8月17日(水) 天気;晴れのち曇り 室温:32.5℃
きょう 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ行った帰りに 丁・柳ケ瀬遺跡の現状を 見に行きました。
昭和54・55年に 発掘調査が行われ 30年以上経っていて 遺跡の碑もないので 痕跡を見るこ
とはできません。
遺跡は 丁地区全域に 広がっていると 思われますが 発掘調査されたのは 西汐入川周辺だけ
です。 今は むかしの西汐入川と 大津茂川をつなぐ 新しい川(西汐入川)ができ 橋が 何カ所か
架かり 護岸が整備されています。 むかしの西汐入川との分岐には 水門が設けられ 南の勝原
小学校側への流れは 遮断され 流れは 西の大津茂川へ合流しています。
先週の 「丁・柳ケ瀬遺跡」 の発掘調査報告書のページは <こちら> を。
むかしの西汐入川には 合流点の下流に 水門が設けられ 現在は 水が流れていません。 水門の周辺には
草や木が生え 川は 流れにくくなっています。 西汐入川は 細いが 勝原小学校の脇から 南へ流れ 西汐入
川橋や 室街道橋などを経て 瀬戸内海へと流れていますが 上流で せき止めてもいいのでしょうか。
大津茂川に バイパスする新しい西汐入川には 下流側から 花見田橋、清水橋、前田橋が 架けられてい
ます。 花見田橋の辺りには 桜の木はなく 花見はできそうもなく やはり 見田は 水田で 洪水の起こりや
すいという 地名だったのでしょうか・・・。
新しい西汐入川と 旧川との合流点の下流には 水門があります。 さらに上流には 家久田橋、丁橋があ
ります。 この辺は 桜並木になっていて 花見ができそうです。 丁橋の手前で 東に前方後円墳の県史跡・
瓢塚を 見ることができます。 柳ケ瀬遺跡の発掘が 行われたA、B地区は この辺りでしょうか。
丁橋の西詰には 「ひさご塚」 の道標があり さらに 上流には 瓢橋があり 西汐入川は 県道421号線を
越え 北東へ伸びています。 水源は 太子町の福井大池? ここから 引き返します。
丁橋の西に 道標があり 左 あぼし駅とあるので 左へ戻ります。 前田橋を渡り 南へ下ると 勝原小学校
があるので 校門の脇にある校歌の歌碑を見ていきましょう。 この歌碑を書いたのは 地元の代谷さんで
書道の先生でした。
。。。。。 。。。。。。。 。。。。。。。 。。。。。。。 。。。。。。。 。。。。。。。
きょう 朝日谷のカフェ・エルミタージュへ行った帰りに 丁・柳ケ瀬遺跡の現状を 見に行きました。
昭和54・55年に 発掘調査が行われ 30年以上経っていて 遺跡の碑もないので 痕跡を見るこ
とはできません。
遺跡は 丁地区全域に 広がっていると 思われますが 発掘調査されたのは 西汐入川周辺だけ
です。 今は むかしの西汐入川と 大津茂川をつなぐ 新しい川(西汐入川)ができ 橋が 何カ所か
架かり 護岸が整備されています。 むかしの西汐入川との分岐には 水門が設けられ 南の勝原
小学校側への流れは 遮断され 流れは 西の大津茂川へ合流しています。
先週の 「丁・柳ケ瀬遺跡」 の発掘調査報告書のページは <こちら> を。
むかしの西汐入川には 合流点の下流に 水門が設けられ 現在は 水が流れていません。 水門の周辺には
草や木が生え 川は 流れにくくなっています。 西汐入川は 細いが 勝原小学校の脇から 南へ流れ 西汐入
川橋や 室街道橋などを経て 瀬戸内海へと流れていますが 上流で せき止めてもいいのでしょうか。
大津茂川に バイパスする新しい西汐入川には 下流側から 花見田橋、清水橋、前田橋が 架けられてい
ます。 花見田橋の辺りには 桜の木はなく 花見はできそうもなく やはり 見田は 水田で 洪水の起こりや
すいという 地名だったのでしょうか・・・。
新しい西汐入川と 旧川との合流点の下流には 水門があります。 さらに上流には 家久田橋、丁橋があ
ります。 この辺は 桜並木になっていて 花見ができそうです。 丁橋の手前で 東に前方後円墳の県史跡・
瓢塚を 見ることができます。 柳ケ瀬遺跡の発掘が 行われたA、B地区は この辺りでしょうか。
丁橋の西詰には 「ひさご塚」 の道標があり さらに 上流には 瓢橋があり 西汐入川は 県道421号線を
越え 北東へ伸びています。 水源は 太子町の福井大池? ここから 引き返します。
丁橋の西に 道標があり 左 あぼし駅とあるので 左へ戻ります。 前田橋を渡り 南へ下ると 勝原小学校
があるので 校門の脇にある校歌の歌碑を見ていきましょう。 この歌碑を書いたのは 地元の代谷さんで
書道の先生でした。
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