私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

飾磨津散策 その1

2015-12-22 14:43:01 | 歴史探索
 12月22日(火) 冬至  天気:晴れ   室温:17.9℃

 きょうは 風もなく 穏やかな いい天気だったので 飾磨ヘドライブしてきました。 15日
の歴史教室で ”二つの網干” を 学び 飾磨に 網干し場という地名が あったということを知りま
した。 現在の網干し場が どうなっているのかを 現地調査し 天神信仰の浜の宮天満宮に お参り
し 思案橋にも寄って 菅原道真公の銅像も 見て来ました。
 久し振りに 国道250号線を 走りましたが 大型トラックも 多く 混雑して 走り難い・・・。
※この後 12月29日に ”飾磨津散策その2” で 国道250号線~山電飾磨駅周辺を散策しま
したが その時のページは ≪こちら≫ を。 

 というわけで 国道250線を東へ走り 飾磨港へ。 キップ売り場の前に 駐車場(30分
100円)があるのですが 満車で 停められません。 この辺を 歩いてみたかったのですが・・・。
乗船客ターミナルや フェリー乗り場や 乗船券売場の前を 写真を撮りながら 車でめぐりました。
海上保安庁の北に 海神社があったようです。 ここに 寄ればよかった・・・。 


 来る前 地理院を地図を見て 歴史教室の字限図と見比べていると 細い突堤の先に 碑が
あるようです。 漁港を北へ回り スペースに車を停め 石碑を見に行きました。 上に頌徳碑と
あるのは 判りますが 誰の碑か判別できません。 藤田翁?
 この突堤の北が 「網干し場」 ですが 昔の地図と 今の地図では 全然 違う。 突堤の北の
川の方に膨らんだ所は ありません。 網干し場は 野田川に流されて無くなった? 川の傍は
立派な道路になっています。 ちなみに 東萬才は 姫路みなとドーム・・・?

 藤田翁について調べると 弘化3年(1846) 200石超の船が出入りできない飾磨津河口を
改良して 湛保(港)が 築かれることになり 大浜の肥料問屋・藤田祐右衛門維昌を 中心に
丸亀港を参考に 6カ月で完成した。 藤田は この功績により 大年寄格となり 苗字も許さ
れた。  その顕彰碑のようです。 歴史教室で 勉強した 湛保や イワシを干して肥料にした
話から 肥料問屋につながり よかった。 

 網干し場?を 後にして 北の 「浜の宮天満宮」 へ行きます。 地図を見ても 駐車場があるかど
うか 判りませんでしたが うまい具合に 天満宮の南に 駐車場があり 4、5台 停められます。
 飾磨津は 古代以来 瀬戸内海水運の要衝として 栄え 平安時代末期・・・・・江戸時代に至ると
飾磨津は 姫路外港であるとともに 姫路藩水軍基地として 位置づけられ 池田輝政は 藩の米蔵
を 建設するため 宮町にあった天満社を 須加に 移設・・・。

浜の宮天満宮 由緒 (御祭神 菅原道真)
 当社は 旧郷社であり、10世紀の創建と伝える。 文化元年(1804)の 『播州名所巡覧図会』 には
「天満宮 浜の天神といふ」 とある。 飾磨橋西地区10ヶ町(江戸時代の飾磨津浦手六町のうち須加町・
宮町・大町と 岡手五町のうち 上町・細江町)の氏宮でもある。
 もとは 宮町に 鎮座していたが 池田輝政の飾磨津整備にともない 須加町に移転した。 当時 神社の
南は 松林で 近くまで 海が迫っていたようで 榊原政邦の飾磨江亭八景詩の中でも 「菅祠青松」 と
題して 詠まれている。

 境内には 江戸期の石造品があり 漁業関係者の銘が 多く見られる。 社殿は 戦災に遭ったが
元禄12年(1699)の石燈籠、宝暦10年(1760)の鳥居、寛政10年(1798)の手水鉢、天保13年
(1842) の大浜岩吉奉納の力石、慶応2年(1866) の生魚仲買中・魚売子中が 奉納した常夜灯な
ど 多くの石造品が残っています。 また 社前の石造の霊牛 (東側) は 明治11年に 越前や 加賀の
北前船・船主たちが 奉納したもので 飾磨津が 北前船の寄港地であったことを物語る 貴重な遺品で
ある。

  絵馬殿に 七福神の絵馬が 奉納してあります。 先ほどの突堤にあった会社が ポートサービス
だったと思いますが あの会社の前にも 七福神の石造仏が 2つありました。 なぜ?

 天満宮は 菅原道真を祀っていると思いますが 由緒に 菅原道真のことが 何もありません。
インターネットで調べると
・・・・ また、境内に祀られている 「えべっさん」 は 宮町の宮と 築屋敷・須加町の西部と 東部の4ヶ所に
あったものを 移したもので、このようなことから 漁業の神としての夷神を 祀ったものが 浜の宮の祭神で
その上に 菅原道真の天神信仰が 重なったものが この神社の歴史ではないかと思われます。

 境内で 門松を作っていた人が 思案橋の西に 菅原道真の銅像があると言われたので 見に
行くことにしました。   飾磨の思案橋の謂れは
 万葉の昔 一帯は 「津田の細江」 と 呼ばれる港だったそうだ。 バス停近くにある津田天満神社の野口
宮司に 橋の由来を尋ねた。  「それが、さまざまないわれがあって、どれが 真実か 分からないんです」
 平安時代、「学問の神様」 で 知られる菅原道真は 左遷となり、太宰府に流されることになった。  途中
道真は この地に 船を泊め 橋の上に立ち この先 陸路をとるか 海路を行くかを 思案したのだという・・・。

津田の細江
   風ふけば 波かたたむと さもらひに 都多のほそ江に 浦かくりをり
 「万葉集」 の 山部赤人の歌にある 津田の細江は 船場川の河口で 思案橋付近だと言われている。
古くから 港として 利用され 菅原道真が 大宰府に左遷される途中 立ち寄った所だという 伝承があり
大正13年に 「史蹟 菅公小憩伝説地」 と刻んだ石碑が建てられた。  青銅製の菅原道真綱敷の坐
像は 昭和37年に 造られたものである。 
 ほのぼのと 津田の細江の 水尾つくし まだ夜は深き 月の入り汐 と 菅公が 詠んだという歌が残っている。

 船場川にかかる思案橋の西詰の 「菅原道真公の坐像」 を見て 帰路につきます。
帰りも 国道250号線は 混雑しています。 夢前川の手前で 右折して 北へ走り
県道へ出て 京見橋を渡って 帰りました。
 網干し場の痕跡が 見つけられなかったのは 残念ですが 藤田翁の顕彰碑があり
勉強になりました。
 そうそう すっかり忘れていました。 歴史教室では 播但線・飾磨港線の話もあったのです。
「網干し場」 の西に 「東萬才」 という字名がありますが この辺りが 飾磨港駅だったようで
いまは 姫路みなとドームが 建っています。  廃線となった 飾磨港線を歩く人は 結構 おら
れるようで ページも いくつか出てきます。

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コメント
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