【榊原家老あて】
   ・政岑に 隠居を申し付けた。 小平太は まだ 幼少の上 江戸に住んでもいない。 家老たちが 万端
     謹んで 諸事念を入れて 取り計らうように。 火の元などには 特に念を入れよ。 榊原小平太には
     勝手次第に 出府させるように。
   ・11月1日:小平太に 越後高田への所替えが 命じられる。
   ・寛保2年(1742)3月:高田城受け取り、姫路城引き渡しが 終了。
      5月13日:政岑 江戸池之端屋敷を発ち 5月20日 高田に 到着。
   ・寛保3年2月17日:榊原政岑 没す。 29歳。 春日山林泉寺に 葬られる。


 ◇その後の高尾大夫
  ・政岑が 隠居・謹慎し 高田へ移った際にも 同行。 政岑の没後は 落髪して 尼になり 「落飾」
   (連昌院)、政岑への貞節を貫く。 政岑の墓がある林泉寺には 高尾が寄進した 「打敷」 が
   伝わる。 その後 谷口氏(政岑の側室)の招きで 江戸池之端屋敷に移り 終生 政岑の菩提を
   弔って 暮らしたという。
  ・天明9年(1789)1月19日 没。 本立寺(池袋) に 葬られた。

8.江戸吉原と高尾大夫
 ◇幕府公認遊郭の誕生
  ・元和3年(1617):庄司甚右衛門を 惣名主として 江戸初の公認遊郭「葭原」 の設置許可。
  ・元和4年(1618):遊郭 「葭原」 の営業が始まる。(昼間営業)
  ・寛永3年(1626):「葭原」 から 縁起の良い文字 「吉原」 へ 名称変更
 ◇「元吉原」から 「新吉原」 へ
  ・明暦2年(1656):幕府が 吉原から 千束村へ移転命令(明暦の大火を経て)
  ・明暦3年(1657):新吉原での営業始まる。 夜間営業も認められる。
  ・宝暦年間(1751~ 63)終わりころ:「太夫」という名称は 滅び それに代わって
   「花魁」(おいらん) が 出現

 ◇高尾大夫
  ・太夫:遊郭の中では 最上級の遊女で 茶道、華道、香道、三味線、琴、囲碁、将棋、和歌、
    文芸なども たしなむ 才色兼備の女性であった。
  ・高尾大夫:江戸吉原 三浦屋に伝わる大名跡。 榊原政岑が 落籍した高尾大夫は 諸説あるが
    10代目といわれる。 政岑とは 元文(1736~40)のころ 馴染みになったという。
    高尾大夫には 他に 仙台藩3代藩主・伊達綱宗ゆかりの仙台高尾や 落語の 「紺屋高尾」
    また 大名の吉原通いも 珍しくはなく 備後三次藩主・浅野因幡守長治が 落籍した4代目
    の浅野高尾などがいる。
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
下の墓碑は 2015.12.7 書写山・円教寺を訪れたとき見た 榊原家の墓所のものです。
 墓所の前に 説明板があり それによると 榊原政房(江戸時代前期)と 榊原政祐(後期)の
墓碑があると 書かれています。 奥に 玉垣に囲まれ 2基の墓碑があり 亀趺に乗っています。
どちらが 政房の墓碑か 分かりませんが・・・・。


9.榊原政岑の家族
 ・正室:久姫(陸奥白河藩主・松平基知の養女・松平知清女
 ・側室:坂田氏(京都・島原遊女)、谷口氏(京都・島原遊女)、高尾(江戸・新吉原遊女)
 ・子供:4男(政純、政永、勝行(早世)、勝定(早世))
      3女(達姫(大久保忠由・室)、女(榊原長実妻)、女(早世))

 ※榊原家は 姫路藩主・池田家、酒井家ともゆかりがある。
  ・池田輝政嫡男・池田利隆の正室は 榊原康政女 (徳川秀忠養女) 鶴姫
  ・姫路酒井家・初代藩主・酒井忠恭の正室は 榊原政邦女・孝姫
 ※追記 : インターネットを見ると ”マックスくんのブログ” というのがあり そこに
  長壁神社の例祭(ゆかた祭)は 政岑が 最初に 町人も参加できる祭りにした といわれる。
  越後高田に 転封前、城内にあった長壁神社を 長源寺の境内に移し 町人が 服装を気にせず、
  ゆかた姿で 参加できるように 政岑が 許したのが 最初といわれている。
  現在は 毎年6月22日~24日まで 開催され、大手前通りと 周辺に 800件の夜店が 出る。
  転封後の政岑は 姫路時代とは 一転して 倹約に励み、新田の開墾や 貧しい農民に 竹細工の
  副業を 奨励した。 この変わりようは 一体何があったのか? 越後高田では 名君だったのか?
  政岑 寛保3年(1743年)2月19日 31歳で 亡くなる。
  分家の次男坊に生まれ 一生飼い殺しの身から、18歳で 15万石の殿様へ、波乱にとんだ短い生涯だった。 

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